6.
1971年の夏、私はビルが遭難した時と同じ年になっていたが、アウトワード・バウンドと同様の活動をしているグループに加わって、コロラド州南西部で2週間の登山旅行をした。後半の1週間、リーダーは私たちを渓流沿いに分散させて、各人が1人で3日間生き延びる単独サバイバル訓練を課した。携行を許可されたものは僅かだった。寝袋、マッチ20個、ポケットナイフ、ノート、ペンだけだった。食料は無かった。私は身長が6フィート(182センチ)ちょっとで、体重は115ポンド(52キロ)くらいだった。1日めが終わる前に、私はとても空腹になった。ノートに食べたいものを書きい綴った。気がつくと嫌いな食べ物の名前も書いていた。スイートポテト(sweet potatoes)、グヤース(Hungarian goulash)、コーン・フリッター(corn fritters)、いちじく(figs)などだ。飢えよりも辛かったのは、孤独感だった。サバイバル訓練が始まって12時間で、私は孤独には耐えられないと悟り始めた。2日目の朝、私は水を飲むために寝袋を出た。湧き水まで50フィート(約15メートル)の距離をよろめきながら歩いた。戻ってくる際、途中で休憩が必要になった。30分ほど横になった。もし、私が8人分のランチを運んでいたら、おそらくその時に全部食べてしまっていただろう。
ビルと電話で話した時、私は彼に提案した。それは、もし彼が1968年に書いたノートを読ませてくれるなら、私が1971年に書いたノートを読んでもらって構わないということだった。しかし、私は自分のノートを送る前にざっと目を通して、気が変わった。私のノートの内容はとても貧相なもので、とても人に見せられるものではなかった。ビルのは違った。彼は冷静で、試練の直後であっても、山への愛は衰えていなかったのだ。「コロラド・ロッキーは私の血の中にある」。と、彼のノートの最後のページに書いてあった。「ここの自然には感嘆させられる。また、脅威に押しつぶされそうになる。神の恩寵によって、彼らを征服するのだ」。
2014年、ビルは再びホーリークロス山に行った。娘も一緒だった。彼が遭難した場所までは行かなかった。ホーリークロス山の頂から3マイル(4.8キロ)北東のハーフムーン峠(Half Moon Pass)まで行った。そこから、ホーリークロス山を眺めた。彼によれば、娘は大絶景に圧倒されたという。ずっと東海岸に住んでいる人なら、誰でも同じだろう。コロラドの山々はニューハンプシャーとは違うのだ。Google Earthで見ると、この地域全体が鉄道模型のジオラマのように見える。カーソルを動かしてホーリークロス山の山頂付近にカーソルを合わせてみる。すると、ここで誰かが行方不明になってもすぐ見つけられるように思える。しかし、実際には違う。それは、現地に行かなければ分からない。彼は、ここを再び訪れたこと、娘に同じ景色を見せられたことは感慨深いと言っていた。彼は、何か吹っ切れたような気がした。スマホで妻に電話した。すぐ脇に登山道があった。長くどこまでも続いているのが見えた。♦
以上