4.確率のはじき出し方
全ての医療検査が程度の差こそあれ、誤りを免れないわけですから、病気について診断が下される時、イエスかノーの二者択一ではなく、確率として認識する必要があります。新型コロナウイルスに感染しているか否かと聞くのではなく(他の疾病でも同じことですが)、新型コロナウイルスに感染している確率はどれくらいですか?と聞くべきなのです。人間の躰の中など良く分からないことが多いわけですから、確率が分かるだけでもありがたいと思うべきです。完全な正確さを担保できないのですから、次善策として確率が知らされるべきなのです。
確率論は、8世紀に行われたイスラム教の暗号の研究に端を発します。17世紀に2人の数学者がそれを現在の確率論の原型にまで発展させました。ピエール・ド・フェルマーとブレーズ・パスカルです。いずれも運が左右するゲームにのめり込んで、協力してサイコロの出る目の確率を数学的手法を用いてはじき出しました。歴史上、それは不確実性を具体的に測定する初の試みでした。その手法は、医師が診断を下す際にも非常に役立つものでした。医師にとって最も重要な確率論的概念の1つは、”基準率(base rate)”です。心理学者のダニエル・カーネマンが著書「Thinking、Fast and Slow(邦題:ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?)」の中で、基準率について説明しています。次のような質問を投げかけています。
「スティーブはとても恥ずかしがり屋で引きこもりがちです。いつも頼りになりますが、他の人たちや現実の世界にはほとんど関心が無いようです。柔和で冷静な魂を持つ彼は、秩序と安定を必要としています。また、細部にこだわることもあります。さて、スティーブは司書である可能性が高いでしょうか?それとも農民である可能性が高いでしょうか?」
この質問を読んで、スティーブが司書だと答える読者が多いそうです。理由はスティーブに関する記述が世間一般の者が持つ司書のイメージと非常に似ているからです。しかし、実際には、スティーブは農民である可能性が非常に高いのです。なぜなら、米国では、男性の農民は男性の司書より圧倒的に多いからです。実に20倍以上です。男性司書の20倍の数の男性農民がいるわけですから、男性農民を見つける可能性は、たとえ非常に恥ずかしがり屋であっても、男性司書を見つける可能性よりもはるかに高くなります。相対的に男性農民が圧倒的に多いことがこの問題では鍵だったわけです。一般には特殊な条件をつけない、素のままのグループがもつ確率のことを基準率と言います。それは、結果の確率に大きな影響を及ぼします。
医学で基準率が使われる際には、全体の中でどれだけの者が罹患しているかということを示しています。その数値は、医療検査の精度に非常に大きな影響を及ぼします。イメージして欲しいのですが、1000人に1人が検査対象である疾病にかかっている集団に感度と特異度がともに80%の検査をするとします。それで、精度100%の検査を1000人を対象に実施した場合、結果として1名が陽性と判定されます。しかし、検査の特異度が80%であるため、20%の確率で偽陰性が発生するので、本当は陽性は1名しかいないのに、偽陽性者が200名も発生します。ここで問題なのは、特異度が0%でない限り、どうしても偽陽性者が出てしまうということです。特異度は検査によって固有の数値があります。真陽性者の数は、実際に疾病に掛かっている人の数と一致しています。しかし、疾病にかかっていない人が多いと、どうしても偽陽性者の数は増えてしまうのです。
上の例は基準率が低い(罹患者の割合が低い)ことによって、検査の精度が著しく低くなった例です。基準率の影響があるので、必ずしも検査を沢山すれば良いわけではありませんし、保健当局は前立腺がんのPSA検査や乳がんのマンモグラムなどの検査の日常的な実施を推奨していないのです。前立腺がんや乳がんは最も患者の多い癌です。それでも、人口全体から見たら僅かな割合でしかありません。つまり、基準率が非常に低いということですから、誤って癌であると診断される可能性が少なくないのです。実際には、前立腺がんのPSA検査で真陽性になる可能性は約30%にすぎません。しかし、マンモグラフィをすると偽陽性率は5%未満~最大50%です。数値にバラツキがあるのは放射線科医の能力の差に起因します。
新型コロナウイルスの抗体検査も同様に基準率の影響を受けてしまいます。ですので、米疾病管理予防センターと米食品医薬品局は、その検査に関して何度も注意を呼び掛ける声明を出しています。直近の推定では、米国では地域によって違いますが、人口の5%〜25%がウイルスに曝露しています。もし曝露している率が最も低い5%(基準率5%)のエリアで抗体検査を実施した場合、その検査の感度は90%で特異度は50%ですので、陽性と判断される者の内の半数以上は偽陽性者という結果になるでしょう。対照的ですが、基順率が50%まで上昇すると、偽陽性率は5%未満に低下します。ここで、再び無限ループに陥ります。多くの研究者が抗体検査を使用して、ウイルスに曝露した人の数を調べています。しかし、抗体検査の精度を判断するには、本当に曝露した者の数と検査結果を突き合わせてチェックしなければなりません。しかし、本当に曝露した者の数をどうやって特定すれば良いのかという問題に突き当たってしまいます。そんな状況ですから、そもそもウイルスが集団全体に拡がってしまったら、感染経路を追跡するなんてことは不可能なのです。それは、エッシャーのだまし絵の中に紛れ込んでしまったようなもので、出口など無いのです。