3.ムーアが遺伝子系図学に携わるようになった経緯
犯罪を解決する遺伝子系図学者の仕事は、就職フェアや転職フェアに行っても見つけることは不可能でしょう。ムーアの場合も、それがしたいと思ってやり始めたわけではありません。たまたま犯罪捜査を手伝って、たまたま分析手法の構築を手伝った経緯があるから、それをしているだけです。
彼女は、サンディエゴ郊外に計画的に作られた都市であるランチョ・バーナードで2人の姉と1人の弟と一緒に育ちました。彼女の両親(J. C.ペニーの上級管理職と専業主婦)は、非常に宗教に熱心でした。子供に高等教育を受けさせることが将来の役にたつという認識は持っていませんでした。しかし、ムーアには強い向学心がありました。彼女の担任教師は、ムーアに特別なカリキュラムを作ってくれました。クラスの他の者は従来の学習をしていましたが、ムーアには簡単すぎたからです。ムーアはメンサ(全人口の内上位2%のIQ(知能指数)の持ち主であれば、誰でも入れる国際グループ)に入りましたが、学校や教会や家庭内では、話が合わないせいか少し浮き気味でした。ムーアは私に言いました、「家の横に木があったんです。それに登って本を読んでいました。いつも1人でした。」と。
ムーアの2人の姉はどちらも大学には行きませんでした。ムーアも行くつもりはありませんでした。彼女は私に言いました、「何人かの先生が『あなたみたいな優秀な子が進学しないなんて信じられないわ?』と言い出すようになったんです。」と。そこで彼女はいろいろと調べて、3万ドルの奨学金が必要でしたが南カリフォルニア大学に進むことに決めました。
ムーアは科学、ジャーナリズム、法律に興味がありましたが、音楽の教師から歌が上手いということで音楽を極めるよう勧められました。ムーアは言いました、「彼女は私に影響を与えました。両親以外では一番大きな影響を与えました。彼女は音楽に集中すべきで、微積分を勉強することはもう止めた方が良いとか、あれやこれやを止めた方が良いというようなことを言いました。とにかく音楽に集中すべきだと言っていました。」と。
南カリフォルニア大学ソ-ントン音楽学校は、クラシック音楽を志す人にとって、世界的に有名な場所でした。ムーアはそこに入学したのですが、すぐに自分がオペラの勉強にはあまり興味がないことに気付きました。彼女はミュージカルに興味があったのです。演劇科が上演するミュージカルに出演することになった時、彼女の指導官たちは、彼女がミュージカルにのめり込むとクラシック音楽の練習が中途半端になるのではないかと心配して、愕然としたようです。それで、ムーアはどちらを専門に学びたいか決める必要があると言われました。「クラシック音楽をとるか、ミュージカルをとるか、いずれかに決めるように言われました。」と彼女は言いました。結局、彼女はミュージカルを選び演劇科に移りました。
大学4年生の時、彼女は友人の家に住み(場所はアーバイン)、キャンパスまで1時間かけて通っていました。アーバインでは地元の劇団に加わっていました。その年、その友人が自殺してしまいました。ムーアは非常に取り乱したので、最後に残った1つの過程を修了させるのに大変苦労しました。大学側は、「いったん卒業して、課題等は後で完成させれば良い。」と言ってくれました。しかし、彼女は既に役者として活動を始めていたので、学位を取る意味はないと判断しました
女優を目指している割には、ムーアは内向的な性格でした。テーブルの上に飛び乗って独演をするよりは、本を読むほうが好きでした。しかし、彼女は驚くほどに集中力が高く、台本のセリフを容易に暗記できるほどでした。彼女は私に言いました、「昔は台本をさっと見るだけ暗記できたんですよ。でも、その能力は使い果たされたようで、今では涸れてしまったわ。」と。彼女はジムで何時間も体を鍛えていました。彼女はまた、演技だけでなく、劇団の雑用なども引き受けていました。かつて、彼女は50日間休まず劇団の仕事をしたことがありました。彼女は役者として劇場に出たり、テレビや映画等に端役でキャスティングされるようになりました。(フランシス・フォード・コッポラの映画”The Rainmaker”(邦題:レインメイカー)にムーアは出演していました。海辺のシーンで、ビキニ姿で登場していましたが、背景の一部として映っていただけでした。)また、彼女はテレビ等の通販番組のМCや展示会などの仕事をして生計を立てていました。彼女は”The Young and the Restless”(邦題はザ・ヤング・アンド・ザ・レストレス:米CBSが1973に放送した昼ドラマ)に出演できそうだったのですが、バービー人形に関する展示会の仕事をしていたため、みすみすそのチャンスを逃すこととなりました。
2001年9月11日、ムーアはその日に3回オーディションを受ける予定でした。しかし、テロが発生してしまったので、面接はいずれもキャンセルされてしまいました。特に定職もなく暇になってしまったので、彼女は家系図を作るという、普通の人はあまり関心を示さないことに集中して取り組むこになりました。ムーアが家系図の作成に取り組んで学んで思ったのですが、人々が先祖を調べて家系図を作りたいと欲するのは、自分の祖先を遡って不明な部分を知ることで自分の存在を確認したいからだと推測しました。
ムーアの家系は、どこの家系でも同じだと思いますが、遡ると詳細が分からない部分や謎な部分が出てきます。たとえば、ムーアの家系では、フィンランド人の祖父母が国外に移住したのですが、その後、祖父母と親族の繋がりはバッタリと断ち切られてしまっていました。ムーアは言いました、「祖父母は家族や親戚のことを話すことは決してありませんでした。祖父母は両親や兄弟の話さえもしませんでした。それで、私は祖父母の家族のことに興味を持つようになりました。」と。彼女の父親はノルウェー人のクォーターで、そのいとこの2人は祖先に関する情報を得るためにノルウェーに旅行したことがありました。ムーアはさらに掘り下げ、教会に残っていた記録を精査しました。その記録のほとんどは、古ノルウェー語で書かれていました。しかし、彼女は少し独学で学んだことがあったので、解読するのに問題ありませんでした。
ムーアは私に言いました、「私は家系図を作ったり家系を遡ることだけに専念していたわけではありません。私が、一貫してやり続けていたのは、DNAを読み解くということだけで、その一環でたまたま家系図を作っただけなのです。」と。ムーアは、遺伝子に関する知見を系図学に持ち込んだ先駆者です。しかし、それによって彼女は、他の系図学者たちから煙たがられました。というのは、系図学者の多くは、古文書等の文献こそが優先させるべきであると考えていたからです。しかし、ムーアは純粋に科学的な知見が優先されるべきだと信じていました。その当時、DNA検査をするのは非常にコストがかかり、彼女にとっては重荷でした。しかし、それから数年で技術が長足に進化し、コストが急激に下がりました。そうしたことを受け、彼女はますますDNA検査を活用した調査や研究を進めるようになりました。