3.
8月6日の夜中の2時に、私の隣のテントのキャンプ指導員テリー(Terry)が、ホーリークロス山に向けて出発した。捜索隊に合流するためだ。「現在、捜索隊は300人規模になった。兵士200人と地元の人100人だ。」と、私はその日の両親に宛てた手紙に書いていた。「彼らは15フィート(約4.6メートル)間隔を空けて歩き、手がかりとなるものを探している。小さな紙片等を拾う。無線で、拾った物がビルの持っていたものか否かを聞く。ビルは逃げたと考えている者もいる。ビルがキャンプ場からそう遠くないところでキャンプしていると考えている者もいる。彼が食料を求めてこっそり忍び込む場合に備えて、夜中でもロッジにキャンプ指導員が常駐するようになった」。
8月11日、ビルが行方不明になって12日目にも私は両親に手紙を書いた。ホーリークロス山への5日間の登山旅行に出発する予定だと書いた。「捜索隊に加わるわけではない。純粋な登山旅行だ。」と、私は書いた。「ホーリークロス山はコロラド州で一番美しい場所なんだ」。また、もしその日の内にビルが見つからなければ、捜索は打ち切られることも書き加えた。仕方がないと思った。彼が消息を絶ったあたりでは、2週間は生き延びることが不可能な長さだ。たとえ、ビルの機転が利いたとしても、16歳の少年が1人で生き延びることは不可能だろう。手紙の最後に書いた、「共和党大会でニクソンが勝利したのは喜ばしい。だけど、スピロ・T・アグニュー(Spiro T. Agnew)はどうだろう?」と。
午前4時に登頂を開始する予定だった。しかし、前夜に降雪があった。それで、7時半まで開始できなかった。頂上から500フィート(152メートル)下の険しい稜線で、吹雪に襲われた。「20フィート(6メートル)先が見えない。風も強い。」と、私は両親への手紙に書いた。私たちは引き返すことにした。髪が凍った。氷のヘルメットのようになった。手足の感覚もほとんど無かった。午後1時半前にベースキャンプに戻った。ほとんどのテントが吹き飛ばされていた。テント仲間と私は2人で協力して自分たちのテントを張り直した。中に入った。風と雨で火を熾すことは不可能だった。夕食に食べたのは、昼食に食べる予定だったもので、 アメリカンチーズ(American cheese)、B&Mブラウンブレッ(B. & M. brown bread:缶入りのパン)、オレンジ、チョコレートバーだった。テント仲間がアニマルズの1965年のヒット曲、”We Gotta Get Out of This Place(邦題:朝日のない街) “をずっと口ずさんでいた。歌詞は一部しか覚えていないようだった。本当に閉口した。ビルのことが話題になった。彼がまだ生きている前提で話をした。だけど、どうやったら生き延びられるかを考えると、無理なことだと思えた。
翌日、天気は完全に回復した。私たちは標高1万2,000フィート(約3,700メートル)くらいまで下った。ハンキー・ドリー・レイク(Hunky Dory Lake)の近くでテントを張った。午前中に、キャンプ場のバスが私たちを下した場所に戻った。旧式のバスは停めたままだった。ダッシュボードの上にはキャンプ指導員たちに宛てた手紙が置いてあった。それによると、火曜日の午後2時に、私たちが登山旅行に出て2日目、ビルが失踪してから2週間後経っていたが、アウトワード・バウンド(Outward Bound:世界で初めてのアウトドア活動のための短期スクール)のハイキングをしていたグループが彼を発見していた。彼は生きている。私は、キャンプ場に戻ってから両親に手紙を書いた。書いたのは、ビルがサンディを見た時、「来年も来たいんだけど無理かな?」と聞いたことだ。