2.糖尿病薬オゼンピックは、減量薬としても有用
肥満は大昔から存在していた。数万年前のいわゆるヴィーナス小像( Venus figurine )は、大きなお尻と丸い腹を持つふくよかな女性の形をしている。食糧が不足する時代には肥満は富と幸福の象徴であった可能性がある。しかし、時間が経つにつれて、肥満は非常に否定的な意味を持つようになった。 アレクサンダー ハミルトン( Alexander Hamilton )が財務長官だった時、イギリスにいた彼の義姉は手紙の中に「親愛なるハミルトンは仕事に多忙でほとんど運動しないので、急激に太ってしまった。」と書いて心配していた。ウィリアム・ハワード・タフト( William Howard Taft )は、大統領に就任する時点では、おそらくアメリカで最も体重の重い政治家であった( 150 キロだったと言われている )。彼は、イギリス人医師の指導の元で減量に励んだ。 「体重が 300 ポンド(136 キロ)を超える人物に、紳士はいはい。」と、タフトは記している。彼の体重は生涯にわたって増減を繰り返した。当時の漫画家たちは容赦なく彼を風刺し続けた。ある研究によると、1922 年から 1999 年の間に(この間、多くのアメリカ人の体重が順調に増えたわけだが)、美人コンテスト優勝者の平均体重は 12% 減少したという。座りっぱなしの仕事が増え、美味しい食べ物が巷に溢れ、砂糖まみれの加工食品が普及したおかげで、スリムな体型の維持が困難になっているにもかかわらず、非現実的で、むしろ害の方が多いスリムな体型を美しいとする美意識が定着しつつある。多くの企業が、食品研究者をたくさん雇用し、脳の報酬回路をハイジャックするための砂糖と塩と脂肪の最適な組み合わせを見つけることに必死である。「人間が欲望をコントロールできないことに乗じて、消費者から利益を吸い取る消費社会が構築されてきた。」と、ポッドキャスターでブランド戦略に詳しいニューヨーク大学のスコット・ギャロウェイ( Scott Galloway )教授は言う。「巨大食品企業は、私たちが摂取せずにはいられないような食品を提供している」。
この肥満という問題に関して言うと、アメリカは世界でもっとも上手く対処できていない国であると言っても過言ではない。肥満が必ずしも健康上の問題を引き起こすわけではない。BMI が正常な人が糖尿病や心臓病を発症する可能性があるのと同様に、肥満体でも代謝的に全く問題なく健康な可能性もある。しかし、長年にわたって、多くの医師が患者に過度の肥満にならないよう忠告してきた。それは、肥満と糖尿病との関連性が疑われるからである。高血圧、関節炎、脳卒中、心臓病、肝硬変、睡眠時無呼吸症候群、腎不全、うつ病、不妊症、がんとも関連性があるかもしれない。それでも、人口に占める太りすぎの者の割合は、1970 年代以降、一貫して増加し続けている。1998 年にアメリカ国立衛生研究所が肥満撲滅を宣言して以降、重度の肥満の比率は 2 倍となり、肥満が原因の心疾患による死者数は 3 倍となった。
肥満を全く減らせなかったのだが、決して努力が足りなかったわけではない。国立衛生研究所は、バランスの良い食事と適度の運動が重要であることを啓蒙していたが、それだけでは不十分だったのである。多くの者は、手っ取り早く体重を落とすために薬を摂取したりした。1990 年代には痩せ薬フェンフェン( fen-phen )が大流行した(その後、心臓弁障害を引き起こしたとして裁判となった)。2000 年代初頭には心臓専門医ロバート・アトキンス( Robert Atkins )が提唱したローカーボダイエットが大流行した。また、2010 年代には砂糖や人工甘味料が添加された飲料への課税、通称「ソーダ税( soda tax )」が多くの州で導入された。肥満を減らすべく、多くの自治体が歩くことを奨励する街づくりに取り組み、学校の自動販売機からはジャンクフードが排除された。多くの研究者によるさまざまな研究を通じて体重をわずかに減少させる手法がいくつも開発されたが、それらはアメリカ人の体重増加のスピードを僅かに抑えただけだった。現在、アメリカ国民のほぼ 4 分の 3 が過体重とみなされ、40% 以上が肥満とみなされている。世界全体で見ると、現在、過体重の者の数は、100 年前の全人口の 2 倍である。肥満は間違った選択の積み重ねであるとして非難されることがあるが、その数はあまりにも多い。おそらく、こうした状況になったのは近代化による生活様式の変化の影響が大きいと推測される。
私は現役の医師である。多くの患者が肥満で病状をさらに悪化させているし、治療を困難にさせている。多くの場合、肥満の影響は明確に見て取れる。重度の睡眠時無呼吸症候群を患っていた高齢の女性は、肺炎が悪化した。ある男性患者はお酒を飲まないのに肝硬変になった。肥満で脂肪が肝臓に浸潤して炎症を起こしたからである。ある 10 代の女性は体重のせいで凄惨ないじめを受け続け、自殺願望を抑えきれず救急外来に運ばれてきた。また、現代の医療システム自体は必ずしも過体重の患者にとって最適なものではないため、肥満が患者に困難をもたらす場合もある。かなり昔、私がまだ研修医だった時に驚いたことがあった。なんと、ある外科医が太りすぎの患者の手術を拒否したのだ。肥満は、創傷感染、血栓、腎不全などさまざまな症状を悪化させることが知られている。人工呼吸器のお世話になる機会も増やすだろう。以前、私が診た患者はタクシーの運転手だった。運動することが難しい病状だったし、彼の職業柄からすれば運動をするのは事実上不可能だった。彼に必要な手術を受ける前に 50 ポンド( 23 キロ)の減量を勧めることは、残酷であるし無駄なことにしか思えなかった。
このような患者たちにとって、新しく開発された薬は変革をもたらす可能性がある。これまで多くの医師は肥満の患者に提供できるものがほとんど無かった。しかし、より多くの効果的な治療法を選択できるようになる。GLP-1受容体作動薬であるオゼンピックとウゴービは、血糖値を下げ、食欲を抑制し、満腹感の創出を早める。臨床試験では、これらの薬を投与された被験者の体重は平均で 15% 減少した。つい先日、さらに新しい薬も登場した。マンジャロ( Mounjaro )である。これは、GLP-1受容体作動薬であると同時にGIP受容体作動薬でもある(GIP:グルコース依存性インスリン分泌刺激ポリペプチド)。先の 2 つよりも減量効果が大きいと期待されている。3 つの受容体に作動する作動薬(受容体 3 重作動薬)の第 II 相臨床試験も進行中である。レタトルチド( retatrutide )である。その最高用量を投与された被験者は体重の 4 分の 1 弱を減らすことができた。これは、より侵襲性の高い治療法である胃バイパス手術( gastric-bypass surgery )をした場合の効果とほとんど遜色ないものである。これらの薬を投与すると食欲が減退する傾向があり、少なくとも患者が投与し続ける限りは、根本的かつ永続的な健康上のメリットがもたらされる。
過去 1 年間、オゼンピック、ウゴービ、マンジャロの需要は供給を大幅に上回っており、それらを必要とする患者数は非常に多いため慢性的に不足が生じている。医薬品に関する規制上、オゼンピックとマンジャロは糖尿病薬として、ウゴービとゼプバウンド( Zepbound )は肥満薬として承認されている。医療現場では、いずれも減量を目的として使用されている。現在では、減量薬と言えば、誰もがオゼンピックを思い浮かべるような状況である。やはり、市場に一番最初に投入されたことが大きいようである。オゼンピックのペン(注射用)の偽造品がヨーロッパ全土で確認されており、オーストリアでは数人が入院する事態となった。アメリカでも、供給が不足していて、一部の患者は調剤薬局( compounding pharmacy )が調合したノーブランド品に頼っている。不幸なことに、スリムなことが美しいという全く不合理な美意識が需要を押し上げている。そのことが、多くの太った人たちが健康的になるのを妨げている側面もある。多くの人たちが結婚式に出るために減量薬を投与している。その費用を支払うためにクレジットカードを使ったり、副業をしなければならない。お金に余裕のあるアメリカ人の中には、ビタミン O ( Vitamin O:ダイエットサプリの製品名)を摂取している者が非常に多い。今年の春、アカデミー賞授賞式でホストを務めたジミー・キンメル( Jimmy Kimmel )は、スリムで魅力的な俳優たちに観衆がうっとりしているのを目の当たりにして、 「自分はオゼンピックを飲むべきではないか?」と感じたと伝えられている。
ギャロウェイ教授のマーケティング視点での分析によれば、新たな減量薬の登場はかつての加工食品の登場と同様にアメリカ社会を大きく変革するという。健康が増進し、気分が高揚し、性に開放的になり、創造力が高まるという。糖質まみれの加工食品を作って売りまくる資本家の強欲さが、減量薬の普及を促進している部分もある。今起こっていることを大きな視点で捉えると、寡占化が進んだ巨大食品企業( Big Food )による弊害が、もう一つの寡占化が進んだ業界である大手製薬企業( Big Pharma )に莫大な利益をもたらしたという図式が成り立つ。ここ数カ月間でビールやスナックやファストフード等の企業の株価が大きく下落している。数千万の太ったアメリカ人の消費性向が変わると予想されるからである。直近でも、ドーナツ販売のクリスピー・クリーム( Krispy Kreme )の株価の急落が話題になっていた。多くの投資家が同社の将来に大きな懸念を抱いている。 投資家の中には、痩せた乗客が増えるので航空会社が燃料コストを大幅に減らせると考えた者もいた。また、多くの医療機器メーカーが、血糖値測定モニターや膝用治具の需要が急減しないことを投資家に説明するために奔走していた。肥満は社会がハイテク化したことによって生み出された問題である。現在、私たちは肥満がテクノロジーの進化で解決できるか否かを検証している最中である。