スマホ動画や SNS 普及の影響!現代人の集中力は続かなくなっている?いや、それはない!

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 歴史には注意散漫に関する嘆きが散りばめられている。渦巻く光やエロいコンテンツは新しい問題ではない。しかし、このテーマに関する過去の議論について重要なのは、それが本当に議論であったということである。誰もが空が落ちてくると感じていたわけではないが、注意散漫になる可能性を感じていた者たちは適切な疑問を投げかけていた。さて、注意散漫にならずに集中できるということは良いことなのか?それは誰のためになるのか?

 こうした疑問は 18 世紀に小説という破壊的な新商品の台頭とともに浮上した。今日の多くの批評家が、現代人が長い小説を読み通すことができないことを嘆いているが、かつて長編小説は、現代のジャンクフードと同等の扱いを受けていた。「小説は読む者の注意を非常に深く引き付け、非常に生き生きとした喜びを与えるため、それにいったん慣れてしまうと、真剣な研究など根気の必要な作業には耐えられなくなる」と、18 世紀に英国国教会の司祭ヴィセシマス・ノックス( Vicesimus Knox )は苦言を呈していた。トーマス・ジェファーソン( Thomas Jefferson )は、読者がひとたび小説の魅力に憑りつかれると、「このゴミのような塊」によって読者の健全な読書に対する忍耐力が奪われるだろうと警告している。「読者は肥大した想像力、病的な判断力、人生の現実的な仕事に対する嫌悪感に苦しむことになるだろう」。

 言語学者のナタリー・M・フィリップス( Natalie M. Phillips )が著書 「 Distraction(未邦訳:注意散漫の意)」で説明しているように、多くの人気作家は違った見方をしていた。彼らは、注意をそらさないことが健全であるという考え方に疑念を抱いていた。おそらく、人間の頭が効率よく仕事をするためには、少し注意があちこちに飛び回ることが必要であろう。サミュエル・ジョンソン( Samuel Johnson )による 2 つのエッセイには、1752 年の「 The Rambler(散策者の意)」と 1760 年の「 The idler(放浪者の意)」であるが、精神が放浪することを大いに楽しんでいる様が記されている。ジョンソンは常に本を手に取っていたが、途中で読むのを止めて別の本を読むことも多かったという。ジョンソンが「調べた」と主張する本について、友人の 1 人が本当に読み終えたか否かを尋ねたことがあるという。彼は答えた、「いや、読んでいない。君はどの本も最後まで読むのですか?」

 多焦点性を最も如実に示す人物としてフィリップスが挙げているのは、1759 年から 1767 年にかけて出版されたローレンス・スターン( Laurence Sterne )の著書「 The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman(邦題:トリストラム・シャンディ)」の主人公である。話は主人公のトリストラムが受胎する瞬間から始まる。父親が性的絶頂に達した瞬間に母親が突然「お願い、時計を巻き上げるのを忘れてない?」と口にしたため、トリストラムは生まれつきぼんやりした頭になってしまう。名前さえも注意力が散漫だったために生まれたものである。本来はトリスメギストス( Trismegistus )という名前になるはずだったのだが、牧師補にそれを伝える役目を任されたメイドが気を取られ、最初の音節以外すべてを忘れてしまったのである。トリストラムは、この悲惨な物語を、息もつかせぬ途切れ途切れの脱線だらけの文章で語る。

 9 巻からなる大作であるが荒唐無稽かつ奇抜で一貫したストーリーもないわけだが、トリストラムは自分の人生を語りきることはできなかった。しかし、多くの読者はトリストラムの軽快な思考に魅了された。フィリップスが指摘しているのだが、伝統的な権威者たちは揺るぎない集中を要求する傾向があるため、当時の多くの読者が彼の考えに解放感を感じたのかもしれない。「正しいやり方で祈りに加わるために必要なことは何であるか?」という問いが広く使われている英国国教会の教理問答書にあるが、回答は「さまよわずに深く注意を払うことである」とされている。

 サミュエル・ジョンソンの辞書では、「注意を向ける( to attend )」には複数の意味がある。1 つめの「集中する( focus on )」は、2 つめの「召使として仕える( wait on, as a servant )」から派生したものである。19 世紀のアメリカにおける注意力の歴史を記したケイレブ・スミス( Caleb Smith )の著書「 Thoreau’s Axe (未邦訳:ソローの斧の意)」は、この点を明確に描き出している。何世紀にもわたって、思想家たちは気を散らすものをかわそうとしてきた。しかし、最も大きな声で注意を喚起されてきたのは、部下、学童、女性などである。「 Atten-TION!”(注意せよ!)」と軍司令官は部下をまっすぐ立たせるために叫ぶ。注意力を高める技術は自己鍛錬の一形態であるが、他人を規律する方法でもある。

 19 世紀になると、産業化が進んだ社会が要求する強烈な集中力に警戒心を抱く者も少なくなかった。精神科医ジャン=エティエンヌ・ドミニク・エスキロール( Jean-Étienne Dominique Esquirol )は、「偏執狂( monomania )」という新しい診断名を発明した。これは今日の ADHD という語のように流行り廃りを繰り返しながら広まった。エスキロールは、この疾病が近代の特徴的な症状であると考えた。ハーマン・メルヴィル( Herman Melville )は、これを「白鯨( Moby-Dick )」の中心的なテーマに据えた。この作品ではエイハブ船長が白鯨に執着することで破滅がもたらされる。集中力の強さがもたらす夢幻状態は、広く懸念される対象となった。

 集中することを求められることへの不安を政治綱領に盛り込んだのは、カール・マルクスのキューバ生まれの娘婿のポール・ラファルグ( Paul Lafargue )である。ちなみに、先日、彼のエッセイがニューヨーク・レビュー・ブックス( New York Review Books )から再出版されている。ラファルグは 1880 年代に自分の仕事に集中し、自然な本能を抑えることは美徳ではないと主張した。それはむしろ、自らの抑圧者のために「機械の役割を演じる」ことであると説いた。革命意識とは「怠ける権利( the right to be lazy )」を主張することだとラファルグは主張した。世界の労働者よ、リラックスしろ。

 多くの若者が「トリストラム・シャンディ」のようないかがわしい書物に感化されラファルグのように革命を起こそうとするのではないかと心配する者も少なくないだろう。しかし、若者がそれを読むなんてことがあるだろうか?私は 20 数年前に自分が学部生だった時に課された課題の半分程度を学生たちに課しているし、同僚の多くの教授も同様に課題の規模を縮小する必要性を感じている。「私は 15 年以上、小さなリベラルアーツ・カレッジで教えてきたが、ここ 5 年間で学生たちの気質は大きく変わってしまった」と神学者のアダム・コツコ( Adam Kotsko )は書いている。「学生は 10 ページを超えるものには怯え、20 ページほどの書物についてはほとんど理解できないようである」。