2.タラ・リーの生い立ち
タラ・リーは、ミシガン州マウント・クレメンス(ニューボルチモアの近く)で育ちました。彼女の両親は6人子供を作りました。彼女は1番上でした。彼女が私に語ったところでは、彼女の父親はキャデラックの販売店を経営して、母親は元々は専業主婦だったが後にスーパーマーケットに勤めて管理職になったということでした。しかし、両親はリーが3歳の時に離婚したそうですが、お互いの交流は続いたということでした。リーが私に送信してきたメールには書いてありました、「毎晩、両親も兄弟も全員集まって夕食を食べました。子供がテーブルに肘を付いたりすると、行儀が悪いと言って怒られました。私たち兄弟は、両親からとても厳しく躾けられました。」と。
リーは近くの町の高校(アンカー・ベイ高校に)に通いました。そこでの彼女は外向的で、人気もありました。元同級生のクリスティ・ステーキリーはリーについて言いました、「テラ・リーはとても社交的でした。彼女は誰とでも親しく話をすることができました。」
と。
リーの高校時代の成績は平均的なものでしたが、弁護士になることを夢見ていました。早くマウントクレメンスの田舎町から出たいと思っていました。リーのオンラインの日記への2017年の書き込みの中に、「私はニューヨーク市のアッパーイーストサイドにある1ベッドルームのアパートに住むことを計画していました。有名な大企業で重要な役職に就くことを計画していました。しかし、神は私を他の道に導かれました。」というものがありました。結局、リーは高校を1999年に卒業するとフロリダに移り、ディズニー・ワールド・リゾートで働きました。彼女は言いました、「私は自分の能力を最大限に発揮できたら良いなと思っていました。」と。彼女と高校時代からのボーイフレンドで現在は冷暖房機器
製造会社で働いているジェレミーと2002年に結婚しました。それは、彼女が1人目の子供(娘)を出産した直後のことでした。
2005年、リーが23歳でしたが、不渡り小切手を使い逮捕されました。地元の宝石店で2回、コストコで1回使っていたことで足が付きました。彼女は有罪を受け、被害企業に弁済するよう命じられました。弁済額は2万2千ドルで弁済先はを少なくとも17企業に及びました。その年の後半に彼女はポラリス社製スノーモービル購入時に不渡り小切手を渡して再び有罪判決を受け、更に前科を増やしました。彼女はその年に2人目となる娘を出産し、翌々年2007年には長男を出産しました。
2012年、リーは初めて養子縁組をとりもちました。ミシガン州で会った2人の子供がいる女性の上の子が養子に出されました。リーが運営していた養子縁組斡旋事業者のオールウェイズ・ホープを通じて養子縁組を試みたことがあるミルウォーキー在住の5人の母親であるメラニー・ピーターソンによると、リーの話すことは明らかに嘘とわかるものだったと言っていました。ピーターソンがリーから聞かされた眉唾ものの話は以下のとおりです。リーは妊娠して赤ちゃんを養子に出したいと思っている妊婦に偶然にもピクニックをしていた時に出会った。それで、その2週間後にその妊婦がリーを尋ねて来て養子縁組の仲介をして欲しいと言われた。リーは赤ちゃんは生母が自分で育てるべきだと考えていたので、養子縁組を斡旋することを断りました。しかし、リーは困っている妊婦を何とかして助けたいという考えも持っていました。リーにとって信じられないことなのですが、非常に多くの妊婦が自分で養育出来ないのなら、中絶するしか選択肢が無いと考えていました。リーは、それ以外の選択肢があることを知ってもらいたいと思いました。リーは昔から妊娠中絶合法化には反対で、中絶だけは止めて欲しいと考えていました。それで、他の選択肢として養子縁組を斡旋することにしたということでした。
2015年、リーはフロリダ州ジャクソンビルにオールウェイズ・ホープ妊産婦教育センターを設立しました。リーを通じて養子を受け入れたことがある者(この教育センターの仕事を手伝ったこともある)の話によると、そこでリーは妊娠中の女性にカウンセリングを行ったり、赤ちゃんの養親となる家庭を探して引き合わせたりしていました。リーはジャクソンビルとミシガンの間を頻繁に行き来していましたが、じきに養子縁組を斡旋する主戦場はミシガンになっていきました。ミシガンの州法では養子縁組斡旋事業者はライセンスの取得が義務付けられていました。しかし、リーはそれをミシガンでは取得出来ていませんでした。それで、2015年にミシガン州はリーが必要なライセンス無しで斡旋しているとして調査しました。しかし、調査した結果、最初はリーは州法違反でないとされました。リーは、自分は妊婦と寄付者を仲介して衣料品の寄付をコーディネートしているだけだと主張したのですが、それが功を奏したようでした。しかし、さらなる調査が進められ、リーは勧告を受けることになりました。勧告は、ライセンスの取得をしなければ、今後は州内では養子縁組斡旋を続けてはならないというものでした。しかし、リーはライセンスの取得申請をしませんでした。その年(2015年)、養子縁組に関連してリーは13万ドルの報酬を受け取っていました。
養子縁組の事務処理を完了させるには弁護士が必要です。リーは弁護士の手が必要な時は共同で法律事務所を開いているコラードとタリア・ゲティングに依頼をするようになりました。ゲティングは、子供の時に養子に出され苦労した経験があります。そうしたこともあり弁護士として養子縁組に関わるようになりました。彼女を生んだ母親は16歳の時に妊娠しました。それで、未婚の妊婦が集まるホームに送られ、そこではほぼ強制的に赤ちゃんを手放さなければなりませんでした。養子に出されたゲティングは養母に好かれていないと感じていました。彼女は言いました、「あれは非常に困難な経験でした。でも、生まれない方が良かったなんて考えたことは1度もありませんでした。」と。彼女は17歳の時に、生母と暮らすようになりました。本当(生物学上)の父親も一緒でした。両親は後にロシアからの孤児を3人養子として受け入れました。ゲティングは最終的には法科大学院に通い、その後ミシガン州の司法研修生をした後、弁護士事務所を開きました。専門は家族法です。ゲティングは、両親が養子として迎え入れた兄弟を見て、養子縁組は素晴らしいものであるということに気付かされました。自分は養子縁組で辛酸を舐めたものの、ほとんどの場合はそうではない思いました。ゲティングは現在は結婚しており、4人の子供がいます。その内の1人はグアテマラから受け入れた養子です。
リーが初めてゲティングに仕事を頼んだのは2016年のことでした。養子縁組の斡旋で、養親となるべき夫婦はフロリダに住んでいて、赤ちゃんを養子に出す妊婦はミシガンに住んでいました。ゲティングとコラードがやることは、郡と州に提出しなければならない書類を揃えることでした。通常だと30種類ほどになります。出生証明書、婚姻証明書、運転免許証などのほかに、養親夫婦の宣誓供述書も必要です。その書類では、ミシガン州の養子縁組法を理解していること、事前に養親となるために学習したこと、養子の身元や状況を十分認識していること等を記して署名しなければなりません。通常、弁護士が養子縁組斡旋に関わる依頼を受ける際には、こうした書類はだいたい事前に準備され作成がほぼ終わっています。ゲティングが言うには、リーからの依頼を受けるのは、赤ちゃんが生まれる直前でいつも病院に急遽呼び出される形がほとんどでした。病院で初めて養親夫婦に会って、大急ぎで書類や証明書を掻き集めることになります。ゲティングは言いました、「リーから突然電話が掛かってきます。そうしたら後はドタバタと大急ぎでやるしかないんです。」と。ゲティングとコラードの報酬は、通常は5千~8千ドルほどです。報酬の半額を着手金として病院で養親夫婦から受け取ります。残金は後日、養子縁組手続きが全て終了してから受け取ります。リーは通常は赤ちゃんの生物学的な父親のサインのある同意書(必須の書類です)を弁護士に渡します。時にはもう1人弁護士がいることもあります。赤ちゃんの生母側の弁護士です。やはり、出産間際になって急遽病院に呼ばれることが多いかったようです。
リーは養子縁組斡旋をした養親たちには、自分は赤ちゃんの生母にカウンセリングを行う資格を有しており、また助産婦としての訓練も受けているので、分娩と出産の支援もしているので、その分の報酬も請求できると語っていました。ゲティングは繰り返し、リーにライセンスや資格を証明する書類を見せて欲しいと依頼していました。しかし、結局リーがゲティングらに見せてくれたのは、額縁に入れたノースウェスタン大学の社会福祉関連の修士号取得証明書だけでした。その額縁は、ゲティングとコラードの法律事務所の隅に置きっ放しだったようです。少し奇妙に感じたのですが、なぜゲティングとコラードはリーが資格を証明するものを見せてくれないのに、仕事をずっと引き受けていたのでしょう。そのことに関して私はゲティングに聞いてみました。すると彼女は言いました、「私は決して疑り深い人間ではないのです。誰かが嘘を言っていると疑うことなどほとんどありません。」と。