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しかし、有望なナトリウムチャネルはそれだけではなかった。醜悪で丸っこい容姿の海生生物のフグ( puffer fish )が持つ毒素は、既知の 9 つのナトリウムチャネルの内の 6 つに作用する。痛みの研究を続ける中で、ウッドの研究室は、フグの毒素が阻害しない NaV1.8 の遺伝子を無効化したマウスが、ほぼ痛みを感じないことを発見した。研究チームの面々は興奮した。彼らは会社を設立し、すぐに 800 万ポンドの資金調達に成功した。
しかし、彼らは再び困難に直面した。ウッドは「毒性試験を開始する準備は整っていた」と述べたが、やがて資金が枯渇し、別の会社と合併したものの、その会社も資金が尽きてしまった。さらに打撃となったのは、2015 年までに、心臓が突然停止する可能性があるブルガダ症候群( Brugada syndrome:遺伝性の不整脈疾患で、心電図に特徴的な波形が現れ、心室細動などの不整脈を引き起こす可能性がある)の患者の多くに、NaV1.8 をコードする遺伝子に変異があることが判明したのである。NaV1.8 の機能を阻害する物質がそのような問題を引き起こすかどうかは不明であったが、深刻な懸念であった。「ああ、これはまずいと思った」とウッドは語る。多くの研究者が NaV1.8 の研究を断念することとなった。しかし、1998 年からこの研究を始めた細胞生物学者のポール・ネグレスク( Paul Negulescu )は、研究を継続した。
カリフォルニア大学バークレー校時代、ネグレスクの専攻は歴史であった。「 3 年生の時に生理学の授業を取った。教授が腎臓の働きについて説明してくれた」と彼は語る。「腎臓はナトリウムイオン、塩素イオン、カリウムイオンがバランスを保つことに関与している」。腎臓という、あまり知られていない臓器が、4 つのイオンが絶妙にバランスするようコントロールしている。「自然の偉大さにただただ畏敬の念を抱いた。頭の中でこれだと思った。これを研究すべきだと考えた」。彼は学部生時代にはイオンチャネルを扱う研究室にボランティアの形で加わり、後に生理学の博士課程に進んだ際には、指導教授と共同で研究を行った。その教授が起業した際にはネグレスクも加わった。2001 年にその会社はバーテックス・ファーマスーティカルズ( Vertex Pharmaceuticals )に買収された。ネグレスクは現在、同社の上級副社長を務めている。ネグレスクの研究室は 2019 年に、嚢胞性線維症( cystic fibrosis )の治療薬「トリカフタ( Trikafta )」の FDA 承認を取得した。この薬は、疾患の原因となる異常な塩素イオンチャネルに作用する。10 代の頃からこの薬を服用し始めた患者の平均余命は 80 年以上で、支持的療法( upportive-care treatments )のみでこの疾患に対処している者のほぼ 2 倍である。「私たちはイオンチャネルに注目している」とネグレスクは言う。「非常に優れた薬剤標的( drug target )だと考えている。ただ、その測定方法には細心の注意が必要である」。
ウッドの研究チームが NaV1.8 チャネルの痛覚シグナル伝達における役割について発表した論文は、ネグレスクがナトリウムチャネルと痛覚の研究に注力するきっかけとなった。「ナトリウムチャネルにはいくつかの種類があり、それぞれに独自の性質がある」と彼は述べた。「それぞれ異なる電圧で開く。開いた状態を維持する時間も異なる。特定の組織で特定の役割を果たすように進化してきた」。 NaV1.8 チャネルは 1 秒間に最大 20 回開いたり閉じたりする。「そのため、その瞬間を捉える必要があった」と彼は説明する。
NaV1.8 を阻害する分子を探そうとする際、普通はリドカインや他の麻酔薬と似た形状の化合物が候補となるだろうと推測する。しかし、ネグレスクは「どういった薬剤が機能するかということを突き止めたかったわけだが、旧来の知見や直感だけに頼りたくなかった」と述べる。彼の研究チームは中立的な視点を保ち、あらゆる可能性を見落とさないという姿勢を維持した。このアプローチは、数年前までは実現不可能であった。なぜなら、合理的な時間枠内で実施できる実験の数が限られていたからである。しかし、ネグレスクの研究チームは、化合物をはるかに迅速にスクリーニングできる新技術を開発した。これは、数百枚ではなく数万枚の宝くじを購入するようなものであった。最終的に、彼らは有望な新たな分子クラスを発見した。このプロセスに約 10 年を要した。
理想的な薬というのは、シンデレラのガラスの靴のように、意図した標的にのみフィットし、他の者の足にはフィットしないものである。これを選択性が高いという。その上で強力であれば、さらに理想的である。ネグレスクの研究チームが開発した NaV1.8 阻害剤の初期バージョンは、選択性が高く、比較的強力なものであった。しかし、薬の開発では「比較的」のような副詞で表現されるだけでは不十分である。その後、数年にわたって最適化( optimization )が続けられた。ネグレスクに日々の研究開発における「最適化」がどのようなものかを聞いてみた。「大変骨の折れるプロセスである。反復学習である。仮説を立てる。この薬剤が分子の効力を向上させる、つまり選択性を高めそうであると考える」と彼は説明した。合成化学専門家たちに、効果を向上させる可能性のある化合物を合成してもらい、研究チームはそれらを迅速にテストする。そのサイクルを数時間以内に完了させ、テストしたデータを合成化学専門家に送り返すのだという。ネグレスクに、彼の研究チームがスクリーニングした化合物の数を尋ねたところ、数十万と答えた。分子クラスを見つけるために何百万ものスクリーニングが行われ、その後、最適化プロセスでさらに 1 万回ほどのスクリーニングが行われる。ネグレスクは、研究室の外の廊下でトレイを手に持った合成化学専門家の 1 人に会ったことを回想して言った、「『その中に重要な化合物はあるか?』と私は尋ねたんだ。彼は私を見て『ポール、間違いなく重要だよ』と答えたんだ」。それから 20 年以上の月日を経て、彼らは強力で極めて選択性の高い化合物、スゼトリジン( suzetrigine )を開発した。それには重篤な副作用がないこともわかった。大規模な臨床試験を実施する時が来た。