ワールドシリーズ 最高だった!でも、時には敗者の物語にも目を向けよう。このスポーツには奥ゆかしさがある。

2.勝利は時の運。勝者がいれば、敗者がいる。

 これが野球である。つかみどころがなく、簡単ではなく、筋書きが読めない。私たちの多くがこのスポーツに魅了される理由の 1 つは、さまざまな体格のプレイヤーがいることや、ほぼあらゆるコミュニティから来た選手たちがいることで感じる親近感である。私たちは毎日、ラジオやニュースでプレイヤーの一挙手一投足を見聞きしている。この挑戦​​的なスポーツの根底には、彼らの失敗の可能性を減らすための奮闘がある。それは私たちの人生でも重要なことであることを思い出させてくれる。

 1986 年 10 月 25 日、私は、多くの観客が失望の中でゲームに深い意味を見出す様子を間近で見た。ワールドシリーズ第 6 戦、メッツはホームでボストン・レッドソックスと対戦していた。私はシェアスタジアム( Shea Stadium )の記者席で、当時スポーツ・イラストレイテッド誌で同僚だったピーター・ギャモンズ( Peter Gammons )と、当誌記者のロジャー・アンゲル( Roger Angell )の間に座っていた。ギャモンズはそのキャリアの大半をボストン・グローブ( Boston Globe )紙で過ごしていた。アンゲルは、彼を非常に評価していた。ニューイングランド中の工場町、漁港、集落が、敗北が確実視されているチームに強い愛着をもっていることを明らかにしたからである。その時、レッドソックスは 5 対 3 とリードして 10 回裏を迎えていた。1918 年以来の優勝までアウトカウント 3 つというところまで漕ぎ着けていた。シェアスタジアムの記者席のエレベーターはきしむ音を立てていた。ほとんどの記者が待望の勝利の瞬間のレッドソックスのプレイヤーの反応を見ようと、ロッカールームのある階まで降りていったからである。私の記憶している限りでは、公式記録員のレッド・フォーリー( Red Foley )は記者席に残っていた。アンゲルとギャモンズも記者席に残るべきだと主張した。最後まで見届けることが重要だと彼らは主張した。私たちは、ひっそりとした記者席に残った。

 レッドソックスのファーストの守備についたのはビル・バックナー( Bill Buckner )である。彼は長年にわたって、多くのプレイヤーが「プロ中のプロ」と称賛するような好打者だった。メッツの投手の 1 人、ロン・ダーリング( Ron Darling )などは、バックナーを「安打製造機」と称し、タフさも備えていると評していた。当時、バックナーは 9 月に 17 試合連続安打を記録していたが、36 歳でキャリアの最終盤を迎えており、足腰に故障を抱えていた。アイシング、強力な鎮痛剤、足首を保護する特注スパイクが頼りだった。フェンウェイパークスタジアムのロッカールームの彼のロッカーには、ファンから送られた鎮痛薬がぎっしり詰まっていた。それらの 1 つに魔術がかけられていたのかもしれない。通常のゲームであれば最終回には、若手で守備に定評のあるデーブ・ステイプルトン( Dave Stapleton )が守備固めで投入されるのだが、この日は違った。レッドソックスのジョン・マクナマラ( John McNamara )監督は、バックナーの人格を尊重したのかもしれない。あるいは、彼が腱を痛めていることを過小評価したのかもしれない。

 すぐに 2 人がアウトになった。1 人はファーストのキース・ヘルナンデス( Keith Hernandez )である。メッツを代表するプレイヤーで、チームキャプテンだった。ヘルナンデスは、首位打者を獲得したこともある選球眼の良い強打者である。守備範囲も広かった。いつもゲーム前にはロッカーでタバコを吸いながら、チームメイトとニューヨーク・タイムズ紙に載っているクロスワードパズルを解いた。ゲーム終了後には、同じ場所に戻り、ビールをすすりながら、終わったばかりのゲームの内容について思慮深い解説を披露することも多かった。「全然知らないチームと対戦するのは、ストレスを感じる」とヘルナンデスはワールドシリーズが始まる前に語っていた。「知らないピッチャーとの対戦だから、やりにくさも感じる。本能を研ぎ澄まして対応するしかない」。

 しかし、突如としてレッドソックスのリリーフ陣が乱れた。連続でシングルヒットを許した。ワイルドピッチも出て、同点に追いつかれた。そして、メッツのムーキー・ウィルソン( Mookie Wilson:センターを守ることが多かった)がバックナーの正面にボテボテのゴロを打った。バックナーがファーストミットを閉じるのが早すぎたため、ボールは彼の横をすり抜けた。勝利も逃げてしまった。ヘルナンデスは、これを「ワールドシリーズ史上最高の逆転劇」だと考えている。しかし、メッツの偉業以上に人々の記憶に残っているのは、バックナーのエラーである。

 アンゲルとギャモンズと私はエレベーターに乗った。レッドソックスのロッカールームでは、大勢の記者がバックナーのロッカーの前で待っていた。すでに残酷なジョークが飛び交っていた。「お題は、ビル・バックナー。整いました。ビル・バックナーとかけてマイケル・ジャクソン( Michael Jackson )と解く。その心は、2 人ともグローブをしているが、いずれも全く役に立たない」。しばらくして、シャワーを浴びたバックナーが腰にタオルを巻いた姿で現れた。多くの記者が殺到した。ロッカールームの中央で彼は取り囲まれ、多くの質問を浴びた。レッドソックスのリリーフで登板したピッチャーたちにも敗戦の責任があったわけだが、誰もそこは話題にしなかった。バックナーはほぼ全裸のままそこに残され、彼の長く輝かしいキャリアの汚点となった、ほんの一瞬のミスについて説明させられた。

 それは驚くべきことだった。バックナーは、真摯に、懇切丁寧に質問に答えた。すべての記者が納得するまで自分のミスについて説明した。そして彼はホテルの部屋に戻り、レジー・ジャクソン( Reggie Jackson )から慰めの電話をもらった。2 日後のシェアスタジアムでの第 7 戦の最初の打席ではシングルヒットを放った。しかし、第 7 戦は、ヘルナンデスが 6 回に逆転劇の口火を切ってメッツが勝利した。ヘルナンデスは、「シングルヒット 1 本と 2 打点だった。プレッシャーが凄かった。本当に苦しかった」と語った。ミネソタ・ツインズの投手で、シェアスタジアムから 32 キロの辺りで育ったフランク・ビオラ( Frank Viola )は、2019 年にバックナーが亡くなる前の数年間、彼と連絡を取り合っていた。「彼はたくさんの嫌がらせを受けていた」とビオラは私に語った。「彼はそれを受け入れて生きていた。とても誇り高い男だった。たった 1 度のミスで有名になってしまった。とても悲しいことだ」。