What if the Attention Crisis Is All a Distraction?
注意力の危機がすべて気を散らすものだったらどうなるでしょうか?
From the pianoforte to the smartphone, each wave of tech has sparked fears of brain rot. But the problem isn’t our ability to focus—it’s what we’re focussing on.
ピアノからスマートフォンまで、テクノロジーの波が次々と起こるたびに、脳の衰えに対する恐怖が巻き起こってきた。しかし、問題は集中力ではなく、何に集中しているかということだ。
By Daniel Immerwahr January 20, 2025
1.
今年のベスト映画には賞が贈られるのに、ベスト TikTok 動画には賞がない。2024 年は小さな傑作がいくつか生まれただけに残念なことである。@yojairyjaimee による動画は、カニエ・ウェスト(現在はイェ( Ye )と名乗っている)が、2009 年の奇妙なステージでの観客とのやり取りを 1 分間で完璧に再現したものである。@accountwashackedwith50m による動画は、R&B バンドのサックス奏者の視点から、チョコレートでコーティングされたイチゴを 12 秒間撮影したものである。@notkenna は、途方もなく低予算で特殊効果を駆使して、まるでほうきに乗って飛んでいるかのように見せた犬を 7 秒間撮影した。このようなインターネット上の珠玉の短編を、詩人のパトリシア・ロックウッド( Patricia Lockwood )は「一瞬のサファイア( sapphires of the instant )」と呼ぶ。それぞれが奇妙で催眠術的な手法で注目を集めている。
ただ、あまり長く見つめすぎてはいけない。TikTok の煌びやかな動画をいくつも見続けることは、何時間も目の前で花火を打ち上げているようなものだからである。明らかにそれは健康的なことではない。著述家でテクノロジー関連に詳しいニコラス・カー( Nicholas Carr )は、ピューリッツァー賞の最終候補作となった 2010 年の著書「ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること( The Shallows: What the Internet Is Doing to Our Brains )」で、先見の明を持ってこの懸念を提起していた。「ネット上の動画や情報は、私の集中力と思索力を削いでいるようである」とカーは書いている。彼は長編作品を読むのがますます困難になったと語っている。彼は、哲学科でローズ奨学金( Rhodes Scholarship )を貰っている非常に優秀な学生が、本をまったく読まず、ほとんどグーグルから知識を得ていると書いている。カーは不吉な口調で「その学生は例外というよりはむしろ普通である」と断言している。
カーと同様の指摘をする者は少なくない。現代人の注意力の低下について書いたベストセラーはいくらでもある。ニール・イヤール( Nir Eyal )の「 Indistractable(邦題:最強の集中力)」、ヨハン・ハリ( Johann Hari )の 「 Stolen Focus(未邦訳)」、カル・ニューポート( Cal Newport )の「 Deep Work(邦題:大事なことに集中する)」、ジェニー・オデル( Jenny Odell )の「 How to Do Nothing(邦題:何もしない)」などである。カー自身の新著「 Superbloom(邦題:ウェブに夢見るバカ)」は、注意散漫だけでなく、インターネットがもたらすあらゆる心理的弊害について詳述している。現代人は「意識の断片化( fragmentation of consciousness )」に苦しみ、現代社会は「情報の氾濫でより理解不能になっている( rendered incomprehensible by information )」とカーは指摘する。
これらの本を 1 冊読むと、あなたは不安になるだろう。しかし、あと 2 冊読めば、あなたの中に潜む懐疑的な小悪魔が目を醒ますだろう。これまで多くの批評家が、ピアノから色鮮やかなポスターに至るまで、あらゆるものが脳を混乱させる力を持っていると騒いできたではないか?実際、プラトン( Plato )の対話集「パイドロス( Phaedrus )」にも、ソクラテス( Socrates )が書くことで人々の記憶が破壊されると主張する長い章がある。
私が特に好きなのは、1843 年に書かれたナサニエル・ホーソーン( Nathaniel Hawthorne )のエッセイである。ホーソーンは、あまりに強力なテクノロジーの到来により、それ以降に生まれた人々は成熟した会話をする能力を失うだろうと警告している。人々は共通の場所よりも、別々の場所を求めるようになるだろうと彼は予言していた。人々の話し合いは辛辣な論争に変わり、「すべての人間の交わり」は「致命的で冷たくギスギスしたものになる」だろうと予測している。ホーソーンは何を恐れていたのか?恐れていたことは起こらなかった。暖炉が鉄製ストーブに置き換わっただけである。
振り返ってみれば軽微に思える事柄についての警鐘ばかりであった。カーもそう考えているが、それは何の慰めにもならない。今日のデジタルコンテンツは、明らかに旧来のものよりも中毒性が高い。以前の不平不満を連ねた文章は、事態がいかに悪化したかを示す尺度として捉えることもできる。かつてはテレビに危険性を見出す多くの批評家が存在していたのだが、おそらく彼らの懸念は正しかったのだろう。それが今や無害に見えるわけだが、それは現在のメディアがいかに醜悪であるかを示すものである。
カーが 2010 年に著書を出してから 15 年経った。今、このジャンルで最も洗練されて機知にとんだ著作は、 MSNBC で番組のアンカーを務めるクリス・ヘイズ( Chris Hayes )の「 The Sirens’ Call(訳者注:サイレンコールとは、興味をそそるが潜在的に危険な誘惑的アピールのこと) 」である。ヘイズはこのようなパニックの長い歴史を認めている。1950 年代のコミックブックに対するパニックのように、今にして思えば笑い話のようなものもある。しかし、喫煙に関する初期の警告のように、後に正しいと判明する予言的なものもある。「グローバルでどこにいても常につながっているソーシャルメディアの世界が発展することは、コミック本の普及に似ているのだろうか、それともタバコの普及に似ているのだろうか」とヘイズは問いかけている。
なるほど、なかなか良い質問である。懐疑論者は事態を真剣に受け止めすぎているかもしれない。しかし、ヘイズは、深刻な懸念を抱くのは自然なことだと感じている。「現代社会には大音声を発する装置があふれ、圧倒的な音の壁が築かれている。また、24 時間営業のカジノの渦巻く光など現代人の目を眩ませる光が溢れている。これらはすべて、利潤のために我々の注意をそらすために細かく設計されたシステムの一部である」とカーは書いている。このような状況下で明瞭に思考を巡らし、理性的に会話を交わすことは、「ストリップクラブで瞑想しようとするようなもの」である。彼の主張は示唆に富み、気づきの多いものであるが、不穏でもある。しかし、説得力はあるだろうか?