ガマレヤ研究所が迅速なワクチン開発に成功したのは、ベクターワクチン開発の経験があったから
ガマレヤ疫学微生物学研究所は、19世紀に設立された民営の研究所でした。ロシア革命後に
国営化されました。研究所の名前はニコライ・ガマレヤにちなんでいます。彼は、パスツール研究所でパスツールに師事した医師で、後にソビエト政府が行った市民に天然痘ワクチンを接種するキャンペーンを主導しました。その研究所を通り側から見ると、モスクワの他の政府関連施設と同じような外観で、レンガの塀と目立たない鋼鉄製のドアしか見えません。外から見た限りでは、中の建物が2階建てなのか3階建てなのかは判別できません。本館の玄関口にはロシアの生んだ有名な科学者たちを称賛する記念の盾が並んでいるので、それを見ると初めて研究施設であることが分かります。
12月にガマレヤ研究所を訪れましたが、そのとき私が目にした光景は、今では世界中どこに行っても見られないような光景でした。研究所内では誰もが制限なく移動可能でしたし、自由に会話していましたし、誰もマスクなど着けていませんでした。考えてみると、春にロシアにパンデミックが上陸したのと、この研究所でワクチンが開発されて研究所員たちに接種し始めたのは、ほぼ同時ということになります。私が今回訪れた時点では、1,200人の研究所員のほぼ全てが接種済みでした。
スプートニクVを開発したチームの責任者は、42歳の微生物学者デニス・ログノフです。彼は、うっすらと顎ひげを生やし、アメフトの選手のような屈強な体つきをしています。雰囲気的には、実験結果の自慢ばかりするようなタイプではなく、根っからの実験好きな研究者という感じでした。彼の研究室に行きましたが、彼はスプートニクVだけでなく、エボラ出血熱やMERSのワクチン開発も統括していました。研究室内では、私も白衣を着け、靴には使い捨てのカバーを付けました。ドアには表示があり、細菌、ウイルスを扱っているので厳重に警戒するよう記されていました。
2014年、西アフリカでエボラ出血熱が発生した後のことでしたが、ログノフ率いるガマレヤの研究チームは、風邪を引き起こすヒトアデノウイルスを改変してベクターワクチンの開発に着手しました。その年、世界ウイルスネットワークという団体からウイルス開発の権威チュマコフが率いる視察団が派遣され、ガマレヤ研究所をログノフに会うために訪問しました。チュマコフは、その時、非常に感銘を受けました。というのは、この研究所の研究員は非常に専門的知識が深く、研究員の資質と能力が高く、ワクチン開発に取り組んでいる世界中の研究チームの中で最も優れていると感じたからです。2017年の夏、ガマレヤの研究所から、フェーズ3治験のために2,000回分のワクチンがギニアに送られました。その時点では、すでにギニアの感染が概ね終息していたので、計画していた通りに治験で有効性を評価することは不可能でした。それでも、プーチンは、ガマレヤ研究所のワクチンが世界で最も有効性が高いことが証明されたとの主張を繰り広げました。(そのワクチンはロシアでは承認されましたが、国際的な承認機関による承認は未だにされていません。メルク社が開発したエボラワクチンは2019年にWHOによって承認され、ジョンソン&ジョンソン社によるワクチンは昨年7月に欧州委員会の承認を得ています。) 2018年にはガマレヤがMERSワクチンを開発しましたが、この時も感染が終息してしまったため、ワクチンのフェーズ3治験が実施できず、海外の医学誌に論文が掲載されることもありませんでした。モスクワの投資ファンド、インバイオ・ベンチャーズで投資先企業評価の責任者であるイリヤ・ヤスンイはガマレヤが世界に先駆けて開発したものの感染終息により有効性を確認できなかった2つのワクチンについて次のように述べました、「ガラレヤの研究者が言うことを信じるしかないですね。」と。
私は、1997年からガマレヤ研究所で所長を務めているアレクサンダー・ギンツバーグと話をする機会を持ちました。彼の執務室の内装は木がふんだんに使われていました。彼も、エボラワクチンとMERSワクチンの開発に成功したことを自慢気に話しました。彼は69歳で、メガネをして、いつも笑みを浮かべています。彼の表情には、この研究所で為された偉業に対する誇りが溢れ出ています。彼が言うには、ここで開発されたエボラワクチンの有効率は90%以上だったとのこと。私は、どうやって有効性を計算したのか尋ねました。彼が言うには、ワクチンの有効性を確認する方法は、治験データを収集分析する方法だけでなく、抗体が出来るかどうかを調べる方法もあるとのことでした。しかし、抗体が出来るかを調べる方法は常に正しいわけではありません。実際、HIV用ワクチンのように、抗体が作られるのに感染を防ぐことが出来ないワクチンがいくつも有るからです。
ログノフが、初めて中国で新種のウイルスが発生したことを知ったのは2019年末のことでした。しかし、彼がパンデミックが引き起こされる危険性を認識したのは、2020年2月中旬のことです。ジュネーブで2日間に渡って開催されたCOVID-19に関するWHOの会議に参加して初めて認識したのです。当時、彼が思ったのは、感染を抑制する手立てはその時点では全く存在していないということでした。しかし、同時に、ガマレヤの研究チームはヒトアデノウイルスのベクターワクチンを開発した知見があるので、世界に先駆けてワクチンを開発できるだろうと思いました。彼は、ガマレヤでは約60人体制でCOVID-19のワクチンの研究をしていました。研究者たちはさまざまな討議を繰り返しましたが、その中でヒトアデノウイルスでベクターワクチンを作った技術を使うのが最善であることが明確になっていきました。彼が言うには、ベクターワクチンは、宇宙ロケットのようなものです。というのは、宇宙ロケットが人間や装置類や人工衛星を運ぶように、ベクターワクチンも運びたいものを何でも運べるからです。彼が言うには、ガマレヤの研究チームは世界で最初にワクチンを開発するために特に急ぐことは全く無かったし、称賛を浴びたいというような野心も全くなかったそうです。彼は言いました、「名誉とか名声とか成功とか、そんなことは全く考えていませんでした。パンデミックが拡がっている中で、何とかして早く解決策を提供できないか、それしか考えていませんでした。」と。
ガマレヤで、私はウラジミール・グシュチンの研究室も訪ねました。そこではCOVID-19のウイルスの遺伝子の配列の分析が為されていました。中国の研究チームが2020年1月にSARS-CoV-2のゲノム配列を公表しましたが、グシュチンの研究チームは、感染時のウイルスの働きをモデル化する実験のために生きているウイルスが必要でした。グシュチンの研究チームの何人かが3月に何日かガマレヤとモスクワ郊外にあるコムムナルカ病院の間を何回も往復しました。そこで、実験で使用可能なウイルスを採取しようとしたのです。その病院はCOVID-19感染者の指定病院になっていて、感染者が収容されていました。感染者のほとんどは、欧州で感染した渡航歴がある者たちでした。スプートニクVの有効性を検証するために使用されたウイルスはあるモスクワ市民から採取したものでした。その人物は、3月15日にローマにいたことが判明していて、モスクワのシェレメーチエヴォ国際空港に着陸した時には既に発症していて、即座に治療のためにコムナルカ病院に連れて行かれました。グシュチンの研究チームが、綿棒でウイルスを採取したのは3月17日でした。
私がグシュチンの研究室に居た時に、彼は私に遺伝子配列特定装置を見せてくれました。その装置は、ウイルスの遺伝子配列を明らかにすることが出来ます。レーザープリンターと同じくらいの大きさでした。彼は言いました、「遺伝子配列が明らかになるということは非常に重要です。しかし、それだけで全てが分かったということにはならないのです。ウイルスの培養方法やウイルスの寿命など未だ分からないことだらけです。どのようにして感染するかということも分かっていません。」と。
ヒトアデノウイルスのベクターを使う際に、想定される問題点がありました。それは、非接種者がヒトアデノウイルスに感染した経験がある場合は感染する可能性があり、あるいは、1回目の接種を受けた後2回目の接種までに感染する可能性があることです。その場合は、その被接種者はワクチン接種に関わらず既に抗体を持っていることになります。その場合には、ベクターは体内に入ると攻撃対象と認識されてしまうので、ベクターは攻撃されることとなり運び屋としての機能を果たせません。結果、ワクチンは効果がありません。ベクターワクチンを開発している各メーカーは、その問題を認識しており、それぞれ独自の対策を実施しています。ジョンソン&ジョンソン社は、ヒトアデノウイルスの変異体を使うことで問題を回避しています。それを使うことで、ベクターが免疫応答に攻撃されることはほぼありません。オックスフォード大学とアストラゼネカ社が共同開発するベクターワクチンは、チンパンジーに感染するアデノウイルスを使用することにより対処しています。
ガマレヤの研究チームは、2種類のベクターを使うことにしました。エボラワクチンとMERSワクチンの開発でも同じようなことをしていました。2回接種の内の1回目の接種では、変異体アデノウイルス-26を使いました。2回目の接種は、T細胞を活性化することで長期的な免疫を獲得することが目的ですが、変異体アデノウイルス-5を使いました。国際ワクチン研究所のジェローム・キム所長によれば、2種類のベクターを使う手法は、「異種プライムブースト」として知られていて、効果が実証済みであるとのことです。キムは言いました、「おそらく2種のベクターを使うことで、免疫系は混乱して、COVID-19のタンパク質にだけ反応することに集中するようになるのだと考えられています。しかし、それらのワクチンの接種が承認される前に、臨床データを分析する必要があります。」と。チュマコフも同様に考えていて、個々のベクターワクチンの評価をする前に、さまざまなベクターワクチンの長期的な有効性が証明されなければならないと考えています。
ワクチンを作る際に、ガマレヤの研究チームはベクターのDNAとSARS -CoV-2のスパイクタンパク質をコードする遺伝子をつなぎ合わせました。2週間も経たない内に、モスクワがロックダウンされる前でしたが、ワクチンが完成しました。ログノフの研究室には動植物飼養場があって、小さな部屋でしたが、生きたマウスが入ったプラスチックのケージがうずたかく数十個あちこちに積まれていました。そこで、3月には、マウスにワクチンが接種され、免疫が獲得できたかを調べるため血液検査が為されました。続いて、ハムスターとモルモットで実験し、また、マカクとマーモセットでも実験しました。いずれも十分なレベルの抗体が産生されていて、ワクチンを接種された動物はいずれも発症することはありませんでした。
4月にログノフの研究チームでは、多くの者が開発したばかりのワクチンを接種しました。ログノフは言いました、「研究者であるならば、自分で試してみるのが一番手っ取り早いんです。自分で接種するということになるなら、安全なものを作ろうという気持ちも強くなります。自分で試すというのは少しスリリングなところもありますが、より深く観察することが可能になります。」と。ギンツバーグは、自分自身と多くの同僚に接種するだけでなく、妻と娘と孫娘まで接種しました。それで、私は彼に、危険な賭けをしているように感じないか尋ねました。すると彼は言いました、「ハラハラするようなことが無ければ、仕事したり、何かを創り上げることは不可能ですよ。それに、研究者になるような人って、多少危険であっても何でも深く知りたいといつも考えているんですよ。」と。