IV.SCHOOL(再教育収容所)
陳全国は、新疆ウイグル自治区の人口の大部分を政治的再教育のために再教育収容施設に送り込むことを目指していました。彼は着任後間もなく、何百もの刑務所のような施設の建設を始めました。それらの施設を後に公安当局は、信頼できない者のための信頼できる目的地と呼びました。
陳全国は、全てのウイグル人の住民を対象にすると、施設が出来上がるまでには何年もかかると認識していました。2015年、IJOPシステムが開発されていた頃、陳全国の側近の1人は、この地域のウイグル人の3分の1が宗教的過激派勢力に汚染されていると主張していました。また、強制的に再教育する必要があると主張していました。
習近平は分離主義とイスラム過激主義は疫病と同じだと主張していました。また、治安当局は、収容所はそうした疫病の感染を防ぐために必要なものだと主張していました。ある治安当局の者が言いました、「確かに過激なイデオロギーを教え込まれた人々の中には何の犯罪も犯していない者がいますが、しかし、彼らはすでに感染してしまっているのです。彼らは、適切な治療を受けて脳からウイルスを除去するために再教育施設に入らなけらばならないのです。」と。
大量拘束が始まると、共産党が発行するウイグル・デイリー新聞では、陳氏の計画を支持する記事を出しました。その記事は、ホータン県の再教育収容施設送りとなった2人の男性に関するものでした。2人は農民と薬局の店主でした。2人とも口をそろえて、誤ったイデオロギーの汚染から逃れられたと述べていました。「私は頭が汚染されて非常におかしくなっていました。でも、自治区政府の支援と教育のおかげで治癒することが出来ました。」という薬局店主の発言が記事にありました。
一方、農民に関する記事では、彼は自分の思想が宗教的過激主義的であることを知って驚いたということが記されていました。彼の発言も載っていました。「私たちの生活は改善され続けています。あなたが誰であろうと、何よりもまず中国人であることに誇りを持たなければなりません。」
ウイグルデイリー新聞の記事によれば、その時点で既に2,000人が再教育収容施設送りとなっていました。ある治安当局の者の発言も掲載されていて、「再教育収容施設では学生に非常に高いレベルに到達することを要求しています。しかし、私たちは優しく接して、彼らを治療することに全霊を傾けています。ここで教育を受けることは、実際には全寮制の寄宿学校で勉強するのとほとんど同じです。」というものでした。薬局の店主の次のような発言も記されていました。「私も最初は再教育を受けることに抵抗がありました。でも、徐々に、それまで自分がどれだけ無知であったかを知ることになったのです。とてもショックを受けました。」
警察署から、サービトとウイグル人の若い女性の2人が、鉄条網で覆われた壁に囲まれた施設に送られました。「クイトゥン市職業技能再教育訓練センター管理事務所」と書かれた看板が見えました。3階建ての建物で、以前は警察署として使われていた建物を急遽改装したものでした。2人は施設内に連れていかれ、壁に面して立つように言われました。サービトは施設内の様子がどうなっているか調べようと思いましたが暗くて無理でした。その横ではウイグル人の若い女性2人が泣き始めました。
「まっすぐ立て!」と教官が大声で言いました。その男の北京語は流暢でないことにサービトは気づきました。それで、振り返って彼を見て、彼がカザフ人であることが分かりました。反射的に、彼女は嫌悪感を覚えました。3人は3階に連れていかれされました。途中、灰色の制服を着た数人の男が拘留されているのが見えました。あまりにも陰鬱な様子だったので、彼女は恐ろしくなって目をそらしました。
サービトは大きな部屋に連れて行かれ、そこで彼女は裸検身をされました。彼女は脱いだ服を着ている時に、どれくらいの期間留まることになるかを尋ねました。護衛は、数日後に行われる中国共産党第十九回全国代表大会までは誰も解放されないと言いました。
拘留室は何室もありました。元々事務室であったものが改装されたもので、壁やドアや窓が鉄格子で補強されていました。檻のように見えました。ドアとドアの枠の間にチェーンが掛かっていて30センチ以上開かないようにしてありました。拘留されている者は横向きになって抜け出なければなりませんでした。サービトの拘留室では、5つの二段ベッドが3.6×4.5メートルの狭いスペースに詰め込まれていました。カメラ3台とマイク1本が天井からぶら下がっていました。
拘留室には数人の女性がサービトが入る前からいました。皆、目を赤く泣きはらしていました。サービトの後にも何人か入ってきました。彼らは皆拘留された理由が分かっていました。それは、共産党大会に先立っての大規模な一斉拘留でした。何人かの拘留された理由はWhatsAppを利用したことでした。1人はアメリカの大学に留学中に休暇で戻ってきている際にVPNを使ったために拘留されました。それを使って大学の課題を提出したりGmailを使っただけでした。17歳の少女が拘留された理由は、家族が昔トルコに観光旅行に行ったことがあるということでした。
サービトと一緒に連れてこられたウイグル人の若い女性の1人も同じ拘留室に割り当てられていました。彼女は中国共産党のプロパガンディストでした。彼女はサービトに自分が拘留された経緯を話しました。彼女は数年前にカシュガル行き飛行機を予約していました。ところが砂嵐のために飛行機が離陸できなくなりました。航空会社の手配により乗客全員が1つのホテルに留まることとなりました。その後、クイトゥン市の警察官が彼女を拘留しました。彼女が拘留された理由は、泊まっていたホテルの客の中の2人が分離主義者と疑われる者だったということでした。彼女は共産党のプロパガンディストであったにもかかわらず、ウイグル族で、分離主義者が泊まっていたホテルに滞在したという事実だけで逮捕されたのでした。それは、どれだけ慎重に行動しても十分ではないという警鐘を鳴らすものでした。
再教育収容所は全く病院とも寄宿学校とも似て非なるものでした。陳全国は、軍隊のように厳格に統制し、刑務所のよう厳重に警備するようにとの指示を出していました。サービトのように拘留されている女性は、茶色のユニフォームに着替えさせられました。目立つように蛍光色の縦縞が入っていて、写真付きの身分を証明するIDタグも付いていました。男性の警備員が廊下と建物の外周を警備していました。警備は24時間体制で実施されていました。また、女性の警備員が拘留者の規律のチェックをしていました。トイレを含めてどこへ行くにも付いてきました。女性警備員の配置は24時間体制ではありませんでしたが、常に監視カメラが稼働していました。カメラはシャワー室にもありました。拘留者は常に監視の目から逃れることはできませんでした。
収容所で許可されている言語は北京語だけでした。年配の女性の中には北京語を全く解せない者もいて、ほとんど何も喋りませんでした。口にしていた語は、覚える必要のあった数種類のみでした。拘留室に入る時、「入室します!」と叫ばなくてはなりませんでした。しかし、叫ぶのを忘れてしまう者もしばしばいました。それは、規律チェックをしている警備員を怒らせました。兵団の一員で規律チェックをしていた女性警備員は叫ばなかった者を罵倒していました。彼女を怒らせた拘留者は、狭い部屋に閉じ込められ、虎の腰掛けに縛りつけられるなどの罰を受けました。彼女は繰り返し何度も言っていました、「言われたとおりに行動できないのならば、一生ここで過ごすことになるわよ。」と。
サービトがすぐに気づいたのは、収容所の生活は分刻みで管理されているということでした。毎朝8時ぴったりに起きなければなりませんでした。洗面所とトイレとシャワー室へ行く時以外は、拘留室に閉じ込められていました。何をするにも時間が決まっていて、顔を洗って歯を磨くのは3分、排尿は1分といった具合です。シャワーを浴びる時間は5分以内と決まっていました。時間切れとなってしまって、石鹸を十分に洗い流せないていない者もたまにいました。
食事の際には、フードカートを待つために拘留室の中でドア側に背を向けて並んでいなければなりませんでした。支給されていたコップや食器は安価なプラスチック製でした。サービトはそれらが温かい食べ物を入れると柔らかくなっているのが分かりました。有害物質が食べ物に染み込む危険性がありました(後に、それらは代替品と交換された)。サービトがいた拘留室にはスツールが1人1人に割り当てられましたがテーブルはありませんでした。スツールの高さは30センチしかなく使いづらいものでした。仕方がないので、食器を床に並べて覆いかぶさるようにしゃがんで食べました。食べるのに時間が掛かりすぎると叱責されました。また、残してしまっても叱責されました。年配の女性や歯が悪い人たちは苦労しました。年齢や病気が理由で叱責をまぬがれることはありませんでした。
拘留者は日中はベッドに座ることを禁じられていました。昼食後には、強制的に昼寝をとらされ、横になって目を閉じました。午後10時が就寝時間でした。しかし、部屋の明かりは点いたままで、毛布やタオルで顔を覆って隠すことは禁じられていました。それで、若い女性が自発的に二段ベッドの上段を使うようになりました。そうすれば、年配の者が下段を使うことで眩しさから逃れられるからです。誰か1人でも喋ると、拘留室の全員がスピーカー越しに叱責されます。耳をつんざくような大音量で叱責されます。夜中にトイレを使いたいと申し出ること非常に嫌がられます。それで、最終的に夜中にトイレに行く者はいなくなりました。不当な扱いを受け、不快な環境で、厳しく叱責されても、拘留者は辛そうな顔を見せませんでした。というのは、悲しそうな表情をすることは、罰する対象となるからでした。警備員たちは常々言っていました、「ここで泣くことは許されていません。」と。拘留者は既に再教育収容所でいろんなことが学んでいました。それは、カメラから逃れる方法、顔を隠す方法、声を出さずに無く方法でした。
サービトと同じ拘留室にいた者は全員が再教育されると言われていました。しかし、実際にはただただ長期間の退屈な拘留が続くだけでした。拘留者たちは暇つぶしに、あれやこれやと話をすることがありました。アメリカに留学していた大学生は、映画「ショーシャンクの空に」のあらすじを話して他の者たちを大いに喜ばせていました。
サービトが拘留されてから12日後、共産党大会は終了し、サービトと同室の拘留者全員が公安部の職員との面接のために呼ばれました。サービトは尋問室で取調官に言われました、「あなたの案件は基本的に問題ないことが明らかになっています。」と。彼女は、治安維持局が彼女の無実を証明する書類を持っていたのに、どうして収容所送りになったのかを尋ねました。取調官は分からないと答えました。その後、ある拘留者からサービトが聞いたのですが、彼が分からないと言ったのは、彼女が空港で足止めを食らったのは当局の手違いが原因であることを認識していたからだということでした。
面接が終わった後、拘留者たちは解放されるのを心待ちにしていましたが、結局のところ、誰も解放されませんでした。その後、サービトが拘留されてから1か月後のことでしたが、母国語をマスターするために、全員が週に6日北京語を勉強することが発表されました。3か月間学習して釈放された拘留者がいたことを知っていたので、サービトは自分も同じように授業を修了すれば同様に扱われ、晴れて「卒業」できるのではないかと思いました。
北京語の講義を受ける部屋は鉄格子で要塞化されていました。サービトたちの拘留室の隣でした。机が並べられ、前方に教卓がありましたが、間には柵がありました。監視カメラが4隅に設置され、授業中には2人の警察官が警備をしていました。
北京語の講師はYさん(仮名)という女性でした。小学校の教師をしていましたが、無理やりこの仕事に駆り出されて、週のほとんどをこの建物で過ごさねばなりませんでした。Yさんは生徒に対して厳しかったが、拘留者たちは彼女が好きでした。Yさんは、よく教えていた子供たちに会えなくて寂しいと口にしていました。小学校で教えていた経験をここでも生かしていました。彼女は、拘留者に中国語を覚えさせるため、オペラと書道を教えました。漢民族の工芸品を作るためと言って、プラスチック製のはさみの使用の許可を所長から貰ったりしました(生徒に運動をさせるために屋外に出す許可を得ようとしましたが、それは認められませんでした)。ある日、彼女は目に見えて動揺した様子で講義室に入ってきました。所長が、授業の進度が遅いことを理由に彼女を辱めていたのでした。彼女は会議中ずっとに立たされていたのです。
当初、Yさんは北京語の教科書を持っていませんでした。教材は何も無かったのです。それで、一年生用の教材を使用しました。その後、彼女は授業計画表を貰いましたが、誤りだらけの無茶苦茶な内容でした。拘留者は3,000個の漢字を覚える必要があると言われました。しかし、サービトや他の何人かは既にその倍の6,000語以上覚えていました。サービトらは、どんなに北京語に堪能であっても、他の人のレベルが追いつくまで、何度も何度も読んだり書いたりすることを余儀なくされました。北京語を学校で習ったことのない年配の女性の何人かは、授業についていくのが難儀でした。その人たちが叱責を受けないようにするために、サービトと他の数人かが密かに彼女たちを助けました。
本来、再教育収容所で教えるべき内容に北京語は含まれていません。自治区政府の文書で明らかになっていますが、再教育の目的は、ウイグル族の人たちをウイグル独特の文化から切り離すことでした。文書には次のような記載がありました。「彼らの血統を壊し、彼らの先祖を壊し、彼らの繋がりを壊し、そして、彼らの伝統を壊せ。」
サービトたちは、共産主義の歌を覚え、毎食前にそれを大声で歌わなければなりませんでした(十分な熱意が感じられなかった場合、警備員は食物を取り上げました)。毎朝、彼らは立って国家に忠誠を尽くすと大声で宣言しなければなりませんでした。「中国共産党が大いに愛します!偉大な祖国を大いに愛します!中国人民を大いに愛しています!中国独自の社会主義を大いに愛します!」
拘留者は、中国の経済成長と国力を祝う「百年の夢」のようなビデオを強制的に見せられました。視聴した後にはグループ討論会があって、そこでは拘留者は映画で宣伝されていた内容を何度も言わされ、犯罪から救ってくれたことに対して共産党に感謝の意を表明しなければなりませんでした。土曜日には、外部の人が来てテロに関する法律の講義がありました。その講義を受けた拘留者は、宗教的過激主義の75の「兆候」を暗唱する義務がありました。
サービトが思ったのは、こうしたテロを防止するための教育カリキュラムが馬鹿げていることは誰でも分かるのではないかということでした。拘留された若い女性のほとんどは世俗的な生活をしていて宗教とは縁がありませんでした。彼女たちは週末にはバーに頻繁に行き、宗教的な過激主義や宗教とはほとんど関係がありませんでした。年配の女性は、より伝統的で少しだけ宗教的な生活と縁がありましたが、拘留される程のレベルではありませんでした。彼女らが拘留されたことは、若い世代への文化的知識の伝達の妨げとなるでしょう。
こうした教育は全く意味が無いと思えましたが、近くで共産党大会が開かれ、高位の者が視察に訪れるので、その時のために準備の意味合いがありました。視察された時に、この収容所幹部には拘留者の学習進度の速さや効率性を示したいという意図がありました。それで、拘留者はそれらを示すための寸劇(再教育のおかげで立派な中国人になりつつあることを上手く演じること)を演じる必要がありました。共産党大会の期間中、寸劇が行われたのは元々は警備員が寝ていた部屋でした。ベッドを片側に寄せて、拘留者は習近平の格言を暗唱し、愛国的な国歌を歌い、踊り、漢民族の文化的誇りを示す必要がありました。警備員たちは言いました、「もっと笑って、常に笑顔を心掛けて下さい。自分が幸せであるということを表現して下さい。」と。
サービトは拘留者の中ではとりわけ優秀なパフォーマーでした。流暢な北京語と彼女が受けた高度な教育のおかげでした。収容所は視察の時の寸劇を成功させるため彼女を頼りにしました。彼女は寸劇を上手く演じ切りましたが、とんだ茶番を演じることに疲れました。多くの拘留者がたわけた芝居をするのを恥ずかしいと感じていました。しかし、必死に演じました。その練習をするため、一時的に北京語の授業は中断されていました。寸劇を上手く演じれば、再教育で「矯正」されたと証明してもらえる可能性が高まります。それは解放される可能性が高まることを意味します。
視察される時、訪問している高官から「あなたは自分の過ちを認識していますか?」と尋ねられる可能性がありました。何時尋ねられるか分からないので、全員が対応できるよう準備する必要がありました。警備員が拘留者全員に懺悔文を書いておくよう指示しました。それを作らない者は解放されないだろうと脅しました。拘留者の1人、全能神教会というキリスト教系カルトの信者の拘留者が、中国の憲法は信教の自由を保証していると言って騒ぎ出して、大声で言いました、「私は何も罪を犯していない!」と。彼女は連れ去られました。より過酷な施設へ。おそらく、刑務所だと思われます。
そのカルト信者が強制的に刑務所送りとなったことで、明白になったことがあります。それは、拘留者が自由を得るためには自分を押し殺さなければならないということです。サービトは、懺悔文の質を高める努力をしました。意図的に「潜在的に」という言葉を多用しました。また、中国外を旅行した理由が愛国心の欠如であることを強調しました。そうすることで、自分が分離主義から汚染されていないように見えるよう意図していました。しかし、彼女は上海に住んでいた経験から、少し疑問に思うことがありました。上海では、休暇で中国を離れマレーシアにいった漢人がいましたし、WhatsAppやVPNを使っている漢人もいました。彼女は思いました。自分だけ懺悔文を書いているが、その漢人たちも汚染されていたのではないか?と。
何度も何度も、サービトの拘留室にいた人たちは懺悔しました。しかし、誰も解放されませんでした。そうして徐々にサービトの楽観的な妄想もしぼんでいきました。2018年2月、春節の時期でしたが、拘留者たちは寸劇の準備をしている時期でした。収容所の所長に真夜中に叩き起こされ、講義室で懺悔文を書くように命じられました。拘留者が懺悔文を書き終えると、所長がそれを回収しました。そして、粉々に破り捨てました。不誠実であると非難し、それから夜明けまで拘留者に懺悔文を書き続けさせました。サービトは、だんだん自分自身が何をしているか分からなくなっていきました。自分は間違っているのだろうか?と思いました。また、自分は中国を裏切っていないか?と思ったりしました。
それから、寸劇をする時期が近づくと、判明したことがありました。それは、寸劇が終われば、拘留された時に学生だった拘留者は全員解放されるということでした。サービトはカナダの大学に籍があったので、自分も当てはまると所長に主張しました。収容所所長は同意しました。彼女は解放のための書類を記入しました。書く時は、解放の対象とならない拘留者が動揺しないようにこっそりと書きました。所長は彼女に正式な出発日を待つように言いました。これまで何度も失望させられてきたので、過度の希望を持たないようにしました。しかし、彼女は今思い返してみると、当時は解放される可能性があることを知って「一筋の光明」だと感じていたのです。