試練 人工心臓の開発は容易ではなかった
数十年前、大学4年生の初めの頃、私は自分が2人の魅力的な女性の隣に住んでいることに気づきました。2人はモンタナ州出身のスーズとニュージャージー州出身のジェスでした。私は2人とすぐに友達になり、ジェスの経歴を知りました。彼女は高校3年生の時、重度の心臓発作を起こしました。教会で最後の秘跡を受けた後、彼女は実験段階の心臓の機能を補助するポンプ、いわゆる補助人工心肺で一命を取り留めました。それはハートメイトという名前で、エイドリアン・カントロウィッツが1960年代に開発した装置の系譜に連なるもので、人工心臓ではありませんでした。心臓の左心室と左心房の機能のみを代行するものでした。ジェスは補助人工心肺を付けたまま、それをハンドバッグの中に入れたバッテリーにワイヤーで接続して、ダンスパーティーに出たり、彼女の高校が作った映画で主役を務めました。題は「実際に試さずにビジネスで成功する方法」でした。彼女はまた、義足で歩く術も会得しました。というのは、心臓発作後の合併症が原因で左脚を膝の上で切断する必要があったからです。彼女は高校卒業の3日前に、交通事故で亡くなった10代の少女の心臓を移植されました。その後間もなく、彼女は非ホジキンリンパ腫を発症しました。おそらく、拒絶反応を防ぐために服用した免疫抑制薬が原因だと思われます。私が初めてジェスに会った時、そうしたことは全く分かりませんでした。彼女はバッテリーに繋がれていませんでしたし、リンパ腫も完治していましたし、大学の授業を普通に受けていたからです。
私たちの友情は大学卒業後も続きました。ジェスは医療関係の仕事に就いていました。臓器提供をコーディネートし促進する仕事でした。彼女の性格の特徴は、柔和さと厳しさを上手く使い分けられることでした。彼女は世界中を旅し、2度もガンを克服し、足繁くコンサートに通い、大の甘党で、ボーイフレンドもいて、仕事でも成功していました。普段の彼女を見ていても奇跡の人であると感じさせるようなところは何もありません。普通の若い人にしか見えません。彼女は仕事ではどんな状況下でも素早く的確な指示を出していました。病室で治療を受けている時でも電子メールで指示を出していました。そのような場面を見る機会があって、私は少しだけ彼女の背負ってきたものの重さを感じ取ることが出来ました。おそらく、彼女は自分の寿命が長くないことを知っていたのだと思います。それでも勇気を持って生きていたのです。
補助人工心肺ハートメートに携わった人たちに会いたいと思って、私はヒューストンのテキサス心臓研究所を尋ねました。それは、世界最大の複合医療施設であるテキサス医療センター(1つの都市のよう)の中にあるセントルークス病院の近くに位置していました。テキサス心臓研究所には年間1,000万人もの患者が訪れ、いわば心臓病のバチカンです。付属の博物館があり、心臓外科と人工心臓等の装置類の歴史について学ぶことも出来ます。50年以上も前にデントン・クーリーが最初の人工心臓移植手術を行った場所からそう遠くないところで、私は2人の外科医と窓のない会議室で会いました。バッド・フレイジァとビリー・コーンでした。コーンは59歳で情熱的な人物で黒のボタンダウンシャツとジーンズ姿でした。フレイジァは79歳で口数が少なく、カジュアルなジャケットにスラックスでべっ甲の眼鏡を掛けていました。2人ともカウボーイブーツを履いていました。彼らは補助人工心肺の移植手術を1,000回以上行っていました。今日、心不全患者の大多数は補助人工心肺(VAD)の移植を受けています。そのほとんどは、心臓の左側の機能だけを補助するか代替する補助人工心肺(LVAD)です。しかし、コーンとフレイジァは、ティムズと同じですが、恒久的に使えて人間の心臓の完璧な代替品となる人工心臓の開発を目指していました。彼らは人工心臓研究者の中でも少数派です。2011年に彼らは2つのハートメイト2を同時に55歳の男性の全く機能しなくなった心臓を取り除いた後に移植しました(1つは左側用、もう1つは右側用)。2つの同時に使ったVAD(補助人工心肺)は人工心臓と同等の働きを果たし、その患者は手術後5週間生存しました。
フレイジァのキャリアは、スワーツが言いましたが、人工心臓が期待を集めていた黄金時代に始まりましたし、人工心臓が人々の期待に中々沿えない時代になってもフレイジァは研究を続けていました。フレイジァは1963年にベイラー医科大学に職を得て、マイケル・ドベイキーに師事しました。その後、1970年代にテキサス心臓研究所でクーリーの元で働くようになり、1980年代もそこにいました。その頃に免疫抑制薬のシクロスポリンが開発されたことにより、心臓移植手術後の存命率が飛躍的に上がりました。人工心臓の可能性を確信した彼は、豚、羊、牛、山羊が飼育されている地下室で研究を始めました。彼は何十年にもわたって医療機器専門家と協力して、現存しているほとんどすべての人工心臓、補助人工心肺のテストと改良に携わっていました。一番最初のハートメイトも含まれています(私は以前、セリトスのビバコア社の本社で、ビバコア社の人工心臓を付けた子牛がトレッドミルで運動している動画を見たことがありましたが、その動画はフレイジァの地下の研究室で撮られたものでした。現在、フレイジァとコーンはビバコア社の顧問をしています)。
「見ろよ。フレイジァが映っているぞ」とコーンは言いました。ノートパソコンに映し出されている写真を見せていました。よく見るとフレイジァは血まみれでした。「ロックスターみたいじゃないか。」と言ってフレイジァは笑っていました。
コーンが熱く語ってくれました。1986年にフレイジァがどのようにハートメイトの移植手術を初めて成功させた心臓外科医となったかを。それは1993年まで続いた臨床試験の一部でした。1994年に米食品医薬品局によって承認されて以降、約4,000人がハートメイトの移植を受けました。それはドーナツ型で、血液を押し出す機能を有しています。革新的なのは、特殊なプラスチックとチタンを使っていることで、それによって血球が滑らかなままで血液損傷が起こりにくいことです。初期のバージョンでは、ホースからの空気圧で血液を押し出していました。途中からは、モーターによって押し出していましたが(ジェスが移植されたたのはこれです)、せいぜい1年半しか稼働しませんでした。それでも病院に運び込まれた重症者や死にかけている人にとっては十分でした。「人工呼吸器を付けて、心臓を取り出して、このハートメイトを埋め込んで、このポンプを腹部に入れ、いろいろ接続を確認して縫合したら手術は終わりです。その頃には患者の唇がピンク色になって生気が戻っています。」と、コーンは言いました。課題は、移植可能な心臓が不足していたことで、それは今も変わっていません。コーンは続けて言いました、「1年半で、ハートメイトは動かなくなります。それまでに運よく移植可能な心臓を見つけなければなりません。それが出来ない場合は、死ぬしかありません。」と。
この問題に対処するために、フレイジァはマサチューセッツに本拠を置く人工心臓ポンプ製造企業アビオメッド社と協力して、次世代の人工心臓アビオコアの設計を開始しました。その人工心臓は1990年代初頭に考案されたもので、ある意味では旧来からの伝統的な人工心臓(本物の心臓のように2つの心室がありました)でしたが、革新的なところもありました。それは、本体から外に出るホースやケーブル類が無かったという点です。アビオコアは完全に自己完結型で、油圧で心室を圧迫し血液を押し出していました。動力はバッテリーでしたが、皮膚の上からワイヤレス充電が可能でした。理論的には、泳ぐことも可能でした。
コーンはアビアコアの図を描きながら言いました、「超、超野心的ですね。彼らがこれを開発するために費やしたのは25億ドルです。数百匹の動物に移植されました。その半分はここで、フレイジァの研究チームによって行われました。」と。2001年と2002年に、その人工心臓は14人の患者に移植されました。その時に、野心的な計画は躓きはじめました。コーンが言うには、移植後9か月の内に、4人を除くすべての人が合併症もしくは人工心臓の不具合のいずれかで亡くなったということです。
米食品医薬品局は、アビオメッド社にさらに60件の人工心臓移植手術を行う許可を与えました。しかし、アビオコアには改良が必要なことが明らかでした。それから再度承認をもらう必要がありました。しかし、改良して承認を受けるのは非常に大変な作業でした。コーンは言いました、「アビオメッド社はタオルを投げました。”とてもじゃないが無理だ”という感じでした。」と。1番の問題は、アビオコアはサイズが大きすぎたということです。巨漢の男性の胸にしか移植できない大きさでした。
「ご存知のとおり、あなたの心臓は1日に10万回拍動します。」とフレイジァはものうげに言いました。
「年間では、3,500万回です」とコーンは言いました。
「凄い回数です。ずっと動き続けていると考えると驚きですね。」とフレイジァは言いました。
80年代も90年代も、フレイジァはハートメイトとアビオコアの研究開発を手伝っていました。彼は、両方の研究者に言っていたのは、拍動するポンプを使う設計は止めるべきだということでした。機械的に単純な常時循環型にすべきだと説いていました。後に、ビバコア社はその思想を取り入れました。一部の研究者は、拍動することが循環器系にもたらしている恩恵を無視すべきではないと主張していました。恩恵は、拍動が速くなると血管壁が反応して拡がるということでした。当時でもそれは証明されていました。しかし、フレイジァは、拍動することの長所が何であれ、人工心臓の構造の単純化と耐久性が上がることの長所はそれらを上回わると確信していました。彼は2つの常時循環型の人工心臓の設計に並行して取り組み始めました。1つはリチャード・ワンプラーという心臓専門医との、もう1つはロバート・ジャービックとの共同研究でした。多くの動物に移植して、何度も取り出し分解し分析を行いました。2000年までに両方とも利用可能になりました。それらの名前は、それぞれジャービック2000とハートメイト2でした。
コーンはノートパソコンで、ハートメイト2の図を描きました。構造的には、1本のコルク栓抜きで満たされた1本の細いパイプのようでした。そのコルク栓抜きが2つのベアリングの間で回転して、位置を固定されたまま回転することで、常に血液を人工心臓から大動脈へ送り出し続けます。農業では、同じような仕組みが良く使われています。アルキメデス・スクリューと呼ばれ、灌漑用の水を汲み上げるために使用されています。
コーンはそのコルク栓抜きを指さしました。彼は言いました、「この部品は赤い沢山のベアリングによって支持されています。多くの人たちが、『どう考えたって、血液の中でベアリングを使うことは出来ない。』と言っていました。でも、実際には使うことが出来たのです。十分な血流に晒されるので、ベアリングは常に加熱することも無く、きれいな状態を維持できるのです。台の上にある人工心臓の1つは、永遠に稼働させることも可能です。」と。それでも、毎年1,000人以上がハートメイト2もしくは同様のものの移植を受けて、生きながらえることによって、自分の名前が移植待機者リストの少しでも上位に上がって行くのを待っています。ディック・チェイニーも冠動脈疾患のためハートメイト2の移植手術を2010年に受けました。それによって、2012年に心臓移植手術を受けるまでまで生き延びました。
2019年の夏、私はジェスからの電子メールを受信しました。それは、私以外の仲間にも送信されていました。「先日、心臓移植20周年を祝いました。しかし、移植された心臓は元々の心臓と同じくらい長く機能することはありません。」と記されていました。私はそんなことは知りませんでした。私は、彼女の移植した臓器は死ぬまで稼働するものだと思っていました。実際、彼女の移植した心臓は弱りつつありました。彼女は良く息を切らしていて、ある晩には、歩いて帰宅する途中で倒れそうになりました。現在、彼女は再び入院し、別の移植可能な心臓の提供を待っているところでした。「それは数週間、数ヶ月後かもしれませんし、(可能性は低いですが)明日かもしれません。幸運を祈ってくれたらうれしいわ。」と彼女は書いていました。
私は救命救急室にジェスを見舞いました。美味しいレストランや仕事のことやテレビ番組などが話題になりました。私の息子の写真を見せました。ちょうど1歳になった頃の写真でした。その後、彼女は亡くなりました。ちょうど再び見舞いに行こうと思っていた矢先でした。
コーンは言いました、「心臓移植を受けた患者の多くが10年以内に亡くなります。それを考えると、ジェスは良く頑張った方です。」と。
フレイジァは言いました、「最近、私が30年前に心臓を移植した男性の誕生日パーティー招かれました。しかし、それは非常に稀なことで、超の付くほど稀なことです。心臓移植を受けた患者の内、手術後30年生きられるのたったの5%ほどしかいないのです。」と。現在市場に出回っている人工心臓は、一時しのぎ的な療法と見なされています。他の人から取り出された心臓を移植されるのが本当に受けたい療法なのです。しかし、それが叶ったとしても、長生きをした場合には、移植された心臓も一時的なものであると言わざるを得ません。元々の心臓ほど長持ちはしないからです。
私はフレイジァとコーンに尋ねました。彼らの人工心臓を移植されたけど死んでしまったした人たちのことをどう思っているかを。迷ったことは無いのか、どのようにことに迷ったのかを。
コーンは「常に迷っていますね。亡くなった人たちは何とか生きようとしていました。でも、彼らを生かすほどテクノロジーは進化していなかったのです。しかし、彼らは必死に最後まで闘ったんです。彼らの多くは、好きなことを楽しんで、愛する人と何年も過ごせました。ICUに入れられて、6週間重病の状態が続いた後に亡くなった人もいました。振り返ってみると、私たちが移植手術をしないで死期がくるのに任せた方が良かったんじゃないかと思えることもありました。その方が苦しまずに済んだのではないかと思うこともあります。でも本当のところは良く分かりません。上手くいくか否かは純粋に確率の問題ですからね。移植を受けた人たちはそれを強く望んでいたのです。数日でも長く生きたいと望んでいたんです。そうした行われてきた移植手術のおかげで、人工心臓は常に進化出来ているのです。」と。
フレイジァは静かに語りました、「私は医学生だった時、白血病の子供たちを診て研究していました。彼らは全員亡くなりました。実際、そのテキサスの小児病棟の医師たちは仕事を辞めたいと思っていました。」と。
遅くなったので、フレイジァは私を地下に案内しました。人けの無くなった事務室、一連の曲がりくねった静かな廊下を通り、最後にエレベーターで下りて行き、彼の研究室に入りました。彼が仕事のほとんどの時間を過ごした広大なスペースでした。動物を手術する部屋と病理学的分析をする部屋を通りました。そこは、死亡した動物を解剖したり、故障した人工心臓を分解して分析するために使われた場所でした。。
フレイジァはドアを開けながら言いました、「ここではブタを飼っています。」と。獣の臭いがして、大きなピンクのブタが寄り添ってフンフン言っているのが視界に入りました。
フレイジァはドアを閉めながら言いました、「豚の心臓は人間の心臓に良く似ています。」と。また、彼は階下を指さして笑いながら言いました、「下にはヤギがいます。でも、私はヤギはあまり好きではありません。ヤギはとても賢いんですがね。」と。
私たちは研究室のさらに奥に進みました。カーペット敷きの会議室に陳列ケースが有って、数十個の人工心臓と補助人工心肺が入っていました。これらを見れば、ある程度、この分野の歴史が分かります。フレイジァがいろいろと説明してくれました。真ん中にあるのがアビオコアでした。本当の心臓のような形をしていて、金属とプラスチックが使われています。古いジャービック7も有りました。それは、2つの黄色がかったベージュの心室からなり、チューブが付いていました。ハートメイト2も1つありました。両端に白いチューブが付いた灰色の金属製の円筒でした。壁には額縁に入れてライフ誌が飾ってありました。1981年9月号でそこには、「人工心臓の時代がやってきた。」と大きく書かれていました。
フレイジァは大きな金属製の補助人工心肺を指さしました。そこから突き出ている白いチューブを指さして言いました、「そこが流入管です。」と。その部分は非常に重要で、それが適正な機能を果たせるように改善されるまで、その装置自体が上手く機能することはありませんでした。小さな修正が何度も加えられ、繰り返し調整され、効果が有るか無いかは、移植された者が死んだ後に分解するまで明らかになりませんでした。改良はスローモーションでしか進みませんでした。