2.1990年代半ば ハイネッケがコンスタントと出会う
ジョン・ハイネッケは、チリコシーから100マイル東のミズーリ州パリス近郊に住み、農場を営んでいました。私がハイネッケにコンスタントのことを聞くために電話したところ、彼は「あのクソ野郎。あいつは俺を騙して骨の髄までしゃぶり尽くそうとしたんだ!」と言いました。彼はオーザック湖の入江にある週末用のレイク・ハウスに車で向かうところだったので、私は3日後にそこで会う約束をしました。
ハイネッケと私は網戸のついたポーチで話をしました。ポーチからはボート用桟橋とモーターボートが見えました。ハイネッケは60代前半でノースリーブのTシャツを着て、フェンタニルパッチ(経皮吸収型の強オピオイド。モルヒネの副作用や耐性出現により疼痛コントロールができない患者等が用いる)を胸に貼っていました。時折、マフラーが付いていないモーターボートの爆音が湖から聞こえたので、私たちは大声を出さなければなりませんでした。
ハイネッケが初めて破産したのは1980年代半ばのことで、土地を借りて農業をしていました。その時は銀行と協議していろいろと整理したそうです。彼がコンスタントと出会ったのは、それから約10年後の1990年代半ばの頃でした。その頃には契約農家としてそれなりの稼ぎがあり、沢山の土地所有者から農地を借りて耕作していました。耕作地の合計面積は1,500エーカーほどありました。彼は言いました、「40人くらいから農地を借りていたんですよ。小さな農地を沢山ね。農地はつぎはぎのようにあちこちに散らばっていましたよ。」と。
ハイネッケは以前、自宅の車庫の脇に「セールスマンお断り!」という看板を掲げていました。しかし、それでもフィスター社の営業マンをしていたコンスタントが訪ねてきました。ハイネッケは、彼のことを「口が達者で、人の注意を引くのに長けた男」だったと記憶しています。コンスタントはハイネッケに、フィスター社の種苗を販売するセールスマンにならないかと勧誘しました。その後、数年間ほどハイネッケはその地区でフィスター社の種苗の販売を手伝いました。そして、2000年頃のことでしたが、コンスタントはハイネッケに、使われていない牧草地はないかと尋ねました。ハイネッケは、自分の親戚が900エーカーの農地を所有しているが、何年も耕作していない区画がいくつかあると答えました。すると、コンスタントは「そこを借りられないか?そこでオーガニック農業をやりたいんです。」と言いました。それを聞いたハイネッケは、「オーガニック農法ってどんなものなんだ?詳しく教えてくれないか?」と言いました。