II.LIKE RATS(ネズミのように扱われて)
2014年にサービトがカナダへの移住を決断した時、北京では秘密裏の会議で新疆ウイグル自治区の暗い未来についての計画が作られていました。その1年前に習近平が国家主席に就任し、権限を強化しつつありました。彼は長期に渡って国家主席を務める障害となっていた任期制限を撤廃しました。そして、彼は反汚職の取り組みと称して大量の党員を処罰しましたが、けん責から死刑まで全て含めると処罰された者は100万人以上になりました。彼は、少数民族への対処についても、同様に厳格な管理が必要だと考えていました。
新疆ウイグル自治区は激動の歴史を経てきたので、特に警戒心を持たれていました。この地域は、過去に中国共産党に完全に掌握されたことはありませんでした。というのは、この地域はいつでも外部からの干渉を受けやすかったからです。かつてはロシア皇帝がこの地域の一部を掌握していましたし、また、民族自決主義者によって短期間とはいえウイグル人による支配が為された期間もありました。共産主義の理論家たちは、理想の社会を作り上げるために国家が果たすべき役割が重要だと長い間議論してきました。特に完全に工業化の遅れた辺境においては重要であると。初期のソビエトは周辺民族に対して寛容な政策を取って、各民族のための自治共和国を作りました。一方、中国は同化政策をとりました。
1950年代、新疆ウイグル自治区に対する党の支配力が弱いことを認識した毛沢東は、兵団を動員して、この自治区の北部を開拓しました。それは、ソビエトの潜在的な侵入の脅威に対する緩衝材になりました。その後大量の漢人の入植が続き、数十年後には漢人が人口の40%を占めるようになりました。共産党幹部は、先住民族の住民が同化することを望んでいました。それで、彼らの伝統、つまりイスラム教の信仰、彼らの学校、彼らの母国語さえも剥奪しようとしました。中国共産党は、ウイグル人に独自性があるというのは「誤解」であると主張するようになりました。独自性など無いというのです。なぜならウイグル人は中国人であるという論法です。
70年代後半、鄧小平が権力を握り、文化大革命の行き過ぎを巻き戻しました。新疆ウイグル自治区では、モスクが再開され、独自の言語を使うことを許可され、独自文化の繁栄を認められました。しかし、開放が進むと、ウイグル人の多くが植民地として支配されていることへの不満を表明し始めました。最初の頃の要求は、地域の伝統を守るとか新疆標準時(北京と2時間遅れ)を維持するという些細なものでした。しかし、要求はエスカレートしていきました。何人かのウイグル人が、「新疆ウイグル自治区から中国人は出ていけ!」と書かれたプラカードを掲げて抗議行動を行いました。中には急進的な者もいて反乱を起こすことを検討していました。
1990年4月、カシュガル市の近くで、地元住民と治安当局の間で銃撃戦が発生しました。端緒となったのはウイグル人の武装集団(武装といっても手りゅう弾数発と手斧等しか持っていない素人のような集団であった)の抗議活動で、その後、何が起こっているのかを把握していないような沢山の民衆が加わったようです。警察隊と兵団のメンバーはすぐに暴動を鎮圧しました。当時は天安門事件から1年しか経っておらず、共産党上層部は独立運動や分離主義に対しては不寛容にならざるを得ませんでした。。その1年後にソ連が崩壊しましたが、中国共産党は、かつての超大国を崩壊させたのは民族ナショナリズムだと認識していました。それで、さらに警戒を強めました。
常軌を逸した激しさで、自治区政府当局は「分裂」の兆候に目を光らせました。カシュガル市の党書記であった朱海仑は、最も攻撃的でした。彼の通訳兼補佐官として働いていたアブドゥウェリ・アユップは、1998年3月のことを覚えていました。多くの綿花栽培をする農家が野菜の植え付けを禁止する判決が出たことに抗議しました。朱海仑は彼らを分離主義者であるとして非難し、彼らに言いました、「お前たちはモスクを謀議のために使っている!」と。またある時には、彼はコーランの内容を侮辱し、ウイグル人の聴衆に「あなたたちの神は間抜けだ。」と言いました。朱海仑はアユップに指示しました。全戸を回って民族自決主義や宗教関係の書籍を所持していないか調べろとの指示でした。成功するまで家に帰るなという指示もありました。アユップは家々を回って夜明けまで捜査を続けましたが、そうした本を1冊も見つけることが出来ませんでした。
新疆ウイグル自治区の武装勢力は、多くの支持者を集めることが出来ませんでした。というのは、ウイグル人の多くはイスラム教スーフィー派信者で、伝統的に神秘主義を重視していて、政治にほとんど関心がありませんでした。2001年9月11日の同時多発テロが発生した時、それまでこの地域で大きなテロ事件が発生したことはありませんでした。しかし、国境を隔てた向こう、アフガニスタンにいるオサマ・ビンラーディンが起こしたテロの影響で、ウイグル人の古くからの信仰心が変わって攻撃的になったのかもしれません。中国の治安当局は、イスラム教徒による狂信的なテロ攻撃と推定される事例を洗い出してリスト(とても長い)を作成し、米国国務省にその危険性を訴えました。しかし、それらの事例の多くは事実と認定するのが不可能で、テロ攻撃か非政治的事案かを判別することも不可能でした。中国では、ナイフや斧や手りゅう弾を使った大量殺傷事件が驚くほど多く、そうした事件の多くは民族独立運動とは何の関係もありませんでした。そんなに昔のことではありませんが、雲南省の幼稚園に男が押し入って、54人に水酸化ナトリウムを噴霧する事件がありました。治安当局よると「社会への復讐」が男の目的だったようです。中国東部山東省出身の車いすのテロ実行犯が北京国際空港で爆弾を爆発させました。目的は、警察官から殴打されたことに対する報復でした。2つの事件はいずれも分離主義とは無関係でした。いずれの事件も単発的な事件として扱われました。ウイグル人はこうしたことに不満を持ちました。というのは、新疆ウイグル自治区で同様の事件があれば、全く違う扱いをされるからです。ツイッターには「ウイグル人は何をやってもテロリスト扱いされる。おかしいのではないか?」との投稿がありました。
2008年の北京オリンピックの開催が近づくにつれて、中国共産党幹部は治安維持に最優先して取り組むようになりました。弾圧が強化され、中国の社会学者孙立平が言うには、残忍さは北朝鮮と比べても劣らないレベルでした。孙立平は習近平の博士論文の審査委員会の委員を務めたことがあります。孙立平が言うには、中国共産党は妄想に捕らわれていました。国家体制崩壊の可能性が差し迫っていると過大評価して、人民の不満の根本原因を認識していませんでした。そうした「崩壊の幻影」を排除するために、取り締まりが強化されました。それにより、さらに人民の不満が高まり、取締まりを強化しなければならないという負のスパイラルに陥っていました。孙立平が警告していたのは、そうした取締まりは非常に悪手で、中国共産党が恐れていた崩壊へのスパイラルを加速するものだということでした。
その警告がまさしく現実となったのが新疆ウイグル自治区でした。新疆ウイグル自治区政府は、継続的にウイグル人の不平不満を反乱と見誤っていました。2009年のウルムチ市での抗議活動を見て、直近でチベットでも同様の活動があったのですが、共産党幹部は、単一民族による国を作ることが必要であるとの認識を持つようになりました。それが「新しいタイプの超大国」への道を開くものだという認識でした。ある影響力の強い中国治安当局者が言っていました、「安定とは、人民を解放し、人を教育し、人民を成長させることです。」と。
新しいウルムチ市の党委員会書記はそのような政策を推し進め始めました。女性のベール着用を禁止し、ウイグル語の本とウェブサイトは禁止され、歴史的建造物は取り壊されました。数年以内に、孙立平が警告していたような崩壊へのスパイラルが始まっているようでした。2013年の秋、ウイグル人の男が家族2人とともに、天安門広場の観光客の群衆の中にSUVで突入しました。おそらく、当時その男の地元のモスクが破壊されていることによって引き起こされた行動だと推測されていました。ガソリンと自家製の発火装置が積まれていたSUVは爆発しました。男の家族3人が死亡し、2人の歩行者が死亡、38人が負傷しました。
その数か月後、雲南省では、9人の黒装束の襲撃者の一団が昆明駅で無差別殺傷事件を起こしました。ナイフを振り回し、たまたま居合わせた人29人が死亡し、140人以上が負傷しました。犯行声明を出す組織はありませんでしたが、海外に拠点を置く反政府組織がこの襲撃事件を称賛していました。中国公安部は襲撃者たちはウイグル人分離主義者であると断定し、北京ではこの事件は「中国の9/11」と呼ばれていました。この事態に習近平は激怒して党幹部に重大指示を出しました、「中国人民は一致団結して、テロを防がなければならない。あらゆる暴力テロ犯罪を断固として取り締まる必要がある。」と。
2014年4月、習近平は新疆ウイグル自治区を訪問しました。カシュガル市の警察署で、彼は壁にあった武器を調べてから言いました、「この警察署にある武器類はあまりにも原始的です。これらの武器では、とても周辺民族が使う大きな刀、斧、鉄棒には太刀打ちできません。」と。また、「敵は非常に冷徹ですから、こちらも同様に対処しなくてはなりません。全く容赦はいりません。」と彼は付け加えました。
彼の訪問日程の最終日、2人のテロリストがウルムチ駅で自爆テロを敢行し、数十人が負傷し、1人が死亡しました。北京で行われた会議で、習近平は宗教的過激主義を非難しました。彼は言いました、「テロは麻薬のようなものです。一度始めると、人を殺しても何とも思わなくなり、やがてのめり込んで、何でもするようになります。」と。
その後すぐに、習近平は、これは「人民に対する戦争」であると表明し、恐怖主義(テロリズム)・分離主義・宗教的過激主義」、すなわち「三毒」との徹底的な闘争を唱えました。自治区の党書記がその闘争を指揮しましたが、習近平はそれに満足せず、2年後に後任を任命しました。後任は当時チベット自治区の党委員会幹部であった陳全国でした。彼は、非常にタフで忠誠心の強い党幹部でした。
陳全国は、人民軍で勤めた後、共産党に加わり政治的地位を急速に上げていきました。彼がチベットに赴任した時、2011年でしたが、多くの僧侶が焼身自殺していました。それは、長期にわたる弾圧への抗議でした。当時のチベットでは、ダライ・ラマが「文化的大虐殺」と呼ぶほど酷い弾圧が行われていました。当時のチベット情勢は国際的関心を呼び、世界中で報道されました。
弾圧が当たり前に行われていたチベットで、陳全国が特別に酷い暴力的な弾圧を行ったわけではありません。彼の評判が高まったのは、独裁主義的な統治を可能にする仕組みを作り上げたからです。彼は、自治区の全ての人を監視していつでも弾圧できるような仕組みを構築していきました。
僧侶の焼身自殺の大半は自治区の東側で発生していたので、陳全国は自治区の境界の警備を強化し、境界外からチベット人が入国するのを制限しました。ラサでは、身分証明書無しではガソリンを購入出来ないようにしました。彼は簡易警察署を碁盤の目のように沢山配置し、圧倒的な警察力を誇示しました。彼は2万人以上の警備員を村やイスラム寺院などに派遣し、共産党の宣伝活動と監視を行わせました。また、治安維持のために動員された赤い腕章を付けた自警団のメンバーが、チベット人の家の中をひっくり返すほど調べ上げました。ダライ・ラマの写真を没収するのが目的でした。ダライ・ラマは政府から騒動を主導したとして非難されていました。拘留される人の数は増加したようでした。2012年、ダライ・ラマから祝福を受けるために多くのチベット人がインドを訪れましたが、帰国後には陳全国によって急ごしらえの再教育施設に送られました。
焼身自殺はチベットの周辺地域では続いていましたが、陳全国の管轄区域(チベット)ではその後の4年間で1件しか記録されませんでした。それについて、彼は、「私たちは法律に則って、非合法な組織や重要人物には徹底的な打撃を加えました。」と言及していました。そうして、彼に対する上層部からの評価が高まりました。2016年3月に、彼が新疆ウイグル自治区の党委員会書記に任命される直前のことでしたが、チベット自治区の代表団が、招かれて北京で開催された全国人民代表大会に行きました。全員が習近平の似顔絵が描かれたピンを身に着けていました。陳全国はチベットの中国化に成功した人物とみなされました。
陳全国は、新疆ウイグル自治区にチベットで行っていた治安維持方法を持ち込みました。彼は党委員会書記用の官舎に引っ越さず、自治区所有の、人民解放軍が警備しているホテルに身を置きました。その建物は警察本部が入っている施設のすぐ近くでした。陳全国は彼の住居に高速の回線を引いて、自治区のセキュリティーに関するデータをいつでも見れるようにしていました。
習近平はかつて、改革を食事に例えたことがありました。肉を食べた後には食べるものが何も残らないことから、改革の核心部分に取り組めば、問題が全て無くなるということを言いたかったようです。陳全国は必死に肉にかじりつくべく取り組んでいました。彼はスピーチをしたことが何度もありますが、その1つのタイトルは「習近平同志を中心とした党中央委員会の新疆ウイグル戦略の揺るぎない実施」という題でした。
陳全国の前任者は陳全国がチベットで実施していた施策を真似して導入していました。それで新疆には20万人の共産党員が配置されていました。陳全国はその数を百万人に増やし、彼らにウイグル人の家々を回るよう指示しました。そうして中国化を進めようとしました。「親戚制度」という政策が推し進められました。それは、共産党員がウイグル人住民と形だけの親戚関係を結ぶもので、目的は宗教活動を監視することでした。具体的には、共産党員がウイグル人の家庭を訪問し、新たに親戚になりましょうと言って自己紹介をする制度でした。党の幹部は、ときどき食事のためにウイグル人家庭に立ち寄ることも指示していました。それで、共産党員がウイグル族の家庭に無理やり宿泊することもありました。ウイグル人住民は、笑いながら、丁重にもてなしましたし、質問されれば答えて、寝床まで提供したのです。そうしなければ、何をされるか分からないという恐怖に怯えながら。
新疆ウイグル自治区の党委員会副書記となった朱海仑の支援を受けて、陳全国は、数万人の警察官補佐を採用しました。目的は、大量逮捕を可能とし、不穏な動きに素早く対応することでした。また、朱海仑は都市部に数千箇所もの簡易警察署を格子状に設置し始めました。それで都市部は完全に監視下に置かれることとなりました。また、彼は、住民を3つのカテゴリー(信頼できる、普通、信頼できない)に分類し、国家に対して十分に忠実であると証明できなない者を拘留し始めました。
2017年初頭、陳全体が着任してから半年後のことでしたが、彼は早速リーダーシップを発揮して、長く、複雑で、非常に激しい取り締まりを実施する準備に取り掛かりました。彼は、この取り締まり作戦は何よりも最優先すべきプロジェクトであるとの指示を出しました。先制攻撃を仕掛け、敵の機先を制することが重要だと指示していました。彼が言っていたのは、この作戦の使命は、分離主義者を根絶することでした。また、彼はゼロ・トレランス方式(不寛容を是とし細部まで罰則を定めそれに違反した場合は厳密に処分を行う方式)で臨むと表明し、このプロジェクトを熱心に実行しようとしない役人には厳罰が下されると示唆していました。
陳全国は習近平に会うため北京に行きました。その数日後、彼はウルムチ市で大規模なパレードを開催しました。1万人のヘルメットをかぶった部隊が行進しました。全員が自動式の火器を携行していました。また、ヘリコプターが頭上をホバリングし、装甲車両が隊列を組んで行進した時、陳全国は「破壊的で圧倒的な攻撃を開始する」と発表し、「人民戦争の広大な海に、テロリストとテロ集団の死体を沈める」と宣誓しました。
陳全国は、抜き打ちの検査が好きで、唐突に警察署に連絡をしてプロジェクトの進捗状況をチェックすることがありました。彼は、「逮捕すべき者を全員逮捕しろ。」という指示を出し、2017年4月には一斉逮捕を行いました。オランダのウイグル人活動家が独自に入手したマル秘資料(公式文書)によると、6月19日からの1週間だけで、新疆ウイグル自治区の南部の4県で治安当局は16,000人以上を逮捕し、居場所不明のため逮捕できなかった者が5,500人いました。
逮捕者の数が急増しても、治安当局は手を緩めませんでした。ある警察署長はある共産党員に言いました、「畑の中で作物の間に隠れている雑草を一本一本抜いていては、全てを取り除くことはできません。根こそぎにしようと思うなら除草剤をまくしかありません。」と。6月に、朱海仑は通達を出していました。その内容は、「逮捕すべき者を全員逮捕する。それだけだ。とにかく見つけ出して、逮捕しろ。」というものでした。
ウルムチ地窩国際空港で、税関職員がアナー・サービトに拘留証明書を手渡しました。その行政文書は彼女の逮捕を命じるものでした。6月20日付けとなっていました。サービトは小さな尋問室に連れていかれました。彼女はスマホなどを没収されました。そして、パソコンを使ってテレビ会議形式で尋問を受けるように言われました。
彼女はパソコンの前に座るよう指示ました。テレビ会議で質問されましたが、彼女が分からないウイグル語で質問されました(陳全国は取り締まりのために沢山の人を採用していましたが、取り締まり対象となる民族からも沢山採用していました)。
サービトは言いました、「すいません、北京語で話してもらえませんか。」と。尋問官は不器用な北京語で話し出し、彼女の入国記録とパスポートについて尋ねました。カザフスタンのアルマトイにある中国領事館でパスポートを更新した理由も聞かれました。サービトが答えたのは、そこには親族に会いに行ったこと、そこに滞在している時にページが足りなくなったことでした。1時間後、1人の警備員が彼女を室外に連れ出しました。彼女は解放されることを期待していました。なぜなら、彼女は正直に答えたし、答えた内容は事実であることが容易に確認できると思ったからです。しかし、解放される代わりに、彼女は部屋に呼び戻され、2人の警備員が彼女を護衛ために呼ばれました。
サービトは、彼女をその部屋に連れてきた税関職員から審問を受けました。尋問中にサービトは、彼女の何が問題であったのかを聞いてみました。彼はイライラして言いました、「それは自分が一番よく知っているだろう。今、クイトゥン市の治安維持局から人が来るのを待っているところです。あなたはその人に連行されます。」と。サービトはいつまで待つか尋ねました。彼は不機嫌そうに答えました、「それは、彼らがいつ出発したかによる」と。
サービトが乗る予定であった飛行機の出発が遅れているとのアナウンスがスピーカーから聞こえました。彼女はその飛行機に乗っている母親が心配しているだろうと思いました。部屋で彼女が座っている時、警備員2人が話しかけてきました。2人とも20代前半の女性で、中国内陸部の出身でした。2人は、中国から国外に行く必要など全く無いと言いました。行く人の気持ちが理解できない、特に後進国のカザフスタンに行くことなど想像も出来ないと言っていました。サービトは、事実はどうあれ、その意見に反対するのは賢明ではないと思いました。
その6時間後、クイトゥン市治安維持局から数人の黒い服を着た若い男が到着しました。サービトが彼らの管理下に移された時、税関職員が話しかけてきました。彼が言ったのは、問題がなければ治安維持局は拘留証明書を抹消することができるので、彼女は解放されるだろうということでした。サービトは、おそらく彼は心の優しい人であり、彼女が無実であることを理解しているだろうと思いました。
外では、夜が明けはじめていました。治安維持局の職員の指示によりサービトは車の後部シートに座りました。そこでは、彼女の両側に警備員が座って、手錠を持っていました。職員たちは夜通し運転してきたようで疲れているように見えましたが、彼女への警戒は怠りませんでした。助手席に座っていた諜報員が彼女に質問をしてきました。車はクイトゥン市に向かってかなりスピードを出していました。時速176キロ以上でした。
治安維持局本部に着くと、サービトはいくつかの拘留室がある地下室に連れていかれました。狭い独房の前で、彼女にそこに入るように命じられました。突然、彼女は状況が非常に悪いことを認識して、泣き始めました。そして、言いました、「お願いです、こんなところに入れないでください。私は何も悪いことをしていません。話を聞いて下さい。」と。
諜報員が言いました、「私たちはあなたのために500キロも車を走らせた。これ以上我々の手を煩わせないでくれ!」と。彼女は、独房に入りました。壁は柔らかい保護パッドで覆われていました。それは自殺を防ぐためだと彼女は推測しました。ベンチが2つありましたが、いずれも保護パッドで覆われていました。ベンチは座面の下から出ているパイプで壁に固定されていました。そのパイプにはラベルシールが貼られており、「手錠用」と記されていました。サービトは怖くて座れませんでした。
サービトの独房の外に配置されていた警察官補佐が彼女に言いました、「あなたは少し休んだ方が良いですよ。」と言いました。サービトはゆっくりベンチに座りました。その警備員補佐は漢人でした。新疆ウイグル自治区に隣接する貧しい州の出身でした。その州は警察官補佐の供給源になっていました。その警察官補佐はサービトに言いました、捜査官は朝9時にくると。その警察官補佐はサービトの書類ファイルを持った時、それが非常に薄いことに気づきました。それで、それは良い兆候だと言いました。
サービトはあれこれ考えていましたが、中国に戻ろうとした時に警告されたのに無視してしまいまったことで、自分を責めないように努めました。「アリが獲物を少しずつ食べるように、不安が少しづつ私の中で広がっていきました。」と彼女は後に未公表の手記に書いていました。(この記事は、彼女の書面による証言、彼女が保存したテキストを含む一次文書、および広範なインタビューに基づいています。)彼女は、高位の治安維局員に説明する機会が得られることを願いました。そうすれば、自分を拘束したことが誤りであることが判明するだろうと思っていました。
数時間後、男性と女性の2人の治安維持局員が、サービトを尋問室に連れて行きました。そこには、座っている人を縛るために設計された金属製の椅子「虎の腰掛け」が置かれていました。サービトはそれを見て後ずさりました。男性の治安維持局員が普通の椅子を持ってくるよう指示を出していました。彼は言いました、「私たちは人権を尊重します。あなたがしなければならないのは、我々に協力し、正直に質問に答えることです。問題がなければ、あなたは解放されます。」と。
圧倒されて、サービトは胃に刺すような痛みを感じました。公安職員が朝食を手配しましたが、サービトは食べられませんでした。それから、トイレを使いたいと頼みました。
「こっちよ。」と女性治安維持局員は言いました。先ほどまで、独房に入っていた時には、サービトは独房の近くにあるトイレが利用可能でした。そこは汚れていて、監視カメラが付いていました。サービト言いました、「監視カメラの付いていないトイレを使いたいです。」と。女性治安維持局員はサービトを別の階のトイレに連れて行きました。そこから戻ってくる際に、サービトは自分の尋問室とは通路を隔てて反対側となる尋問室を垣間見ました。1人の若いウイグル人男性が尋問されていました。赤いベストと黒いズボンが見えました。その手首と足首は「虎の腰掛け」に固定されていました。顔は汚れていて無精ひげが伸びていました。目は焦点が合っておらず、頭をだらんと下げていました。黒い服を着た公安職員が彼に向かって叫んでいました。サービトはその部屋を通り過ぎて、尋問されるための部屋に戻りました。
尋問を経験したことのある人なら誰でも知っていることですが、尋問では同じことを何度も繰り返し聞かれます。何度も何度も、尋問者は同じ質問をして、矛盾する点を探します。矛盾点を突くことで真実に近づけます。
サービトの尋問は数時間続き、女性治安維持局員は同じ質問を何度もしました。サービトが空港で聞かれたのと同じ質問もありました。女性治安維持局員が質問している間、サービトは通路の反対側の独房からウイグル人が殴られる音と電気ショック音を聞くことができました。その男の叫び声が大きくなってきたので、サービトは集中するのが難しいことに気づきました。男性治安維持局員は女性治安維持局員に言いました、「静かにするように頼んでこい。こちらの尋問に影響が出る。」と。静かになりましたが、しばらくの間だけでした。
サービトの尋問はいったん終わって、昼食になりました。しかし、まだ食べることができませんでした。1人のウイグル人男性治安維持局員が、お湯と胃薬を持ってきました。その人は「大兄(Older Brother)」と呼ばれていました。
3時間後、男性治安維持局員が戻ってきました。彼は言いました、「あなたはいくつもの問題がある国に行っっています。私は新しい質問をする必要があります。」と。サービトが問題のある国とはどこの国かと尋ねました。彼はいくつか国名を挙げました。米国、タイ、マレーシア、キルギスタン、カザフスタン、ロシアでした。
「アメリカ以外の国に行ったのは、仕事のためでした。会社に聞いてもらったら確認が取れるはずです。」と彼女は言いました。
二度目の尋問が終わる頃には夕方になっていました。さきほどのウイグル人の治安維持局員(大兄)が戻ってきました。すがるような想いでサービトは「私は解放されないんですか?」と尋ねました。彼は首を振りました。そして、とにかく食事を摂った方が良いと言いました。 サービトを空港から連れてきた諜報員が来ました。荷物を持っていました。「私は家に帰れますか?」とサービトは尋ねました。彼は言いました、「いずれ分かるでしょう。」と。彼は彼女を施設から連れ出し始めました。別の男がやって来て諜報員の耳に何かをささやきましたが、諜報員は首を振りながら言いました、「彼女の名前はリストに載っている。誰も彼女を救うことはできない。」と。