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シャーロック・ホームズのファンならご存知のように、「バスカヴィル家の犬」では、結局のところホームズは殺人犯を捕まえられなかった。悪党のステイプルトンは、深い霧の中をさまよい、沼地の池に吸い込まれ、窒息死した。彼は自分の存在を明確に示す痕跡であるブーツと猟犬に塗った蓄光塗料の入った桶を残した。
私はバルメインに、細胞組織の環境、つまり癌細胞の周辺の状況を変えることによって機能する発癌物質を検出する装置や手法を考案するにはどうすべきかを尋ねた。また、環境炎症誘発物質を検出するエイムズ試験は考案可能であるかも尋ねた。私たちは、日常生活で「炎症( inflammation )」という言葉を気軽に口にしている。あたかも十分に理解しているように。しかし、もう少し深く掘り下げてみると、この言葉はいろんな意味で使われていることが分かる。自己免疫疾患( autoimmune disease )による慢性的な炎症を示す際に使われる。ウイルス感染後症候群( postviral syndrome )の内臓の不具合や治りにくい外傷を示す際にも使われる。スワントンの研究チームが発見したマクロファージが産生するインターロイキン -1β が媒介していると思われる炎症の特異性を考慮すると、炎症を引き起こす物質を捕捉できる装置や手法を確立するのは容易ではないと思われる。
「それは、確かに容易ではない。」とバルマンは言った。しかし、どこから探し始めるべきかについてのヒントはある。彼は、検出方法を確立しようとしている研究チームと協力してきた。特殊なオルガノイド( organoid:試験管の中で幹細胞から作るミニチュアの臓器)を利用した検出方法は、具体的には皮膚細胞と免疫細胞を一緒に培養して 3 次元的な組織様構造を形成するのだが、可能性があるかもしれない。私自身の研究室でも同様の癌オルガノイドの研究に取り組んでいる。原理的には、化学的刺激物は免疫細胞に炎症の連鎖を引き起こす可能性があり、炎症の連鎖が続くことで癌細胞が増殖する可能性がある。
あるいは、発癌物質の特定を目指す研究者は、マクロファージを研究するようになるかもしれない。たとえば、マクロファージを化学物質にさらすことで、インターロイキン -1β によって部分的に媒介される特定の免疫応答( immune response )が活性化される可能性がある。あるいは、癌を促進する炎症の代用として、動物や人間の体内にある免疫シグナルを探すかもしれない。免疫細胞の不均衡を示すシグナルを検出することで、前癌病変を検出できる可能性がある。それは、予防のための集中的なモニタリングにつながる可能性がある。このアプローチでは、少なくとも最初は必ずしも犯人を特定できるわけではないが、猟犬の足跡の上にある蓄光塗料の入った桶を見つけるなどして、犯罪行為の証拠を得ることができるかもしれない。
スワントンの研究室から聖バーソロミュー病院( St. Bartholomew’s Hospital )までは徒歩で約 30 分かかる。その日の午後、ロンドンは気持ちの良い天気だったので、私は歩いてそこに向かった。グレビル・ストリート( Greville Stree )沿いを各所に立ち寄りながら目的地を目指した。西へ約 1.5 マイル( 2.4 キロ)のところにロンドン衛生熱帯医学大学院( the London School of Hygiene & Tropical Medicine )があった。この中にイギリス医学研究審議会( the Medical Research Council )がある。そこは、先述の 2 人の疫学者、オースティン・ブラッドフォード・ヒル( Austin Bradford Hill )とリチャード・ドール( Richard Doll )が協力して研究をしていた場所である。2 人は 4 万人以上の喫煙する医師の集団を 29 カ月にわたって追跡調査し、喫煙と肺癌に関する今や誰もが知る論文を発表した。東に 2 マイル( 3.2 キロ)弱のところにロンドン病院( the London Hospital )の病棟があった。ここで勤務していたミュリエル・ニューハウス( Muriel Newhouse )とヒルダ・トンプソン( Hilda Thompson )が、アスベストに曝露されたことに起因する中皮腫患者がいることを世界で初めて示唆する論文を発表した。
私は道端のベンチに座って、ネイチャー誌に掲載されていた論文をもう一度読んだ。かつて熱心な読書家である友人が私に言った、「偉大な文学作品を見分ける唯一の証しは、小説を読み始めた者と読み終えた者が決して同じではないということにある。良い小説は読者を変えることができる。」と。科学における優れた研究にも同じことが当てはまるのかもしれない。それは人々の世界の見方を根本的に変える。スワントンの研究チームは、疫学、毒物学、免疫学、遺伝学の知見をフルに活用して謎の解明に取り組んできた。そして、因果関係を明らかにして、生物学的に妥当と思われる発癌メカニズムを解明した。これは、私が科学分野で遭遇した分野を跨いだ研究の中で最もエレガントで調和の取れたものの 1 つである。
セリコフはアスベストと腫瘍の関連性を指摘していた。それは正しいのか?私が思うに、おそらくアスベストは突然変異原というよりも促進剤であると考えられる。アスベストの発癌特性はそれが引き起こす刺激の結果である可能性がある。アスベスト繊維はマクロファージやその他の免疫細胞を呼び起こし、肺に瘢痕化や炎症を引き起こす可能性がある。この刺激により既存の悪性クローンが目覚める可能性がある。では、タバコはどうか?タールに含まれる化学物質は突然変異を引き起こす。煤の細かい粒子は化学的刺激物である。そしてニコチンは中毒性を高める。つまり、タバコの中には、厄介な 3 要素が全て揃っているのである。突然変異原、炎症誘発物質、依存症誘発物質であるが、それらが細い円筒の中に都合よく丸め込まれているのである。
メンソールの霞を撒き散らしながら若い男が私の前を通り過ぎた。電子タバコを吸っていた。化学混合物が灼熱の気化粒子となって彼の体内に入った。私は、彼の肺の生検で何が明らかになるだろうかと想像した。通り過ぎるバイクが真っ黒な排気ガスを吐き出し、マスクをしてくるべきだったと後悔した。その時、私が気づいたのは、自分の周りの世界について考える時、化学的刺激物と炎症の観点からしか考えていないということであった。午後3時頃に、聖バーソロミュー病院の正門に着いた。この病院で、ポットは例の有害な煤いぼについての論文を書いた。ここはスワントンが医学訓練を受けた場所でもあった。ふと思い出したのだが、ここはワトソンが初めてホームズに会った場所でもあった。
実験科学( experimental science )である毒物学と観察科学( observational science )
である疫学という 2 つの分野の知見を巧みに組み合わせる必要があるため、環境発癌物質( environmental carcinogens )を発見するのは難しいと考えられている。全く容易ではない。ヒトの癌の研究では、細菌や動物の実験では説明できない謎が投げかけられることがしばしばある。また、研究室で実験する際に現実と全く同じ環境を再現することは決して容易ではない。(アメリカ国立標準技術研究所が大気汚染の煤が入ったボトルを販売しているなんて誰が知っていただろうか?) 幸いなことに、この分野は洗練されつつある。新たな発癌物質を特定する能力がますます高まっていると言える。とはいえ、まだそのレベルは十分に高いわけではない。ようやく発癌物質が非常にたくさん存在していることが分かっただけである。
聖バーソロミュー病院を離れる時、私はなぜかコナン・ドイルゆかりの地を訪ねてみたいと思った。この旅を終えるに当たり、ベイカー・ストリート( Baker Street )に向かうためタクシーに乗り込んだ。♦
以上