2.
翌年の1968年にも同じキャンプ場に行った。今度は6週間過ごした。ある晩、ロッジで模擬選挙が行われた。「一回目の投票でニクソンが勝っていたのだが、突然、キャンディとガムを投げる集団が部屋に入ってきた。」と、私は両親に宛てた手紙に書いた。「彼らは、私のテントにいたジム・レクター(Jim Rector)を勝たせようとしていた。1票と引き換えにコーラとフロステッド・モルト(Frosted Malt)を1つずつ渡していた。彼は184票中168票を獲得し、選挙に勝った」。同じ手紙の最後で、その3日前にヴェイル(Vail)の南西12マイルにあるホーリークロス山(Mount of the Holy Cross)で、キャンパー1人が登山旅行中に行方不明になったことを伝えた。私と同じキャンプ場にいて、別のテントにいた少年だった。「行方不明になって4日経った。」と、私は書いた。「ラジオでも彼のことがニュースになってる。何か続報があれば手紙に書くよ」。
ホーリークロス山はコロラド州のフォーティーナーズ(fourteeners)と呼ばれる14,000フィート(約4,267m)を超える峰々の1つである。北東面にある2つの交差するクレバスが名前の由来である。雪がそのクレバスを埋め尽くすと、巨大な白い十字架に見えるという。ロングフェロー(Longfellow :19世紀のアメリカの詩人)が1879年に、18年前に亡くなった妻を偲んで書いたソネット(14行詩)の中でこの山について触れている。妻は、子供の髪の房を封筒に入れて封蝋で封緘しようとしていた時に衣服に引火し、重篤な火傷を負って翌日に死去した。
はるか西のかなたに山があり
太陽を遮り、その深い山峡には
雪の十字架が横たわる
それが私が胸につける十字架。
(原文は以下の通り)
There is a mountain in the distant West
That, sun-defying, in its deep ravines
Displays a cross of snow upon its side.
Such is the cross I wear upon my breast.
かつて多くのキリスト教の巡礼者が、十字架に思いを馳せるため、近くの尾根にあるシェルターまでトレッキングした。1980年、連邦議会はこの山と周囲の険しい峰々を国立自然保護区に指定した。
毎週、キャンプ場の責任者サンディ(Sandy)は、子供たちの親元に手紙を送っていた。キャンプ場で起こったさまざまな出来事が記されていた。少年が行方不明になって5日後の8月4日に彼が送った手紙には、彼の妻のローラ(Laura)のサインもあった。手紙は、「エキサイティングなトリップ、キャンプ場内での楽しく刺激的なプログラム、楽しさ満載」という文言で始まっていた。そして2段落目で、行方不明になったキャンパーについて触れていた。「キャンプ指導員たちはすぐにキャンプ場に連絡し、すぐに捜索を開始しました。」と、記されていた。「それ以来、捜索は140人もの優秀な救助隊と5機のヘリコプターを使うまでに拡大した」。行方不明になった少年はビル(Bill)といい、16歳だった。「私たちは困惑していますが、誰も希望を捨てていません。」と、手紙は続いていた。「ビルは 機知に富み、ハイキングとサバイバル技術の訓練を受けていた」。彼は寝袋もテントも持っていなかったが、登山メンバー8人分のランチが入ったバックパックを背負っていた。
キャンプ場はいささか混乱していた。いくつかのプログラムは縮小された。サンディが捜索者たちに食事を提供していたため、食事が質素になったように感じられた。しかし、文句を言う者は1人もいなかった。私たちは捜索に参加したくてウズウズしていた。サンディーが参加を許可してくれれば、他の活動がキャンセルされても無問題だったし、食事もチェリオス(Cheerios:甘いシリアル)さえあれば誰も文句を言わなかっただろう。私はビルのことをあまり知らなかったが、外見は知っていた。背が高くスリムで、茶色の短髪に眼鏡をかけていた。ホーリークロス山はキャンプから70マイル(112キロ)以上離れていた。テントからシャワー室のある管理棟に繋がる坂道からも見えた。私は目を見開いて眺めた。
次に親元に送った手紙に、私は書いた、「今朝、朝食時にヘリコプターがキャンプ場に飛んできた。野球のグラウンドに着陸した。」と。皆がヘリコプターに嬉しそうに駆け寄った。ビルが戻ってきたと思ったからだ。しかし、ヘリコプターは金持ちの子供の父親のものだった。見せびらかしに来ただけだった。私と何人かがその父親を取り囲んだ。すぐにホーリークロス山に向けて再び飛び立つよう促した。しかし、彼は拒否した。「捜索隊はビルのものと思われる足跡をいくつか発見した。しかし、本当に重要な手がかりは何も見つかっていません。」と、私の手紙は続いた。
私の知る限り、キャンプ場から子供を無理やり連れ帰ろうとする親は1人もいなかった。また、地元の報道記者が来て、キャンプ場にいる子供に根掘り葉掘り聞くということも無かった。キャンプ指導員の中に怪しい者がいないかと聞かれることもなかった。ビルの両親が捜索隊に加わるために東海岸からコロラド州まで来ていた。両親は憔悴していたに違いない。キャンプ場のスタッフや捜索に加わっている者なども絶望感を感じていたはずだ。しかし、私が見た限りでは、誰もが穏やかで落ち着いているように見えた。装っていたのかもしれない。私たちは宝探しをした。クリプル・クリーク(Cripple Creek)市に出たこともあった。そこでテレビをみた。空軍士官学校(Air Force Academy)のチャペルにも行った。私は、同じテントの1人と、キャンプ指導員の助けを借りて、1マイル(1.6キロ)離れたガールズ・キャンプの食堂棟を真夜中に襲撃した。アイスクリーム、クラッカーをくすねた。シリアル2箱、トウモロコシ1本も盗んだ。普通にキャンプを楽しんでいた。