8.遺伝子系図学の知見によりカナダカップル惨殺事件の犯人特定
パラボンナノラボ社のオフィスは、バージニア州レストンの並木道沿いにあります。その地域には、無数の連邦政府機関があり、その中でパラボンナノラボ社は不思議な存在感を放っています。1999年、機械学習を専門とするコンピューター科学者のスティーブ・アーメントラウトと、その妻ポーラによって設立された会社です。当初はクラウドコンピューティングのサービスの提供を目指していたが、アマゾン、マイクロソフト、グーグルがこの分野を席巻し始めたので、機械学習とバイオテクノロジーの接点に焦点を当てるようになったのでした。そからすぐに国防総省との契約を勝ち取りました。イラクなどでテロに使われた爆発物に残されたDNAの痕跡から、その爆発物の背後にいる人物を特定することを依頼されたのでした。遺伝子を手がかりに、その人物の表現型(形状や形態)を出来る限り詳細に現わすことが求められました。
アーメントラウトは、その依頼は機械学習が最も能力を発揮できるものだと思いました。そして、ハーバード大学から若い遺伝学者を雇い入れ、生物学的な側面から研究に加わってもありました。1年も経たないうちに、国防総省はこのプロジェクトに100万ドル以上の資金を投入し、その範囲を拡大することになりました。パラボンナノラボ社は遺伝子情報を分析して表現型を現わす仕組みを構築しました。遺伝子情報を詳細に分析して複数の人物間にどのような関係があるかを判断するのにも役立つものでしたし、系図調査の際にも役立つものでした。イラクのように一族間の結びつきが強いところでは、このような遺伝子情報を分析し比較することで戦闘員を特定できる可能性があります。また、そうした分析は、戦死した兵士の遺骨を特定するのにも役立つこともありそうでした。パラボンナノラボ社は、構築した仕組みを「Kinship Inference(親族関係推定装置)」と呼びました。その仕組みが優れていたのは、DNAサンプルが劣化していても推定することが出来るように設計されていることでした。
親族関係を評価する機械学習アルゴリズムに学習させ進化させるために、アーメントラウトやスタッフたちは、既にどのような血縁関係があるか明確に分かっている人たちの遺伝子プロファイルを与えて認識させる必要がありました。当初、そのようなデータを十分に確保するのは非常にコストがかかると思われました。しかし、遺伝子系図学者が既にかなりのデータを蓄積していることに気付きました。そこで、遺伝学に関する学会等を巡った後、パラボンナノラボ社はムーアと接触しました。それで、ムーアはこのプロジェクトを推進することに同意しました。やがて、パラボンナノラボ社に大量のデータが舞い込むようになりました。
ムーアは、アーメントラウトと会ってプロジェクトに加わることに同意した際に、身元不明者を特定する研究も進めたいと言いました。そして、それについては無報酬で研究しても良いという許可を得ました。彼女は私に言いました、「研究して身元不明者の特定する技術が有用であることを認めてもらう必要がありました。」と。パラボンナノラボ社はGEDmatchを運営している企業に連絡を取り、数週間の話し合いの後、ムーアがパラボンナノラボ社で研究をする許可を得ました。
2018年、ムーアはテキサス州捜査当局から、2つの案件について調査を依頼されました。パラボンナノラボ社に参画してから初めて引き受けた依頼でした。2つの依頼はいずれもかなり困難であることが判明しました。1件は、アカディア(カナダ東部のフランス人が最初に入植した地)にルーツを持つルイジアナ州の女性が調査対象でした。ムーアは私に言いました、「何世紀にもわたって、この地域ではフランス人同士の結婚が続けられていたようで、当然、親族間での結婚も度々行われていたようです。」と。その女性の家系図を調べていると、何度も同じ苗字に出くわしました。さらに悪いことに、異人種間でも結婚もあったようで、共有するDNAの量が莫大になっていました。例えば、DNAの共有している比率でまた従兄弟と思われる2人が、実はもっと縁遠い関係であるといったことが発生しました。「私は、1755年にアカディアからイギリス人によって追放されたフランス系住民に特有と思われる30~40センチモルガンという大きな遺伝連鎖があることを発見しました。」と彼女は言いました。
その年の4月、アカディアの件の調査を続けている時でしたが、ムーアがびっくりするようなニュースが飛び込んできました。1970~80年代にかけて世間を恐怖に陥れていた「ゴールデン・ステート・キラー」が犯人とされる一連の連続強姦殺人事件があったのですが、カリフォルニア州の捜査当局とFBIによる特別捜査班よって犯人が特定され、逮捕されたのでした。犯人の本名は、ジョゼフ・ジェイムズ・ディアンジェロ・ジュニアでした。かつて警官をしていました。
ムーアは、その犯人が逮捕されたのは画期的なことだと思い、遺伝子系図学の技術が犯人特定に寄与したと確信していました。バーバラ・ラエベンターが各地の捜査当局に協力していることを知っていたムーアは、ラエベンダーがその事件の捜査に関与しているかどうか尋ねました。すると、ラエベンターは関与していると答えました。捜査の際にはGEDmatchや他のデータベースでDNAの照会をしていたようでした。ムーアはGEDmatchの共同開発者のカーティス・ロジャーズに電話をかけ、遺伝子系図学の研究は一線を越えてしまったと言いました。GEDmatchのデータベースは元々はプライベートのものでしたが、殺人犯の捜査のために使われてしまったのです。
ロジャーズは、フロリダにある小さな家でGEDmatchを運営していましたが、そこは彼の妻が絵を描くアトリエも兼ねていた。捜査当局が今回の捜査ではGEDmatchの功績が大きかったと公表すると、そこにはテレビ局のクルーが押し寄せました。家の周辺を警官やテレビクルーがうろつくと、社会的信用が失墜する危険性もあるように思われました。うろつくことを非難して拒否する意思を明確に示せば、それは防げるようでした。しかし、彼はまた、GEDmatchが社会に大きな利益をもたらす卓越した仕組みであることを示す可能性もあるように思われました。何といっても、GEDmatchは少なくとも13人を殺し50人もの女性をレイプした犯人を捕まえるのに大きく貢献したのです。ロジャーズはムーアにもここのデータベースを使って凶悪犯罪者の追跡をすべきであると示唆しました。彼は言いました、「あなたもやるべきです。」と。
その週の終わりまでに、ロジャーズはGEDmatchのサイトに告知文を投稿しました。そこに記したのは、GEDmatchのデータベース上にあるDNAの詳細情報は系図調査以外の目的で使われる可能性があり、それを拒否したいのであればデータを削除しなければならないということでした。また、利用規約も改訂しました。捜査当局は特別に調査用のアカウントを保持するものの、殺人事件や性的暴行事件の捜査と遺体の身元確認以外の目的には使用しないと記しました。ムーアは、パラボンナノラボ社のスティーブ・アーメントラウトに電話をかけ、気が変わったと言いいました。「今後は犯罪捜査を中心に扱っていきたい。」と彼女は言いました。
その1週間ほど前、スノホミッシュ郡の刑事ジム・シャーフはパラボンナノラボ社からその容疑者のDNAの詳細情報を送るよう依頼しました。それで、ラエベンターにそれを分析させようとしました。しかし、パラボンナノラボ社の対応はゆっくりとしたもので、詳細情報はすぐには届きませんでした。しかし、その時、アーメントラウトは、これは大きなビジネスチャンスであることに気が付きました。パラボンナノラボ社は、捜査当局から提供された容疑者のDNAプロファイルを保管しており、これをGEDmatchのデータと併わせて使えば、事件の解決に役立つと考えたのです。アーメントラウトはシャーフに折り返し電話をかけ、パラボンナノラボ社がラエベンターの代わりに無料で系図調査をすることを提案しました。
ムーアにとって、トラック運転手のウィリアム・アール・タルボット2世の身元特定をすることは簡単なことでした。GEDmatchのデータベース上で、DNAのかなりの量を共有している2人のユーザーがいることに気付きました。1人は、タコマに住むまた従兄弟のチェルシー・ラスタッドでした。ムーアは、ラスタッドの祖先を遡って調べ、チェルシー・ラスタッドの曽祖父母までたどることが出来ました。曽祖父母がどこで何をしているかを調査しました。2人はかつてノースダコタに住んでいましたが、妻のジャンナはシアトルで亡くなっていました。シアトルで調べると、ジャンナにはタルボットという男と結婚した孫娘がいたことが分かりました。ムーアは少し驚きました。というのも、この事件に関して遺伝的情報からムーアが見つけ出した曾祖母は他にも1人いてエイダ・マリーという女性だったのですが、彼女もまたタルボットという男と結婚していたからです。調べを進めていくと、エイダ・マリーの息子がジャンナの孫娘と結婚していたことがわかりました。この2人が、容疑者の両親だったのです。
ムーアは、本当の犯人を突き止められるのは自分だけである(犯人の除いて)という意識を持っていたので、週末の残りの時間にもさらなる調査分析を続けました。これまで判明したことを整理し再確認しました。その事件が裁判にかけられた時、彼女は傍聴し判決を聴くことができました。タルボットは、老いて白髪で大きな体で立っていました。手首が太すぎて年首に手錠をかけられなかったとシャーフは言っていました。ムーアの回想によれば、有罪であると宣告された時、タルボットは崩れ落ちたそうです。タルボットの女性弁護士が手を差しのべようとすると、タルボットは「俺はやっていない。」と言いました。ムーアはそれを見て、自分がタルボットを犯人であると特定したことは誤りだったのではないかという考えが頭をよぎりました。しかし、そんなはずは無く、自分は正しいと思い直しました。タルボットの精液が被害者のパンツに残っていましたし、結束バンドに付着していた彼のDNAも採取され分析済みでした。どう見てもタルボットが犯人であることが明白でした。ターニャ・ヴァン・カイレンボルグの両親は既に他界していましたが、彼女の兄は裁判を傍聴していました。判決を聞いて、重荷から解放されたような感じに見受けられました。