V.THE CONFESSION(懺悔)
ヤルカンド郡は、クイトゥン市から約1,300キロ離れ、タクラマカン砂漠の端で新疆ウイグル自治区南西部に位置します。13世紀後半にマルコポーロが訪れました。彼はこの地に関する記録を残していて、イスラム教徒とキリスト教徒が一緒に住んでいたこと、そして温暖な気候と豊かな土壌に恵まれていて「生活手段が豊富にある」と記されていました。
ヤルカンド群はウイグル人の人口が多く、取り締まりは厳しく行われていました。2014年、治安当局はラマダンを行うのを制限しました。当地からの報告によると、女性がスカーフを身に着けていないかをチェックするために1軒1軒しらみつぶしに家宅捜索をしていた警察官が拳銃を発砲をする事案が発生しました。ナイフで武装した多くの地元民が街頭に集結し、警察と激しく対立し、数十人が殺されました。その後、ヤルカンド郡に経験豊富な共産党幹部の王永志が呼ばれました。
王永志は陳全国の政策を積極的に推し進めましたが、彼は明らかに不安を抱いていました。彼が後にある文書に記していました、「より高いレベルで決定された政策と措置は、当地の実情とは相容れないものであり、完全に実施することはできなかった。」と。彼は取り締まりを和らげるための措置を講じたが、郡当局がどのように政策を実行しているかを監視していた陳全国のスパイの不満を募らせる結果となりました。後にタイムズ紙にリークされた文書によれば、王永志に対する治安当局の評価は、「拘留すべき者全員を拘留することを拒否した。」とされていました。実際に王永志がしたことは、それ以上のことでした。彼は7,000人の拘留者の釈放を承認していました。
王永志は解職されました。彼は正式な懺悔文を残していました。「私は今までのやり方を見直し、熟考して行動し、今までのやり方に調整を加えました。非常にたくさんの人を拘留することは間違いなく対立と憤怒を深めるだけだと確信しています。」と彼は記していました。共産党は彼を激しく非難し、汚職と職権の濫用で告発しました。ある政府系の新聞に記されていました、「王永志は理想と信念を見失った。彼は典型的な偽善者だ。彼がしたことの影響は非常に深刻です。」と。彼の政治生命は絶たれました。
王永志の懺悔文が新疆ウイグル自治区の全ての官僚に知れ渡った影響で、彼らの警戒感が強まりました。当然、その影響はクイトゥン市にも及んでいました。学生であったことを理由に解放されるはずだったサービトと数名の拘留者が解放される寸前で、収容所の幹部は解放する承認を取り消しました。ある警備員から聞いたところでは、それは王永志が承認無しに拘留者を解放して解雇されたことの影響によるものでした。その警備員は言いました、「誰も拘留者の解放を承認する気はありませんよ。誰だってそんな重い責任は負いたくないでしょう。」と。
拘留室は深い沈黙に覆われました。というのは、今まで何かと情報を提供してくれていた警備員たちまで、非常に注意深くなって、発言することに慎重になったからです。最初、サービトはがっかりしました。しかし、解放される見込みが高まった時に過度に喜ばないようにしたように、今回は過度に落ち込まないように努めました。彼女が唯一信頼できるの確実なものは、自分自身の忍耐力だけでした。彼女は待つのが上手くなりました。
しかし、閉じ込められている時間が長ければ長いほど、自由への道のりはより複雑になるように彼女には思えました。その頃までに、警備員がポイント管理システムを運用できる状況になっていいました。そのシステムでは、拘留者それぞれに評価ポイントが付けられます。そのポイントが十分に高くなれば、家族の訪問などの特典を獲得出来ますし、解放されることさえ可能です。ポイントが増えるのは、試験で良い成績をとるとか、「思想レポート」を上手く書いた時です。思考レポートで問われるのは、共産党のプロパガンダを繰り返し書く能力です。また、他の拘留者の問題行動を密告することでもポイントが加算されます。サービトは、ある拘留者について「監視カメラが1台増えたようでした。」と回想しました。
ポイントを失うという脅威が、常に拘留者の周りに存在していました。違反について拘留者が知らされていたのは、軽微な違反を犯した場合には警備員が1ポイント減らすと公表し、大きな違反の場合には警備員が10ポイント減らすと公表するということでした。しかし、そのように公表されることは1度もありませんでしたし、実際に拘留者たちは警備員から自分の獲得ポイントについて何も聞かされていませんでした。拘留者たちは、ポイント管理システムが本当に運用されているという確信が持てませんでした。ある日、1人の女性が喧嘩をしてしまい、ある警備員のところに連れていかれました。警備員は彼女を厳しく叱責し、彼女のポイントが書かれていた書類を破って言いました、「あなたのポイントは今ゼロになりました。」と。その拘留者が独房に戻ると、サービトと他の者たちは彼女を慰めました。慰めながら、同時に警備員が言ったことなどの詳細を聞き出しました。そうすれば、ポイント管理システムがどのように運用されているか少しは理解できるのではないかと思っていました。彼女は回想しました、「警備員たちは本当に私たちのポイントを記録しているかもしれないと思いました。でも、記録していないかもしれないとも思いました。」と。
2018年の冬、この収容所に新たに連れて来られる拘留者が急増し始めました。逮捕する際の基準となる変数が変わったのではないか、恣意的に基準が変わったのではないかという噂が広まりました。IJOPの関係者の1人が後にヒューマン・ライツ・ウォッチ(米国に基盤を持つ国際的な人権NGO)に次のように語った。「私たちは人々を無作為に逮捕していました。恣意的な運用はしていません。近所で口論している人、街頭で喧嘩している人、酔っぱらい、怠惰な人を逮捕し、過激主義者を告訴していただけです。」と。ある収容所の警備員がサービトに語ったことによれば、拘留者が急増した理由は、北京で全国両会(全国人民代表大会・全国人民政治協商会議)が開催されるからでした。治安維持の為に拘留者が急増していたのでした。
収容所は新たな拘留者を受け入れるのに悪戦苦闘していました。新たな拘留者のほとんどは、拘置所から移送されてきました。そこも満杯だったのです。その中には、年配の女性や、文盲の人もいました。何人かは足を引き摺っていました。八百屋の店主をしていた女性もいました。彼女が収監された理由は、八百屋に馬乳を納入していた者が信頼できないと当局に見なされたことでした。別の女性は法輪功の信者でした。彼女はとても怯えて、3階の窓から飛び降りて自殺を図りました。
多くの新しい拘留者は、再教育収容所に来て以前より状況が改善しました。再教育収容所では、「教育による変革」の”ふり”をして虐げられるのですが、拘置所ではその”ふり”すらありませんでした。ウイグル人とカザフ人は頭を布ですっぽりと覆われて手枷、足枷を付けたまま連れてこられました。新たに連れてこられた女性たちが語ったのは、殴打されたこと、不味くて食べられない食べ物、尿やクソや血でで汚れたベッドのことでした。サービトは、手首と足首に傷跡がある2人の女性を見ました。2人が言うには、それは付けっぱなしの手枷、足枷によってできた傷の跡でした。
収容所のベッドよりも拘留者の方が多くなったため、公安当局は、床にもマットレスを置きました。新たな規則が加えられました。女性たちは独房内で軍事教練を行い、散髪をしなければなりませんでした。カザフとウイグルの文化では、長い髪は幸運の象徴でした。一部の拘留者は、サービトが覚えているところでは、真っ黒で密度が高い髪をかかとまで伸ばしていました。小さい時から髪を切っていないようでした。最近になって判明したことですが、収容所は切った髪を使ってエクステなどの製品を作っていたことを示唆する証拠が発見されました。(2020年に、米国は13トンの髪の毛の輸入を禁止しました。その一部に収容所で刈り取った髪の毛が含まれている可能性があることをホワイトハウスが懸念したからでした。)クイトゥン市の収容所では、拘留者の何人かが髪の毛を切らないでほしいと懇願しましたが、髪の毛は乱暴にバッサリ刈り取られました。サービトはプライドを保ちたかったので、懇願しませんした。しかし、髪の毛をバッサリ切られて、非常に悲しく感じました。まるで囚人のようだと思いました。
その頃には、夜に拘留者たちは公安職員の作業を2時間交代で手伝うようになっていました。それで、サービトたちにはベットで1人になれる時間もありました。時々、1人で暮らしている母親のことを思い出しました。何ヶ月にもわたって、彼女は父親の一周忌にはみんなで会えるだろうという確信を持っていました。しかし、1年が経過し、その確信も揺らぎ始めていました。
夜に2時間交代の作業をする際に、サービトはときどき小さな窓から外を見ることが出来ました。庭、ポプラの木が見え、その向こうにはクイトゥンの街の夜景が広がっていました。街には光が溢れ、高速道路で車のヘッドライトが線を引いて見えました。彼女は以前の生活がとても懐かしく感じられました。
数ヶ月が経過するにつれて、収容所は拘留者以外にも苦痛を与えていました。かつて寛容だった警備員も、怒りやすく、厳しくなりました。ある晩、1人の温厚な女性警備員が急に怒り出しました。何人かにトイレに連れて行って欲しいと言われて切れたようでした。彼女は大声で叫んだ後、朝まで拘留者をトイレに連れていくことを拒否しました。
拘留者たちもおかしくなり始めていました。拘留者たちは、収容所の目的は拘留者を生かし続けることだけではないかと思うことがありました。拘留者の中には、若いのに白髪になる者がいました。月経が止まった者も沢山いました。原因は、サービトは特定できませんでしたが、収容所が行った強制注射かストレスだと思われました。めったにシャワーを浴びず、きれいな下着の提供も無く、婦人病を発症する者もいました。食事内容も酷く、多くの者が消化不良に苦しんでいました。ある年配の女性は、排便する際に自分で腹部(大腸付近)を押さなければならず、排便後に飛び出た大腸を自分で中に戻さねばならない状況になりました。それで、女性は病院に送られましたが、手術はしてもらえませんでした。高血圧のため手術ができなかったと言われていました。彼女は病院から戻ってきてからは、ほとんどの時間をベッドでうめき声を上げながら過ごしました。
ある日の講義中に、家族のほとんどを収容所に入れられた1人の拘留者が意識を失い突然床に倒れました。講義室内にいた彼女の妹が駆け寄って、周りを見まわし助けを求めました。他の拘留者たちが涙を流しながら助けに駆けつけようとしたが、警備員たちに制止され、泣き叫ばないように命じられました。サービトは回想しました、「彼らは警棒で鉄の柵を叩き始め、私たちを威嚇しました。私たちはすすり泣きを我慢しなければなりませんでした。」と。
心的外傷の兆候は容易に見つけることができました。1人ウイグル人の拘留者は、ほとんど学校教育を受けていませんでいたが、北京語の文字や文を必死に暗記していました。ある晩、彼女は突然叫び始め、服を脱ぎ捨て、ベッドの下に潜り込み、誰も自分に触れないで欲しいと言いました。収容所の幹部が医者を連れて急いで駆け付け、彼女を運び出しました。しかし、収容所の幹部は彼女を独房に移しました。彼女の病気は仮病だと判断したようです。その後、彼女は度々発作を起こして病院に行きました。しかし、それでも彼女は解放されませんでした。
サービトはますます自分が壊れそうだと感じるようになりました。彼女は体重が減りました。彼女は食べることができなくなり、一口の水さえも受け付けず、止まらない嘔吐を抑えるために薬を飲まなければなりませんでした。他の拘留者と同じで、サービトも感情を抑えることが出来なくなりつつありました。ある時、彼女は漢人の男の警備員と話をしました。彼は、収容所の副所長から「アナー(サービト)がここにいるのは純粋に時間の無駄だ。」と言われたことをサービトに伝えました。それを聞いて、サービトは微笑みました。彼女は彼に不快感を与えないよう十分に注意しました。そうしたら、2度と彼は情報を漏らさなくなるからです。しかし、彼が去ってすぐ、彼女はベッドに駆け寄り、カメラに背を向けて泣きました。
2018年の夏、陳全国の再教育の取組みが開始されてから1年以上経過していましたが、中国はそうした事実を隠そうと努力していました。しかし、隠し切れる筈などなく、徐々に大規模な不穏な出来事が起きているのではないかいう懸念が広がり始めました。
ラジオ・フリー・アジアの記者たちは、新疆ウイグル自治区の公安幹部等に電話取材をしました。記者たちは、これまでの経験で共産党の宣伝者と話すことには慣れていたので、それらの幹部に驚くほど率直に話をせることに成功しました。ある収容所の所長は収容所の名前を尋ねられた時、名前が頻繁に変更されるので覚えていないと告白しました(その後で建物の外に出て正面玄関の看板を見て最新の名前を確認していました)。ある警察幹部は、彼の管区では人工の40%を拘留するよう指示されたことを認めました。2018年1月、カシュガル市の公安幹部の1人が記者たちに言ったのは、彼の管轄する県では12万人のウイグル人が拘留されたということでした。
収容所の設備が拡大していることも注目を集めていました。カナダの大学生ショーン・チョウは、衛星データを活用して多くの収容施設の位置を特定し始めました。2018年夏時点で、新疆ウイグル自治区の人口の約10%が拘留されていると推測しました。ドイツの人類学者エイドリアン・ゼンツは、陳全国が推進している弾圧に関する多くの自治区政府の書類を探し当てました。それによれば、収容所に拘留されている人の数は百万人に達すると推測されました。その数字は、国連や他の機関などのはじき出した数字と一致していました。ホロコースト以降、少数民族がこれほど大量に組織的にに拘留されたことはありません。
弾圧が進展するにつれて、クイトゥン市のサービトが入っていたような急ごしらえの収容所は、僻地にある巨大な収容施設に取って代わられました。中国政府は、それまでウイグルに収容施設があるという報道を一貫して否定してきましたが、公に認めざるを得ない状況に陥ると一転、施設の存在を認め、「過激主義を防ぐ措置」として中国語や思想の教育を施していると釈明しました。また、「新疆は大混乱の危機から救われた」と主張しました。
その夏、まだ他の収容所に移っていませんでしたが、サービトの収容所の所長は、拘留者たちに塀に囲まれた庭に出ても良い時間を設けました。しかし、狙撃兵が常時監視しており、拘留者たちがそこで認められていたのは防災訓練のような活動だけでした。所長はそれでも拘留者は感謝すべきだと主張しました。その後、拘留者たちは収容所の職員が維持しているブドウ園で毛布を干すことも許可されました。サービトは回想しました、「私たちは毛布の中にブドウを隠しました。それを私たちは拘留室に持ち込み、見つからないように食べました。」と。
7月に、サービトと他の拘留者たちは新しい施設に移されると言われました。その知らせは不吉なものに感じられました。拘留者たちは自分たちがどこに移されるかを認識していませんでしたが、状況が悪化するのではないかと恐れていました。ある夜、警備員が拘留者を叩き起こし、荷物をまとめるように言いました。拘留者を運ぶバスが1台待っていました。道路上には、バスを護衛するための数台のパトカーが停まっていました。交差点に警察官が数名配置されていました。サービトは回想しました、「多くの人が泣いていました。隣にいた女の子に『なんで泣いているの?』と聞いたんです。すると彼女は、「今見ている道路を歩いたことがあるんです。ここに入れられた時に。そのことを思い出してしまったんです。」と。
暗闇の中、一行は孤立した巨大な施設に近づきました。建物の1つは巨大な「L」字型で壁に囲まれていました。バスがそのLの形に沿うように走っている時、拘留者たちは窓の数を数えました。拘留室のおおよその数を推定するためです。サービトは、その建物には活気がないように思えました。電気の点いていない部屋ばかりで、使われていないように思えました。建物内部に入った拘留者たちは、実際に誰も使っていない空っぽだと気づきました。サービトたちが最初の占有者でした。夏だったのですが、厚いコンクリートの壁の中は墓のように冷たく感じられました。
新しい建物では、拘留者は民族によって分けられました。例外なく、ウイグル人はより厳しく対処されました。ウイグル人の何人かは刑務所に移送されると宣告されました。対照的ですが、サービトと同じような境遇の者は、しばらくして解放されました。9月に拘留者たちが自治区政府高官が訪問してきた際に演じる寸劇のリハーサルをした時、収容所幹部がサービトに普段着る服を持っているかどうか尋ねました。翌日、寸劇をした日ですが、別の収容所幹部がサービトに「明日、あなたは解放されるだろう。」と言いました。サービトが後々になって気づいたことがありました。それは、長期間拘留されていた理由は彼女の流暢な北京語にあり、寸劇を見事に演じるためだけに長期間拘留されていたということです。
翌日、講義中に、部屋のあちこちでサービトがまもなく解放されるという噂がささやかれていました。何人かの拘留者はサービトに北京語のノートを譲ってほしいと頼みました。サービトはウイグル語で、どうしてか聞きました。ウイグル語で、サービトが解放されることを知っているという返答がありました。サービトはウイグル語で、確実とはいえないと言いました。1人の警備員がサービトに目くばせして、もうじき彼女の名前がスピーカーで呼ばれ、彼女は解放されるだろうと言いました。スピーカーで名前が呼ばれた後、サービトは立ち上がり、ドアが解錠されるのを待ちました。他の拘留者たちはサービトの幸運を祈ってくれました。それから、サービトは自分の服を着るために部屋に戻りました。そして、ついに忌々しいユニフォームを脱ぐことができました。
サービトは収容所の党幹部のところまで連れて行かれました。彼は椅子と小さなテーブルとベッドのある部屋で待っていました。サービトはベッドに座らされました。彼は彼女に講義をしました。内容はもっと愛国心を強く持つべきだということでした。彼は言いました、「あなたのライフスタイルはあまりにも利己主義的でした。あなた自身のためだけに戦っていました!」と。サービトは憤慨しましたが冷静を装いました。もうすぐ解放される見込みに浮かれて、収容所で覚えた共産党に従順にならなければならないという教えを忘れそうになっていました。彼女は、中国のために死んだら満足してくれるのか?と心の中で思いました。しかし、彼女は彼に対してうなずき、言いました、「ええ、おっしゃる通りです。」と。
その党幹部は、自治区の党幹部たちが彼女を叔父の家に連れて行くために待っていると彼女に言いました。彼女が収容所から待っている車に向かって歩いている時、拘留者たちが彼女に言ったアドバイス「決して振り返らないで。それは悪い兆候です。」を思い出しました。サービトはそのアドバイスに従うことにしました。しかし、ちらっと横を見ると、道路の向こう側に迫り来るファサード、収容所がおぼろげに見まえした。突然走り出し、彼女は待っている車に向かいました。