アメリカのオピオイド危機に朗報?依存性の低い鎮痛剤(ジュルナボクス)の誕生!

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 「ご存じの通り、ラジオやコンピューターでは電気は電子の形で電線を伝わり運ばれる」と、ブランダイス大学( Brandeis University )名誉生化学教授のクリス・ミラー( Chris Miller )は説明する。「生体内では、イオンがイオンチャネル( ion channels )を介して行き来している」。ミラーは数十年にわたり、イオンチャネルの働きを研究してきた。「これらの分子が人間の健康にどのような影響を与えるかは、あまり研究されてこなかった。ただ、とても魅力的な研究対象だと思う。神経スパイク( nerve spike:神経細胞が活動電位と呼ばれる電気信号を瞬時に放出すること)は、神経細胞の軸索( axon )上を毎秒 100 メートルの速さで伝わる」。彼はこれを、ホルモン( hormones )など、数分から数時間で変化をもたらす他の生体反応とは対照的であると指摘する。神経内のチャネルの働きを詳細に理解できるようになったのは、ごく最近のことである。1939 年 8 月にイギリスの生理学者アラン・ホジキン( Alan Hodgkin )と彼の研究室の学生アンドリュー・ハクスリー( Andrew Huxley:著名作家オルダス・ハクスリーの異父兄弟)は、イカの巨大な神経細胞の軸索を調べた。イカの軸索は一般的な人間のそれより最大 1,000 倍も太く、観察が容易だった。ホジキンとハクスリーは、小さな電極を使って軸索間の電圧差を調べ、数週間で重要な予備的結果を得ることに成功した。しかし、その頃、ちょうどヒトラー( Hitler )がポーランドに侵攻し始めた。2 人の研究は約 7 年間中断された (その間、ホジキンはレーダーの研究に従事した)。1946 年、現在使われているようなコンピューターや微小電極は存在していなかったが、ホジキンとハクスリーはいくつかの基本的な測定から巧妙な実験を考案し、神経細胞には電流の流れを制御するイオンチャネルが埋め込まれているに違いないと結論付けた (現在では、神経やその他の細胞で電気信号を生成する 5 種類のイオン 、つまりナトリウム( sodium )イオン、カルシウム( calcium )イオン、カリウム( potassium )イオン、塩素( chloride )イオン、水素( hydrogen )イオンに固有のチャネルがあることが明らかになっている)。「当時のテクノロジーではチャネルを視認することは不可能であった」とワックスマンは感心する。「 2 人はチャネルの構造については何もわからなかったはずである。それでも、彼らはその存在と特性を優れた先見性で予測したのである」。

 実はその 10 年前にナトリウムチャネルに作用する麻酔効果のある化合物が発見されていた。しかし、それがナトリウムチャネルに作用することは理解されていなかった。ストックホルム大学のある研究室が、変異した大麦の株を研究し、大麦に害虫耐性を与える物質の合成を試みていた。その試験方法は、現在とは全く異なるもので、時代を感じさせるものである。「研究室のある者が舌の上に化合物を垂らして試した。すると、舌が麻痺してしまったのである」と、ロンドン大学ユニバーシティカレッジの分子神経生物学教授、ジョン・ウッド( John Wood )は語る。ウッドは、ウッズが「ナトリウムチャネルの権威」と評する人物である。戦争中、スウェーデンの麻酔科医、トルステン・ゴード( Torsten Gordh )は、何人かの医学生を被験者として小規模の試験を行った。被験者となる医学生は報酬を選ぶことができた。ゴードの博士論文のコピーかタバコ 1 箱のいずれかを選べた。被験者の半分には麻酔効果があると推測される化合物、残りの半分にはプラセボが投与された。ほとんどの学生はタバコを選んだ。決定的な結果が得られた。その化合物は痛みを和らげたのである。「それがリドカイン( lidocaine )の起源である」とウッドは語る。「スウェーデンでその物質が発見されたのは、全くの偶然である」。

 局所的に使用すると、リドカインは素晴らしい麻酔薬であった。特に歯科治療には効果的であった。しかし、全身の痛みを麻痺させるほど大量に摂取すると、死にかける可能性があった。大戦が終わった頃には、ほとんどの麻酔科や歯科医は、この薬を全身投与すべきでないことを知っていた。しかし、それは痛覚神経、心臓の筋肉、脳などに存在するナトリウムチャネルに作用することで効果を発揮するのだが、その作用機序はまだ完全には解明されていなかった。リドカインは体内のすべてのナトリウムチャネルを阻害する。心筋は収縮しなくなり、脳の活動は停滞する。麻酔研究者の間で、全身投与可能で安全な鎮痛剤を開発するには、特定の種類のチャネルのみに、特定の部位でのみ阻害効果を発揮する必要があるという認識が広がった。

 ワックスマンとウッドが診た患者たちが持っていた遺伝子変異は、主に末梢痛覚ニューロンに存在する NaV1.7 と呼ばれるナトリウムチャネルに影響を及ぼすものであった。脳に到達する前に痛みの信号を遮断する薬剤は、オピオイドのような依存性を持たない可能性が高いと考えられる。「私たちは皆、興奮した。なぜなら、NaV1.7 の機能を阻害された者は痛みを感じなかったが、それ以外は何も異常がなかったからである」と、ナトリウムチャネルの権威であるウッドは語る。「信じられないほど興奮した」。研究者がやるべきことは、ナトリウムチャネルのみに影響を与える化合物を開発することであった。当時のテクノロジーでは非常に困難であった。困難ではあったが、克服せなばならなかった。「さまざまな研究のおかげで、NaV1.7 に影響を与えられれば効果が絶大であることがわかっていた」とワックスマンは言う。NaV1.7 に影響を及ぼす薬剤の開発が待たれた。「しかし、この話にはとんだ落とし穴があった」とウッドは言う。

 ワックスマンの研究室は、NaV1.7 ナトリウムチャネルを標的とした薬剤の小規模な臨床試験から始めた。まず最初に遺伝性エリトロメラルジア( inherited erythromelalgia )を患う 5 人を被験者とした。「有望な反応が見られた」とワックスマンは回想する。次にその薬剤の臨床試験は、複数の施設で他の疾患を有する数十人の患者を対象としたものに拡大された。しかし、拡大した臨床試験では、その薬剤の有効性を示す兆候は確認できなかった。その薬剤が NaV1.7 チャネルを阻害した可能性はあるのだが、用量が不十分だったか、薬剤が体内の適切な部位に到達しなかったか、あるいは NaV1.7 の機能阻害が一部の痛みに効果があるが他の痛みには効果がない可能性があった。さらに別の可能性もあった。「痛みは生存のために重要な役割を果たしている。そのため、痛みのシグナル伝達機構が分子レベルで冗長性を持ち、堅牢性を高めると推測することは理にかなっている」と、ハーバード大学のナトリウムチャネル研究者ブルース・ビーン( Bruce Bean )は言った。NaV1.7 研究の人気は下火となった。