2.
科学的調査は、探偵小説と同様、認識論(同じ出来事を経験しても感じ方は人それぞれ違うという考え方)的なシステムで進められる。つまり、見えている事実からいかにして推論して全体像を解き明かすかが腕の見せ所となる。殺人者を特定するには、まず殺害方法を特定する必要がある。しかし、それは時として容易ではないことがあり、想像しているよりも難解であることもある。殺人に使われた凶器を見つけた後、複数に絡み合うさまざまな要因を解き明かさなければならないこともある。アーサー・コナン・ドイル( Arthur Conan Doyle )の ” The Adventure of the Speckled Band(邦題:斑の紐 )” では、シャーロック・ホームズ( Sherlock Holmes )はドアをすり抜けると推測される謎の殺人者を警戒した。彼は部屋の中の椅子に座って、寝ずに排気口の近くに注意を払っていた。毒蛇を使った殺人であることが判明した。毒蛇はロープを伝って立坑を登り、排気口を伝い被害者を噛んだのである。しかし、毒蛇が唯一の原因ではない。毒蛇は必要条件ではあるが、十分条件ではないのである。犯人は毒蛇が被害者を攻撃するようにするために、それを狂乱させ、興奮させなければならなかった。”The Hound of the Baskervilles(邦題:バスカヴィル家の犬 )”では、猟犬は人を殺すために襲いはしなかった。被害者を死ぬほど怖がらせただけであった。この猟犬が死の一因となった理由は、蓄光物質が塗られていたことにある。また、特殊な背景も理由であった。それは、被害者は自分の祖先が超自然的な怪物に取り憑かれていたという伝説に怯えていたことである。コナン・ドイルが伏線を張ることを好んだ理由は、ミステリーの複雑さを増幅するためであった。
何十年もの間、化学性刺激物( chemical irritant )は発癌物質研究者に構造的に同様の問題を与えてきた。化学性刺激物は、他の化学物質と組み合わせた場合のみ機能する。沼地に潜むパスカヴィル家の猟犬は、被害者に過去の因縁がなければ、何も引き起こさなかった。それと同様に、化学性刺激物が刺激を引き起こすか否かは、過去の曝露歴に依存している可能性がある(クロトン油は、その前に DMBA に曝露された場合にのみ、悪性病変を発生させる)。そして、コナン・ドイルの推理小説に登場する毒蛇や猟犬と同様に、化学性刺激物は単独では機能せず複数の要因に依存している可能性がある。刺激物は腫瘍の発生を促進するが、それはある種の開始剤が使われた後のみである。であるから、特定の物質の後か同時に使われた場合にのみ作用する物質に発癌性が有るか否かを調べる方法を確立しなければならない。
ベレンブルムとシュビックが実験結果を発表してから間もなく、アーヴィング・セリコフ( Irving Selikoff )という名の医師がニュージャージー州パターソン( Paterson )に診療所を開設した。労働者階級の多い都市である。診療所は、小ぎれいな机と椅子が数脚置かれていてスッキリしてモダンな感じであった。周辺では戦後に多くの工場が閉鎖され始めたが、アスベスト断熱材を生産していたパターソンズ・ユニオン・アスベスト・アンド・ラバー・カンパニー( Paterson’s Union Asbestos and Rubber Company )の工場はまだ稼働していた。その工場で働く多くの労働者が彼の診療所にやって来た。
セリコフは特に肺疾患に関心を持っていた。1950 年代初頭に、彼は抗生物質イソニアジド( isoniazid )を使って結核を治療する方法を学んだ(なお、この功績により、彼と数人の同僚はラスカー賞( Lasker Award )を受賞している)。すぐに、彼はアスベストにさらされた患者の肺に問題があることに気づいた。瘢痕化した炎症病変にカルシウムの沈着が認められたのである。「多くの労働者が、毎日、衣類や頭髪や手荷物などにアスベストの白っぽい繊維が付着した状態で帰宅していた。」と、タイムズ紙( the Times )は後に報じた。「耐火製品のサンプルを子供たちのおもちゃとして持ち帰ることもあった」。
それから数年で、事態はさらに不気味な方向へ進んだ。セリコフは、イギリスとドイツで行われた研究の結果を目にした後、多くの断熱材工場の労働者が中皮腫( mesothelioma )で死亡していると指摘した。中皮腫は、肺の外側や胸壁の内側を覆う膜(胸膜)に広がる致死率の高い比較的稀な癌である。X 線検査をすると、肺の背面と底部に癌の白い影がはっきりと浮かび上がる。中皮腫の悪性腫瘍はしばしば脊椎や胸壁に浸潤する。そうなると、苦しみながら死ぬこととなる。1960 年代初頭までに、セリコフは断熱材工場で長年働いていた 632 人の男性に関するデータを収集していた。数人については、長期間のデータを収集できていた。これらの男性の中でセリコフが肺癌や中皮腫と診断した者は 45 人であった。予想の 7 倍であった。胃癌、結腸癌、直腸癌の発生率は予想の 3 倍であった。
しかし、この工場の労働者の癌の主要因がアスベストであると特定されても、癌研究者たちはアスベストがどのようにして癌を引き起こすかを解明するのに苦労していた。それは、現在でも解明されていない。1977 年に発表されたある論文では、研究チームはさまざまな細菌株をアスベスト繊維に曝露させた。しかし、アスベスト繊維が突然変異と関連していることは確認できなかった。ある毒物学者による研究では、研究チームはアスベストに加えて他のいくつかの化学物質も曝露させた。それで、最終的には細菌の変異体が出現した。別の毒物学者の研究では、アスベストに曝露させたことによって動物の細胞に染色体異常を出現させることに成功した。さらに別の研究では、アスベストを注射されたマウスは癌を発症したが、アスベストのヒトに対する発癌物質としての効力を考慮すると、その潜伏期間は不可解に長かったことが判明した。そして、多くの村民がアスベストに曝露されたトルコの村の研究では、全く逆の結果が出た。高感度の検査を実施したものの DNA 損傷の増加は見られなかったのだ。アスベストへの曝露が癌のリスクを高めることは明らかであった。しかし、どのようなメカニズムであるかは明らかになっていない。クロトン油と同様に、アスベストは促進剤として作用するのかもしれない。最初に突然変異が引き起こされ、次に刺激剤を追加すると、細胞が腫瘍になるのが促進された。
煙や煤等が人間の身体に悪影響を及ぼすことは今では常識である。そのことを初めて認識した医師は、たまたま気づいただけであった。癌が突然変異した遺伝子の異常によるものとして理解されるずっと前、遺伝子( gene )や DNA という用語が医学用語として使われるずっと前のことであるが、パーシバル・ポット( Percivall Pott )というロンドンの医師が、煙突清掃に従事していた者たちに発見された癌性の陰嚢潰瘍について次のように書いていた。「彼らは幼い頃から狭い煙突の中に押し込められ、時には熱風に突き上げられ、打撲傷を負い、火傷を負い、煤(すす)を吸い込み、息の詰まる思いをしていた」。けれども、当初、彼らの症状は性病によるものと考えられていた(貧しい男性の性器に異常が見られて、その原因は乱交とされたわけである。どういう風に考えると、そういう推定ができるのか?はなはだ疑問ではある)。ポットは 1775 年の論文で、煙突清掃人の陰嚢に出来た癌を”煤いぼ( soot-wart )”もしくは”煙突掃除人癌”と呼び、それは煤の粒子への慢性的な曝露によって引き起こされた可能性が高いと推測した。それは陰嚢の扁平上皮に出現した。
癌が煤によって引き起こされるというポットの発見に着想を得て、タバコのタールと癌の関連性を疑う者も少なからずいる。そう考えるのはあながち不自然ではない。しかし、標準的なエイムズ試験でタバコのタールや煙を検査しても、タバコが癌を引き起こすと結論付けることは不可能であった。確かにタバコの煙には 60 以上の突然変異原が含まれていることが確認されている。発癌物質も含まれている。しかし、2023 年に行われた研究では、ヒトの肺癌でタバコの煙によって引き起こされた DNA の損傷の特徴的な痕跡を調べたのだが、予想外の結果が出た。喫煙者から採取された癌標本のうち、92% にはタバコの煙によって誘発された遺伝子損傷の明らかな痕跡があった。煙に含まれる DNA 損傷物質に関連する変異が見られたのである。しかし、約 8 %にはこの種の損傷が見られなかった。これらの癌が発生する別のメカニズムが存在する可能性を示唆していた。
ほぼ 10 人に 1 人の割合で、喫煙者であっても肺癌発症の明確なメカニズムを特定できないという事実は、私たちが大量の発癌物質を見逃している可能性を示唆している。マルチヒットモデル( 1 つの細胞に化学物質が複数回ヒットしてはじめて発癌すると仮定したモデル) は、細胞内で何が起こっているかを示すものであるが、バルメインは細胞が惑星間を漂う孤立した宇宙船のようなものではないことも知っていた。だから、彼は、複数回のヒットの内の一部は癌細胞ではなく、癌細胞が存在する組織環境に関係しているのではないかと疑うようになったのである。毒蛇は有毒であるが、攻撃を誘発するために鞭で打たなければならない。猟犬は畜光塗料を塗られ、沼地を歩き回らなければならないのである。
「待って、待って!」と、私が立ち上がって帰ろうとした時、バルメインは言った。「見てもらいたいものが他にもある」。彼はコンピューター上の画像を見せてくれた。数年前、彼の研究室の博士号を取得した 1 人の研究員が、遺伝子改変されたマウスを数匹入手していた。マウスは、化学的トリガーが与えられると、強力な発癌遺伝子が皮膚細胞内で活性化されるように遺伝子改変されていた。しかし、化学的トリガーを投与したのだが、ほとんど何も起こらなかった。「遺伝子改変したマウスを使った実験では、こうしたことがしばしば起こる。」と彼は言った。「ヒトの癌に関連する遺伝子を刺激し、腫瘍ができるまで何カ月も待った。癌遺伝子が活性化されると何が起こるかを推測するためだった。しかし、大したことは起こらなかった。変異細胞は存在していたが、腫瘍は無かった」。
次に、彼の研究室の研究チームは、マウスの皮膚を線状に切開した。それだけでは腫瘍は出来なかった。その後、全くの偶然なのか研究チームの奮闘が実ったのかは分からないが、奇妙な結果を得ることができた。研究チームは切開部位に 3 本の医療用ステープル( surgical staples )を打ち込んでいた(実験用マウスの苦痛を最小限に抑えるため、この実験は獣医師によって注意深く監視されていた)。治りが悪い傷、つまり慢性炎症が、3 カ所の周囲に形成されていた。そして、その 3 カ所に腫瘍が出来ていたのである。
バルメインはペンを使ってコンピューター画面上の数個の腫瘍を指した。「 1 つ、2 つ、3 つ」と彼は言った。 「ベレンブルムの実験と全く同じである。私たちは細胞を悪性化させようとした。しかし、細胞は休眠状態のままだった」。慢性的な刺激によって正常な状態から逸脱した後にのみ腫瘍が出来た。「変異細胞はそこにただ横たわっているだけだった。」と彼は言った。「それを目覚めさせたのは、炎症である」。
私はバルメインの研究室の窓から外を覗いてみた。時刻は午後 6 時 30 分で、道路に車が湧き出し始めていた。多くの車がひしめき合ってテトリスブロック( Tetris blocks:ブロック崩しの一種のテレビゲーム )のように隙間を埋めようとしていた。数通り離れたところにある巨大なガラス張りウーバー( Uber )本社の建物もまもなく無人になるだろう。しばらくしたら、外の空気が排気ガス臭くなるだろう。
「しかし、大気汚染などの環境破壊が刺激剤となる可能性はないのか?」と私は尋ねた。明白なことであるが、医療用ステープルは突然変異誘発物質ではない。だが、腫瘍形成を促進した。同じロジックが、刺激性化学物質にもあてはまるのかもしれない。刺激性化学物質は、私たちが普段から食べているものの中に含まれている。また、子供たちもそれに曝露しているし、あるいは大気中に存在していて誰もが無意識の内に吸い込んでいる可能性もある。おそらく、それらはエイムズ試験や標準的な毒物学検査では発癌物質として特定できないだろう。私たちがまだ適切な研究をできていないために、発見できていない事実は少なくないのかもしれない。発癌を誘発したり促進するメカニズムについては、未解明な点が多いと推測される。
「ロンドンのチャーリー・スワントン( Charlie Swanton ) が詳しいので、彼に話を聞いてみるべきだと思う。」とバルメインは言った。