1960年代コロラドで少年1人が2週間行方不明に!当時のキャンプ場管理は緩かった?いや、全てが緩かった!

4.

 翌年、私はそのキャンプ場へは行かなかった。地元のデイキャンプ場でキャンプ指導員をした。でも、ビルのことは決して忘れなかった。ちょっと前のことだが、私はあのキャンプ場の運営者の1人のジェリー(Jerry)に偶然出くわした。ビルが行方不明になった夏、私もジェリーもあのキャンプ場にいたのだ。ジェリーはあの2週間本当に苦しかったと言っていた。私がビルと連絡を取りたいと言うと、彼は了解してくれた。それで、先月初め、ビルから私の携帯に電話があった。

 私とビルはキャンプの思い出話に花を咲かせ、1968年以降のお互いの人生について語り合った。彼は2冊のノートのコピーを送ってくれた。合計100ページ、彼は山で発見されて直ぐに、ノートに手書きでいろいろと綴っていたのだ。そのノート、地質調査所(U.S. Geological Survey)から取り寄せた3枚の地形図、会話した際に聞いた手がかりをもとに、彼が辿ったルートを特定した。彼はテント仲間3人とともに7月30日の昼前には山頂に到着した。雷雲が近づいていた。彼らは山頂の登山記録簿にサインをした。写真を数枚撮った。雨が降り出し、ビルは雷で怖くなった。(私はテント仲間と登山旅行に行く前に、キャンプ指導員から「髪の毛が逆立つと感じたら、膝をついて前かがみになりなさい。そうしないと雷に打たれる。」と、言われた)。尾根を下っていったが、知らぬ間に早足で歩いていたビルと後続との距離が広がってしまった。ビルは他の3人からはぐれてしまった。「完全にはぐれたと思った。」と、彼は言った。「でも結局、前の晩にキャンプした場所まで戻れたんだ」。彼は、他の3人は雷で死んだと思った。すると1人のキャンプ指導員が現れた。食料を運んで欲しいと頼まれた。そこより下にある山小屋にはビルのテント仲間がいると言われた。登山道の途中にあるその山小屋に仲間は非難していたのだ。ビルとそのキャンプ指導員はバックパックを交換した。

 ビルが下山を始めた時、はるか下の峡谷に小川が流れているのが見えた。その小川は、自分が知っている川で山小屋の前を流れているものだと思い込んだ。しかし、実際にはもっと西方を流れる川だった。右に行かなければならないのに、左へ進んだ。山の反対側に出てしまったのだ。斜面は険しく、雨と濡れた松葉のせいで岩や岩肌を越えるのに悪戦苦闘しなければならなかった。峡谷の底に着いた時、服もブーツもびしょ濡れだった。寒くて震えた。陽は沈みかけていた。彼は助けを求めて叫んだ。キャンプ指導員と交換したバックパックからポンチョを取り出した。「人生で最も長い7時間だった。」と、彼のノートには記されていた。彼はポンチョにくるまりながら、タバコ用ライターで暖をとった。これは愚策だったが、あとの祭りだ。火を起こすことができなくなった。棒をこすっても火を起こすのは無理だったし、ライターの火打ち石で火花を散らしたが、何も火をつけることはできなかった。

 ビルのバックパックには私が食べたランチと同じものが入っていた。2ポンド(0.9キロ)のチーズ1箱、1ポンド(0.5キロ)のB&Mブラウンブレッド2缶、オレンジ8個、チョコレートバー20個だ(彼はビーフジャーキーも2本持っていた。登山旅行のためにバスで山へ来る途中のガソリンスタンドで買っていた)。全部を合計しても1万カロリーを少し超える程度だ。2週間で体重が2ポンド(14.5キロ)減った。体重のほぼ4分の1に相当した。彼は石で缶を叩いて小さな穴を開け、そこからパンのかけらを取り出した。その後、釘のついた板を見つけた。それを使って缶蓋の周囲にたくさん穴を開け、缶蓋を完全に開けた。食事は、毎晩、少量のパンとチーズを食べるだけにした。それだけが楽しみだった。クレソン(watercress)、ミント(mint)、キツネノマゴ(Indian paintbrush)、タンポポ(dandelions)、蚊(mosquitoes)、アリ(ant)を見つけては食べた。野生のキノコを試したこともあった。ちょっとだけ齧って具合が悪くなるか否か試した。初日に転倒して水筒を失くしていた。水を飲む際には、紙コップか、液体着火剤が入っていたペットボトルを使った。彼は毎日祈りを捧げ、教会にあまり行かなかったことを後悔した。いつも独り言を言っていた。彼のノートには、「口と耳がまるで別の人格を持っているようだった。」と、記されている。とにかく退屈だった。財布に入れていたカードの情報を暗記したりして時間をつぶした。カードには、年代順に歴代大統領の名前、政党、在職年数などが記されていた。運転免許証の細かい字を研究したりした。

 毎晩、彼は救助される夢を見た。登山をしている親子に発見されて、一緒に下山しようと誘われたけど、歩く速さが早くて再びはぐれてしまう夢や、大きな岩壁の裏で卓球をしている少年たちがいて、すぐそこのキャンプ場があることが判明する夢や、老婆が通りかかって家の掃除を手伝ったら、キャンプ場にワープさせてあげると言われる夢や、キャンプ指導員が現れたが、費用がかかるのでサンディがヘリコプターの費用の負担を拒むので助けられないと言われる夢だった。最も鮮明に覚えている夢では、彼が寝ている目の前にヘリコプターが静かに着陸した。サンディが降りてきてので、助けて欲しいと訴えた。しかし、パイロットは1名しか運べないので、再び夜明けに戻って来てピックアップすると言った。夢が消えて彼が目を覚ますと、まだ辺りは暗かった。彼は救助隊が待ち遠しくて興奮していた。歌を口ずさんだ。残っていた食料をほとんど食べてしまった。太陽が完全に昇り切った時、彼はヘリコプターが来たのは夢だったと悟った。

 8月13日、行方不明になって14日目だったが、彼は沢沿いを歩いていた。山小屋が見つかることを期待していた。ヘリコプターの音が聞こえた。沢の中の岩棚の上に登っていた時だった。ヘリコプターはかなり低いところを飛んでいた。すぐ頭の上のように感じた。彼のノートに書いてあった、「手を必死で振った。だけど、 駄目だった。」と。沢の向こう側に古いキャンプ場があった。廃棄されているビニールシートを見つけた。20フィート(6メートル)四方ほどの大きさだった。それを丸めて尾根の頂上まで運ぼうと考えた。目印として使うのだ。そのころにはすっかり体力を消耗していた。頻繁に休まなければならなかった。その日の午後、まだ頂上までは長い道のりであったが、上の方から声が聞こえた。叫んだ。が、ほとんど声は出なかった。何とか斜面を駆け上ろうとした。「突然、男ばかりの集団が地面を踏みしめて降りてくるのが見えた。猛烈なスピードだった。」と、彼のノートには書いてあった。彼らはコロラド州マーブル(Marble)を拠点とするアウトワード・バウンド(Outward Bound:アウトドア活動のための短期スクール)のバックパッカーだった。オリエンテーリングの練習をしていた。彼は尋ねられた、「行方不明になっている子か?」