1960年代コロラドで少年1人が2週間行方不明に!当時のキャンプ場管理は緩かった?いや、全てが緩かった!

The Weekend Essay

Lost in the Mountains
登山旅行での遭難

In the nineteen-sixties, my sleepaway camp was delightfully under-supervised. Then a camper went missing.
1960 年代に行ったキャンプ場の監督状況は緩かった。1人の少年が行方不明になった

By David Owen September 16, 2023

1.

 1967年の夏、サージェント・ペッパー(Sgt. Pepper)が大流行していた。私はコロラド州フロリサント(Florissant)近郊のキャンプ場で1ヶ月過ごした。カンザス・シティ(Kansas City)から到着して直ぐに、私は両親に手紙を送った。内容はシンプルなものだ。途中で死ななかったことを知らせた。私は12歳だった。私は少年4人とキャンプ指導員1人と一緒にテントで寝泊まりした。ある日、一番年少のムースという子が、服を全部脱いでテントの中央にある二段ベッドの上に登り、誰かに向かって狩猟用の矢を投げた。何でそんなことをしたかは覚えていない。矢は外れたが、キャンバス地に穴が開いた。雨が降ると雨漏りした。テントのフレームにガスマスクが1個吊るされていた。誰かが屁をこくたびに、幸運な1人がそれを使った。私は、姉に送った手紙にそうしたことを書いた。その年の理科の授業の性教育の単元が非常に詳しかったおかげで、私は他の子供たちにシックスティ・ナインの意味を説明することができた。彼らは全く意味を知らなかった。信じられないという顔をして、嫌悪感を示す叫び声を発した。一番年長だった子が、自分ではやったことはないが、私の説明が正しいことは事実だと言った。

 今では、セックスの体位について何も知らないような小学6年生はいないかもしれない。たとえ知らないとしても、ネットで動画を見て何でも知ることができる。当時と今とで違うことは、他にもある。私たちのキャンプ指導員は、ナスティ・ネッド(Nasty Ned)と呼ばれていた(訳者注:ナスティは不快なという意味)。彼がキャンプ内のゴミ捨て場にゴミを捨てに行く時、私たちの3人か4人がゴミと一緒にトラックの荷台に乗り込んだり、ぶら下がったりした。家に電話したことはなかったし、しようとも思わなかった。ライフル射撃場では聴覚保護具を一切使わなかった。馬に乗る時、ヘルメットを被らなかった。カウボーイハットを被った。そういえば、キャンプ場では週刊の新聞も作っていた。それ用に自分のテントの活動を報告すると、キャンプ場内の売店で使える5セント分の券がもらえた。シュガーベイビー1箱しか買えない。キャンプ場近くに廃鉱があって、古代の遺物探しに出かけた。「古い小屋が何個かあった。」と、私は両親への手紙に書いた。「たくさんのものを見つけたが、1934年の「コリアーズ・マガジン(Collier’s Magazine:炭鉱夫向けの雑誌)」1冊、農業雑誌2冊、釘の束、1910年の絵葉書の束、1898年に出版された3冊の本だけを手元に残した」。私たちは鉱山の縁のあたりで昼食をとり、何人かが鉱山の入口から中に入った。引率していたキャンプ指導員は、私の両親とほぼ同じ年齢に見えたが、実際には大学生くらいだったと思う。少しも怖がっていなかった。

 私はキャンプが好きだった。テントで寝食を共にしたキャンプ指導員も好きだった。彼は、分厚くて書き込みのある本を貸してくれた。ハリール・ジグラーン著の「預言者(The Prophet)」だった。ある日の午後、彼は私とテント仲間の1人に、近くの露出した岩壁でクライミング、ロープの結び方、懸垂下降を教えてくれた。私は、たった一人で、ロープとハーケンとカラビナで埋め尽くされた高地の山小屋で、野生のアスパラガスなどを食べて生き延びることを想像した。中学生の頃、私はデビッド・ロバーツ(David Roberts)著の「山の恐怖(The Mountain of My Fear)」を何度も読んだ。ハーバード山岳クラブ(Harvard Mountaineering Club)で知り合った4人の若者による、アラスカのハンティントン山(Mt. Huntington)への不幸な登山が描かれていた。私は自分も不幸な登山旅行をしてみたいと思った。