本日翻訳して紹介するのは、the New Yorker のWeb版に9月16日に掲載されたスタッフライターの David Owen によるエッセイです。タイトルは、”Lost in the Mountains”(登山旅行での遭難)です。 David Owen はスタッフライターで、10冊以上の著作があります。
本日翻訳したエッセイは、David Owen によるもので、1960年代に参加したキャンプのことを振り返っています。家族で行ったキャンプではありません。コロラドの山中のキャンプ場へ、親元から離れて2週間ほど行っています。キャンプ場では、10歳から18歳くらいまでの少年がたくさん来ていて、4〜5人で1つのテントに泊まります。1テントに1人キャンプ指導員(counsellor)がいます。たぶん、大学生のバイトとかでしょう。このエッセイに記されているキャンプとは、そういうキャンプのことです。1960年代とかだと、ある程度お金に余裕のある中流以上の家庭の子のみが、キャンプに参加していました。そもそも、東海岸とかからコロラドまでの旅費だけでも相当かかりますし、2週間のキャンプは山岳旅行とかさまざまなプログラムが用意されていて、かなりの費用がかかっていたはずです。おそらく、当時のことですから、白人しか参加していなかったでしょう。
さて、このエッセイでは、氏の参加していたキャンプで、1人の少年が2周間行方不明になったことが記されています。このエッセイの主題は、その少年がいかにして生き延びたかということではありません。行方不明者を出したキャンプ場の管理の緩さを指摘しているわけでもありません。そうではなくて、行方不明になった少年の数奇な人生に思いを馳せてます。
その少年は、医学科を卒業して医師になります。元々、裕福な家庭の師弟で、ハイスクールでは学業もスポーツも優秀でしたから、当然といえば当然です。そして、結婚して娘もできます。しかし、独りぼっちだったことがトラウマになって、実は行方不明になってからあらゆることが徐々に悪化していったのです。それで、うつ病で入院したりします。最終的に医師をやめます。それでカトリックの神学校に入って神職の道に転じます。
行方不明になった少年は、一人ぼっちだった時に神に祈りを捧げます。もし救助されたら、残りの人生を全て神に捧げると誓います。その瞬間に救助ヘリが近くに来ます。神が近くに居るのだと感じます。しかし、神の前で嘘はつけないと感じ、さっきの誓いは嘘だったと告白します。すると、救助ヘリは飛び去って行ってしまう。
まあ、神を信じぬ不届き者の私からすると、本当に信じている人っているんだ?と思ったりします。信じぬ者が正しいわけでも、信じる者が正しいわけでもありません。好きにしたら良いと思います。ただ、信じるものは救われるじゃないですけど、何か信じるものがある人は何かあった時に踏ん張れるような気がしないでもありません。もう1つ気づいたのは、たった1つのトラウマが、その後の人生に長く大きく影響を与えるということです。まわりの人は認識していないが、トラウマを受けた者は長く深く苦しんでいるということが往々にしてあるのかもしれません。
ところで、宗教的妄想といって、10万人に1人くらいの割合で、自分は神だと言い出す輩がいます。大概は頭がおかしいと思われて誰にも相手にされないわけですが、ときどき突き抜けた人物が出現します。イエス・キリストなどです。宗教にのめり込む者も一定の割合でいるような気がします。おそらく、10人に1人くらいの割合ではないでしょうか。別にそれが悪いとか良いということではないのだが、生物学的に見れば一定数いて、それは多数派ではない。それで、宗教にのめり込んでいる者(少数派)がいると、多数派から気持ち悪がられる。のめり込んでも、仕事に穴をあけるとか、人に迷惑をかけなければ無問題だと思ったりします。
さて、話がそれましたが、以下に和訳全文を掲載します。