5.リゾットは特に好きじゃない、死んだ母と一緒に食べたことが懐かしいだけである
私が啓示を受けた地を再び訪れるのは賢明なことなのか、それとも危険なことなのか?ダマスカスから戻る途中に、衝撃の痕跡があるとすれば、それはどのようなものだろうか?最初に私たちを倒したものに、再び打ちのめされるかもしれないという考えと、そうならないかもしれないという恐怖のどちらがより悩ましいのか、判断するのは難しい。9 月のことであるが、リゾットの美味さに初めて感動した日から 40 年経っていたが、私は気づいたら何故かブラーノ島に降り立っていた。
世界の終わりが来たら、今の調子だと来週にも来るかもしれないわけだが、私はトラットリア・ダ・ロマーノ( Trattoria da Romano )に篭もるつもりである。評判によれば、ここは隠れ家のような名店である。1930 年代以降、多くの芸術家たちがここに集まり、インクや絵の具を使って明るく茶目っ気たっぷりに賛辞を送った。2022 年に彼らの作品の一部がヴェニスのケリーニ・スタンパリア財団( the Querini Stampalia Foundation )で展示された。1984 年にそのレストランの壁に飾られた絵は今もそのままである。メニューに並ぶメニューもそれに負けず劣らない魅力を保っている。ありがたいことに当時と変わらぬリゾットが提供されているが、私がその名前を知ったのはつい最近のことである。リゾット・ディ・ゴー( risotto di gò )である。いかにもテイクアウトできそうな名前であるが、残念ながらテイクアウトすることはできない。
Gòとはヴェニスの方言でギオッツォ( ghiozzo )という魚のことである。ギオッツォは醜く、ぬるぬるした、イワシ大の、糞のような色の魚で、ジャン=ポール・サルトルのあまり魅力的でない従兄弟のようにしか見えない。表皮の下はほとんど骨なので、絶対に食べようとしてはいけない。ハリネズミをかじったほうがましである。ヴェニスのラグーンにはこれほど醜い生き物は生息していないわけだが、問題はそこにある。この魚は、その地域にしか生息していないのである。ギオッツォから作ったスープを濾して米に加えると、リゾットに独特の風味が加わる。その醜さに悪態をついた私が野暮なのだと認めざるを得ない。私が神聖な謎だと思っていたことは、地理的な論理に過ぎないのである。完璧なリゾットを他の場所で発見できず、ましてや自分のキッチンで再現することもできなかったのは、他の場所では作れないからである。聖杯は永遠に、いつもあった場所に留まり続けるのである。なぜなら、ギオッツォは他には行けないのだ。
トラットリア・ダ・ロマーノの厨房では、マンテカトゥーラ(混ぜたり捏ねたりする作業)が行われていた。火から下ろされたリゾットに、バター風味が加えられる。シェフは、最後にもう一度、愛情をこめて激しく鍋を叩き、そして突然、中身を空中に跳ね上げた。中身が 2 フィートほどの高さまで舞い上がり、その後、鍋に戻った。米は一粒もこぼれなかった。通りすがりのスカッシュ選手なら、立ち止まって拍手を送るだろう。自宅のキッチンでやってみてもいいが、私はお勧めしない。熱々のドロリとした米を含んだ液体が天井にぶつかるか、猫の上に落ちるだろう。シェフが鍋のリゾットを跳ね上げる目的は空気を含ませるためだと推測する。その技巧を見るだけでも価値がある。
ブラーノ島から帰ってきてから、私は今回の巡礼の旅の源について考えた。なぜリゾットなのか。なぜそこなのか。ある真実が頭をよぎった。1984 年に母はヴェニスに旅行した。初めてのことだったが、実は、それは母の最後の旅でもあった。誰も母には告げなかったが、家族全員が最後になることを知っていた。母はすでに病気で、1 年半後に亡くなった。沈みつつある憂鬱な街でおいしい食事を楽しんだとしても、結局、それは何の意味もなかったのである。天国のような味だったが、神の恵みが得られるわけではなかった。それは、何年もかけて死の記憶へと成長する、命を与える二度とない瞬間に分かち合った、ささやかな地上の喜びだった。それがたまたまリゾットだっただけで、結局のところは何でもよかったのである。♦
以上