3.米国における養子縁組の歴史
養子縁組を金融取引や売買契約だと捉えることはとても不快なことです。しかし、似ている点があるというのも事実です。養子縁組でも金融取引でも仲介業者が介在しますし、仲介業者の質によってその後の人生が大きく左右されます。通常、養子縁組では赤ちゃんは貧しい人の手から裕福な人の手に渡ります。かなりの額のお金が動きます。オレゴン大学の歴史学者のエレン・ハーマンは米国での養子縁組の歴史に詳しく”Kinship by Design(本邦未発売:作られた親族関係)”という著書を出した実績があります。彼女は私に教えてくれたのですが、養子にだされる子供のためにより適切な家庭をさがしてマッチングさせるという概念が生まれたのは比較的最近のことです。彼女は言いました、「養子縁組は長い間売買として行われてきました。それは、養親夫婦や養子の幸福が目的ではなく、純粋な商取引で利潤を得る機会であると考えられていました。」と。
養子が生母の家族から養親家族に移るというプロセスは、かつては法的な手続きも定まっていませんでした。避妊手段の無知による多産、極度の貧困、未婚での出産を恥とする風潮などが相まって、養育を諦める親が恒常的に存在していましたので、養子に出される子供の供給が途絶えることはありませんでした。また、時には病院や家庭から子供が盗まれて売られることもありました。そうした状況の中で1851年にマサチューセッツ州は養子縁組に関する法律を他の州に先駆けて制定しました。その法律は、養子縁組では養親や生みの親などの大人の事情よりも、養子となる子の福祉を最優先すると規定していました。それによって養子縁組の慣行は改まっていきましたが、恐ろしいほどにゆっくりでした。1854年には”Children’s Aid Society”(児童援助協会)が設立され、“orphan trains”(孤児列車)というプログラムが開始されました。それは、米国の人口が密集した東海岸の都市から中西部の農村部の里親たちのもとへ貧困移民家庭の子や孤児たちを大規模に移動させようとした児童福祉的なプログラムでした。そもそもの目的は、裕福なキリスト教徒の家庭に養子を届けることだったようです。公然と赤ちゃんの売買も行われていて、新聞に広告が載ることもありました。また、私設託児所の中には養子となる子供の売買所の機能を果たしているところもありました。1917年にJuvenile Protective Association(少年保護協会)が実施した調査報告書にはシカゴの託児所が出した広告が言及されています。その広告には「たったの100ドル!比べて下さい、出産するよりも養子縁組はとても安価です!しかもとっても簡単!」と謳われていました。その年、ミネソタ州が他州に先駆けて養親になる者にさまざまな義務を課す法案を制定しました。養親に相応しいことを証明する義務を課し、資産状況の調査や養子を受け入れる家の調査が行われるようになりました。
20世紀を通じて、養子縁組に関する法律や規制が沢山つくられ続けました。そうしたもののほとんどは、未婚の母親を良しとしない認識を元に作られました。サムフォード大学法科大学院の児童法律倫理研究センターの所長を務めるデビッド・スモリンは私に言いました。「過去に作られた養子縁組に関する規制や法律は、未婚の母親となることは恥で秘匿すべきであるという概念を社会に根付かせてしまいました。それは負の遺産です。私たちはそうした概念が社会から無くなることを目指して活動しています。」と。1927年、連邦最高裁判所は、精神病院や刑務所などに居る知的障害のある女性に強制不妊手術を行うことは、憲法に定められた権利を侵害するものでは無いとする判決を下しました。その判決の影響もあってか、未婚の妊婦は淫乱であるので子を養育する資格がないという誤った認識が拡がりました。第二次世界大戦後の数年間は、未婚の者の出産が急激に増え、いわゆるマタニティーホームなるものがあちこちに出来ました。そこに上流階級と中流階級の少女や婦人が訪れて子供が生まれるまで過ごしました。そして赤ちゃんの養育権を手放して養子に出した後、何事も無かったかのように元々生活していたコミュニティに戻りました。その時代、養子縁組件数が非常に多かった時代は”Baby Scoop Era(ベイビースクープ時代)”と呼ばれました。そうした状は、誰もが容易に避妊できるようになり、中絶を選択する者も増えて、未婚の女性が望まない妊娠を容易に回避できるようになる1970年代まで続きました。
その当時までは、キリスト教の保守的な宗派の中には養子縁組を奨励しているところもありました(主に福音派)。養子縁組は、中絶を防ぐ手段であり、信者の数を増やす有効な手段として見なされていました。それらの宗派の牧師たちは、礼拝集会で信者にアジア、アフリカ、ラテンアメリカ、東ヨーロッパからの子供たちを受け入れ養子縁組するように勧めていました。国境を跨ぐ養子縁組は何万件も行われました。しかし、スキャンダルが明らかになりました。海外からの養子の中には、元の国では孤児でも何でもなく米国に送られる必要が全くない者が沢山いたことが判明したのです。その後、国外の子の養子縁組件数は急激に減りました。最も多かった時(2004年2万3千件)と比べると約90%減りました。
米国では養子縁組斡旋は民間事業者と非営利団体の事業者に加え、児童福祉サービス提供業者が行っています。それに絡んで推定ですが年間190億ドルのお金が動いています。養子縁組に関しては各州が独自の規則を定めています。養子縁組斡旋をするためにはどういった資格が必要であるかとか、養親となる者ためにはどのような資質が求められるかとか、養子縁組を最終的に決める権利は生母にあるとか、赤ちゃんの生物学上の父親が決定に関与する権利があることとかが定められています。しかし、そうした規則等は必ずしも現状に則しておらず大きな問題があるようです。スモリンは言いました、「現在の養子縁組を取り巻く環境には、脆弱性があり、関与する者全員が平等であるとは言えず、未だに未婚の母親は恥ずべきものだという風潮が残っています。巨額が動く中で、秘密裏の取引が多いわけですから、中には悪徳業者も沢山います。」と。
リーは上手く立ち回って、赤ちゃんを身籠っている妊婦と養親になる一家との間で連絡を取り合うのを掌中で管理していました。また、養子側と養親側の両者間で直接連絡を取り合うことは禁じていましたし、両者が直接顔を合わすミーティングをセッティングした際には、必ず同席していました。そうしたことで、リーはいずれの側に対しても強い影響力を保持することが出来ました。養子側も養親側も情報量が圧倒的に少ない状況で、精神的には不安にならざるを得ませんでした。
リーは事業を拡大させるためには、養子に出す赤ちゃんを身籠っている妊婦を沢山探し出さなくてはなりませんでした。しかし、それは容易ではありませんでした。スモリンによれば、米国で行われている養子縁組のほとんどは、里親制度によるものだそうです。約40万人の子供が該当します。里親制度で養子になる子供の多くは虐待等を受けた経験があります。しかし、最終的には生母や本当の父親の元に戻って一緒に生活することもあります。毎年約7万人の子供が里親制度で養子となっていますが、里親制度は政府によって厳格な規制下で行われています。しかし、赤ちゃんの養子縁組は全く厳格には管理されておらず、多額のお金が飛び交っています。ある調査によれば、最大で200万の家庭が養子縁組を検討していると推測されていますが、一方で、養子となる赤ちゃんの供給は毎年2万件ほどしかないのです。それだけしか赤ちゃんの養育を放棄する母親はいないのです。スモリンは言いました、「養子縁組事業者に養子縁組の斡旋を依頼すると、年間で3万ドル~5万ドルを請求されます。それだけの支出をしなければ、毎年2万人しか現れない赤ちゃんを養子縁組に出しても良いと考えている妊婦を探し当てることは出来ないのです。多額のお金が動く世界ですから、やっかい事も非常に多いのです。」と。
スモリンが指摘しているとおり、養子縁組の斡旋の世界においては圧倒的に養子となる赤ちゃんが不足しています。ですので、養子となる赤ちゃんを身籠っている妊婦は比較的さまざまな要望を出しやすい立場にあります。それで、オープンな形の養子縁組にしたい等の希望を出したりします。オープンというのは、養子に差し出す子に会える権利を担保するということです。しかし、そうした権利を担保することに関する法律は存在しておらず、約束したとしても必ずしも守られるわけではありません。また、スモリンは養子縁組斡旋事業者の別の問題も指摘しています。事業者は養子を身籠っている妊婦の相談にも乗るわけで、さまざまな選択肢が存在していることを教えます。そうした際に、赤ちゃんを養子に出すという選択肢をとると非常に大きな実入りがあることが強調されがちなのです。非常に問題があると思われます。
リーは、沢山の妊婦の赤ちゃんの養子縁組の世話をしてきました。その中には、ヘロイン中毒の治療を受けていた者も刑務所を出たり入ったりしていた者もホームレスも居ました。チェルシー・コフマンはリーの仲介によって赤ちゃんを養子に出した経験があります。後には、リーの事業で助手を務めたこともありました。コフマンによれば、リーは地元の薬物中毒者治療施設をしばしば訪れていました。そうして、養子となる可能性のある赤ちゃんを身籠っている妊婦を探していたのです。コフマンは、薬物使用歴を理由にミシガン州児童保護サービス局から養育者として相応しくないとして2人の子供を取り上げられた経験がありました。コフマンは2017年に刑務所の中にいる頃に自分が妊娠していることに気付きましたが、その時に他の囚人からリーを紹介されました。コフマンは、お腹の中の赤ちゃんは養子に出さざるを得ないと認識していました。同時に薬物を完全に絶とうと決心しました。また、2人の子供の養育者として相応しいと認められるように努力しようとも思いました。コフマンは私に言いました、「子供と引き離されるというのは本当に辛いことです。いつも何かが足りないと感じられてしまい、とても寂しいのです。」と。
モリア・デイは高校生の時にリーに雇われて事業所の掃除など雑用をしたことがありました。デイも自分の生んだ赤ちゃんの養子縁組の斡旋をリーにしてもらったことがあります。デイが妊娠した時、まだ19歳でしたので赤ちゃんを十分に世話して育て上げる自信がありませんでした。そんなデイを見てリーは声を掛けました。デイは、その当時にリーから言われたことを今でもはっきりと覚えています。それは、デイは若すぎるので子供を育てるのは無理だということと、養子縁組は赤ちゃんにとって最も良い選択肢であるということでした。デイは今でも赤ちゃんを養子に出すと決断したことを後悔していて、何かの拍子に自分の娘のことを思い出してさめざめと泣くこともあります。娘は3歳で現在はシカゴの養親夫婦と暮らしています。デイはタトゥーを私に見せてくれました。彼女の右腕の内側に彫られていました。彫られていたのは文字で、娘の名前、生年月日でした。その横に養親夫婦の名前も彫られていました。彼女は言いました、「私は娘をとても愛しています。会えなくて悲しいし、育ててあげられなくて本当に申し訳ないと思っています。胸が張り裂けそうでしたが、あの時は、赤ちゃんを誰か他の立派に養育できる人に預けるしかないと思ったんです。」と。デイは今でもリーが赤ちゃんを養子に出すよう説得したことを恨んでいると言っていました。デイは言いました、「リーは本当に悪意に満ちた始末に負えない手練れです。また、稀代の大噓つきです。」と。