実録 ウイグル族の最後! 中国の弾圧はウイグル族を根絶するまで続く

Vi.ERASURE(ウイグル族の根絶)

サービトが拘留されていた年、陳全国は新疆ウイグル自治区を変容させていました。イスラム教の遺産の大切なシンボル(廟、モスク、墓地など)は、破壊の標的となりました。多くの専門家による推定では、2017年以降、約16,000のモスクが破壊または損傷しました。ミナレット(光塔)は引き倒され、イスラム教的な装飾物はこすり落とされるか塗りつぶされました。カシュガル市の当局者の1人はラジオ・フリー・アジアに言いました、「市内のモスクの70%近くを取り壊しました。理由は、多すぎたからです。」と。多くの市当局者が破壊しない代わりに奇妙な手段を取ることがありました。小型化という手段です。2018年、カルギリクの町にあるモスクの壮大な門楼は一時、「党を愛し、国を愛しなさい」と書かれた幕で覆われました。その後、それは解体されて再建されました。粗悪な模造品というべきもので、サイズは4分の1になっていました。
 ウイグル語とカザフ語は公の場でほとんど使われなくなっており、話す者も減っています。陳全国の弾圧の最初の2年以内に、40万人近くの子供たちが国営寄宿学校に転校しました。子供たちが家庭で彼らの親の思想や考えに触れるのを阻止するのが目的でした。そうした子供たちを収容するために新しい施設は早急に建設する必要がありました。というのは、彼らの親が2人とも拘留されている場合が多かったからです。ある孤児院の職員はラジオ・フリー・アジアに言いました、「子供の数がとても多かったので、子供たちは家畜のように閉じ込められていました。」と。サービトが拘留されていた収容所では、子供がいる拘留者は非常に従順でした。おそらく子供に会いたい一心で、何でも進んで取り組んでいました。
 それらの子供たちについて調べてみると、いろんな事実が見えてきます。人口統計上、明らかに異常な数値が見られます。中国では家族計画規則(産児制限)が緩和されてきましたが、新疆ウイグル自治区では厳格に運用されています。違反者はしばしば罰せられ拘留されています。エイドリアン・ゼンツ博士が入手した文書によれば、2018年以降の中国のIUD(子宮内避妊器具)使用者数の増加の80%は新疆ウイグル自治区の増加分でした。弾圧による激しいストレスの中で、ウイグル自治区の出生率はその年は3分の1に低下しました。ウイグル人が人口の大半を占める地域では、減少率はもっと悲惨でした。この問題を研究したマンチェスター大学の歴史家リアン・トゥムは「信じられないほどの減少率です。」と言いました。新疆ウイグル自治区政府はこららの数字については異議を唱えず、出生率の減少は、女性の解放が進んだ結果で喜ぶべきことだと主張しています。今年の1月、ワシントンの中国大使館はツイッターで、「ウイグル族の女性はもはや子供を産む機械ではありません。」と世に知らしめていました。
 クイトゥン市は、他の中国の都市と同様に、いくつもの社区(訳者注:中国の都市部の基礎的な行政区画)に分かています。それぞれの社区は居民委員会と呼ばれる共産党組織が管轄しています。サービトは10年以上そこに住んでいませんでしたが、彼女が昔住んでいた社区に登録されたままでした。彼女を収容所に迎えに来たの中の1人が居民委員会書記チャン・ホンチャオでした。彼は中年で、野心的な官僚で、自分の上位職を喜ばせ、下位の者を苛める術に長けていました。彼はしばしば軍用の迷彩服を来ていました。常に社区の監視を怠りませんでした。
 サービトは自分が再教育されたことをチャン・ホンチャオに証明するために、党への感謝の気持ちを口にしました。言葉が自然と口から出てきました。収容所で数え切れないほど繰り返えしたからです。彼は喜んでいるようで、言いました、「あなたがそれほど多くの問題を抱えていないのは分かっていました。海外に行ったことがあることだけが問題でした。」と。それから、彼は彼女に忠告しました、「ここに留まって中国のためになることだけをやりなさい。今後10年間は​​海外に行くことを考えないことです。」と。
 サービトは、それは提案でないことが分かっていました。それに従わなければ、必ずチャン・ホンチャオに彼女は収容所に戻されます。彼女は自分が近々出国出来ると思っていたことが誤りだと思いました。彼女は、仕方がない、出国するまで生き延びてみせるぞ、と思いました。彼女は「上海に行くことは出来ますか?」と尋ねました。「そうだな、しばらくしたら行ってもいいぞ。」と彼は答えました。
 サービトの叔父の家に、チャン・ホンチャオと補佐官1名がお茶を飲みに来ました。社区居民委員会の幹部数名も一緒でした。サービトが後に叔父から聞いた話では、その幹部数名は彼女が拘留されている時にも来ていて、その時に叔父家族全員が要注意人物に指定されたことを聞かされていました。それで、叔父家族は、毎週、社区居民委員会センターでの再教育クラスを受講し国旗掲揚式典に出席しなければなりませんでした。その幹部数名は何回も食事のために訪問してきました。飲み物も出させられました。イスラム教徒はアルコール禁制でしたが、幹部数名はアルコールを出させました。最初の何回かの訪問では、彼らは朝まで滞在していました。ある時、服を着替えて違う写真を撮れば、朝まで居たと偽ることができると気づきました。それ以降は朝まで居ることは無くなりました。。
 チャン・ホンチャオらが座布団に座ってお茶をすすっていた時、チャン・ホンチャオと幹部1人が、サービトの行動範囲はクイトゥン市内に限定されると説明しました。幹部の1人は言いました、「私たちはあなたが本当に悔悛したのかを確認するために、しばらくの間あなたを監視する必要があるのです。」と。サービトが買い物や友達に会ったりしても問題ないか聞いたところ、「誰と連絡するかということについては注意が必要ですが、友達と会うこと自体は許可されています。」と言われました。
 日が沈んだ後も彼らは留まっていて夕食を食べました。彼らが帰った後、サービトの叔母はサービトのボイスメッセージを録音し、カザフスタンのサービトの母親にテキストメッセージに添付して送信しました。電話をかけるのはリスクが高いように思われたからです。それから、サービトは客間でくつろぎました。伝統的な中央アジア式の装飾がされたいました。壁にはカーペットが掛けられ、床には平らなクッションがありました。明かりを消すと、彼女は家族の暖かさ、取り戻された安全な快適さを感じました。1年以上の間、彼女は1人になったことがなく、寝るときは電気が点いたままでした。闇と孤独がありがたいと感じる一方で、ちょっと慣れない奇妙な感覚もありました。彼女は眠っている叔父たちを起こして感謝の気持ちを伝えたい衝動にかられましたが、思いとどまりました。彼女は、自分の気持ちを我慢して押しとどめる術を習得していました。長い収容所生活の中で。彼女は自分の内なる声を、親が子供の言葉に暖かく耳を傾けるように聞きました。ほどなく眠りに落ちました。

 クイトゥン市は塀が無いだけの刑務所と同じでした。市を囲むように環状に検問所が設置されていました。漢人の住民は自由に通行できるにもかかわらず、ウイグル人とカザフ人は強制的に検問を受けさせられました。サービトが拘留されている時のことでしたが、陳全国は宣言していました、「私たちは、包括的、24時間体制の、3次元の警戒体制を構築した。我々にはいかなる死角、盲点、間隙もない。」と。その警戒システムを活用して、デジタル時代のアパルトヘイトが推進されています。
 新疆ウイグル自治区では、シャープ・アイズ監視プログラムが大規模な統合情報処理センターに接続されていましたが、膨大な量の画像データを識別するのに時間が掛かりすぎていました。国営メディアによると、「多くの手作業が必要でした」と伝えられていました。機能が向上するにつれて、データ処理量も膨大になしました。1人の元中国共産党高官によれば、導入当初、その監視システムは人々の移動する際の動きだけを追跡していました。しかし、今では、個々人の歩き方、顔の表情まで認識しています。2017年の夏、新疆ウイグル自治区は、ウルムチクラウド統合情報処理センターを開設すると発表しました。そのスーパーコンピューターの演算速度は世界最速とのことでした。発表によれば、新しいスーパーコンピューターを使えば、これまで処理するのに1か月かかっていた画像データを1秒未満で分析できるとのことでした。数千のサーバーから多くの種類のさまざまな個人情報が吸い上げられ一元管理されています。中国国営メディアは新しいシステムは「世界最強の人工知能」であると宣伝していました。
 共産党幹部でも比較的下位の者は、そのシステムの詳細な仕組みは何も理解していないようでした。サービトは、チャン・ホンチャオに質問してみました。サービトがシャープ・アイズの監視網を掻い潜って移動できるかどうかを。彼は、分からないようでした。それで、サービトと彼の部下の1人でサービトのIDカードを試しに病院でスキャンすることを提案しました。翌朝、2人で彼女のカードをスキャンすると、大きな警報音が鳴り響き、警察官が群がってきて、数分以内にサービトは取り囲まれました。。
 その実験の後、彼女は服を買いにショッピングセンターに行きました。中に入るとすぐに、警察官が彼女を取り囲みましだ。その中の1人が、顔認識システムが彼女を「要注意人物」と識別したと説明しました。彼女がすでに再教育を終えたことが判明し、警察官は彼女を解放しました。サービトが認識したのは、当局のシステムに追跡されずに出歩くことは不可能だということでした。実際、警察はいつでも彼女を見つけ出し、彼女は何度も何度も警察官に取り囲まれました。それはまるで彼女に外出するなと命令しているかのようでした。しかし、サービトはそうしませんでした。いろいろと試す内に、サービトは多くの簡易警察署では追跡システムが機能していないことを突きとめ、その事実を警察署に報告しました。
 週に数回、サービトは、社区居民委員会センターに顔を出さなければなりませんでした。国旗掲揚式典と追加の再教育クラスを受講するためでした。彼女はそこへ行くのが嫌でしたが、唯一の人と触れ合えて孤独を忘れられる場所でもありました。彼女の叔父の家族を除いて、近所の人たち、友人たち、他の親戚などは皆いなくなっていました。。それらの人たちがどこに行ったのか?どのように考えても答えは1つしかありませんでした。収容所です。
 サービトが安全に会うことができたのは、収容所で同じ拘留室にいた人たちだけでした。その人たちもサービト同様に孤独でした。同じ拘留室にいた共産党のプロパガンディストをしていた人は解雇されていました。八百屋の店主だった人は店を畳んで卑しい職業についていて、結婚する予定だった男性に拘留中に逃げられていました。皆、身をひそめて傷つかないように生活していました。そうしている限りは安全でした。
 サービトが解放されてから2週間後、収容所の何人かの警備員が叔父の家を尋ねてきました。サービトの個人情報ファイルを見て住所を見つけたと言っていました。職務上の訪問ではありませんでした。彼らは、形が違うだけで、自分たちも拘留者と同じであると言いました。彼らが収容所を辞めることは不可能でした。彼らの内の2人はカザフ人でした。常に怯えながら生きていると言いました。彼らは何かミスをすれば拘留者として収容所送りとなります。また別の1人は罪悪感と悪夢を和らげるために酒を飲んでしまうと言いました。
 そのように収容所の警備員の何人かは親切だったので、サービトと一緒に拘留されていた者の何人かで、感謝の印として彼らを夕食に連れて行くことにしました。その後、定期的に夕食に行くようになりました。まもなく警備員たちは、食事代は負担するから、お金を貸してほしいと主張し始めました。サービトは返却されないと認識したうえで、お金を渡すようになりました。しかし、警備員たちの要求は徐々にエスカレートしていきました。警備員の1人はサービトに車を買って欲しいと頼みました。サービトが丁重に断ると、今までの優しさは消え、強面に変わりました。その男はサービトに電話してきて、IJOPデータを利用して彼女が前日にいた場所を全部言い当てました。彼女はやはり孤独が一番優れていると確信した瞬間でした。

 社区居民委員会は常にサービトの生活に介入してきました。サービトを何とかしての善良な市民に作り変えようという意図があったようです。警察官たちはサービトに漢人の男性と結婚するよう促しました。伝えられるところによれば、お金の問題も絡んでいるようでした。新疆ウイグル自治区政府は全人口に占める民族ごとの比率の修正を企てていました。それで、自治区政府は先住民族の女性が漢人と結婚することを奨励する大々的なキャンペーンを実施していました。新疆ウイグル自治区の弾圧を研究しているサイモンフレイザー大学の人類学者であるダレン・バイラーは、最近明らかにしましたが、新疆ウイグル自治区ではウイグル人の女性が漢人男性と強制的に結婚させられている例があるということでした。サービトが申し出に難色を示すと、警察官たちは笑いながら、イスラム教徒の男性は偏屈で思いやりがないと言いました。また、それに比べると漢人の男性はとても優しいと言いました。結婚すれば溺愛されると言いました。
 社区居民委員会は彼女に働くように促しました。しかし、その後、それを邪魔しました。サービトは英語を教える仕事を見つけましたが、仕事の初日に、居民委員会は彼女を収容所の職員との予定外の面接のために呼び出しました。彼女は、学校に自分が休む理由を告げることができませんでした。というのは、もし自分が「要注意人物」であることを知られてしまえば、解雇されると思ったからです。収容所で彼女は、自分の面接の順番を1番最初にしてほしいと頼みました。少しでも早く学校に戻りたかったからです。すると、収容所幹部の1人が脅迫するように拒否しました。彼女は仕事を失いました。彼女は新しい仕事を探すことは無理だと理解しました。
 2019年1月に、サービトは、自分が滞在していることで叔父一家が不安な生活を強いられていることに気づきました。叔父一家に危険が及ぶといけないので、彼女はホテルに移りました。ある夜、彼女は食事をしに叔父の家に行きました。そして、ポーズをとって皆で一緒に写真を撮りました。彼女はそれをソーシャルメディアに投稿しました。すぐに、チャン・ホンチャオからテキストメッセージが届きました。内容は、写真の背景に写り込んでいた肖像画は誰か教えて欲しいということでした。。
 肖像画は、伝統的な衣装を着たひげを生やした男を描いたものでした。カザフの詩人アバイクナン・バイウリーでした。サービトは回想しました、「その肖像画が私と叔父一家に災いをもたらすのではないかと不安になりました。」と。彼女はその写真を削除し、チャン・ホンチャオにバイウリーに関する中国語の百科事典のページのアドレスを送信しました。  「あなたはすぐに写真を削除しました。」とチャン・ホンチャオはテキストメッセージを送ってきました。「あなたが私に警告したからです。」とサービトは返信しました。「ただ誰か聞いただけですよ。神経質になりすぎですよ。」とチャン・ホンチャオは返信しました。
 サービトは既に叔父の家には住んでいないことと、また引っ越す計画をしていることをチャン・ホンチャオに伝えました。彼女はカザフ人の年配女性が所有する安価な賃貸アパートを隣接する社区で見つけていました。
 再び春節の時期が近づいてくると、サービトを含む元拘留者たちは、社区居民委員会センターでの寸劇の練習を強要さられました。春節が近づくと、チャン・ホンチャオは拘留者たちにチュンリアンを吊るすように指示しました。それは春節の際に家の外に吊るす祝日を祝う赤い紙製の飾りでした。漢民族の伝統だったのでサービトたちは今まで一度も吊るしたことがありませんでした。アパートに戻ると、彼女は玄関まわりの壁にチュンリアンを掛けました。不服従と見なされないようにするために、彼女はその写真を撮って、チャン・ホンチャオに証拠としてテキストメッセージで送信しました。彼女はテキストメッセージに書きました、「私はチュンリアンを吊るしました。あなたの幸運と幸福を祈っています。」と。チャン・ホンチャオから返信がありました。「どうも。」とだけ記されていました。
 その夜、2人の警察官がサービトの家のドアを叩きました。2人は、地元の警察官と社区居民委員会の警察官でした。「いつ引っ越したのですか?、どうして教え無かったのか?」と言われました。唖然として、サービトはチャン・ホンチャオに報告してあると言いました。しかし、男性2人は、それだけでは報告したことにはならず、サービトはこの社区から出ていかなければならないと言いました。それも今夜中にということでした。
 男性2人は詳しく審問するために彼女を近くの警察署に連行しました。そこで、サービトは借りていたアパートのカザフ人家主とその夫に出くわしました。家主夫婦は警察官たちによって装甲車両に押し込まれる時に、サービトを怒りと軽蔑に満ちた目で睨みつけていました。そして、言いました、「バカ野郎。お前のせいだぞ!何で私たちが収容所送りにならなきゃならないんだ!」と。
 罪悪感に苛まれたサービトは、家主夫婦が本当に収容所に送られるのかどうかを警察官の片方に尋ねました。彼はサービトに、家主夫婦は尋問のために別の警察署に連れて行かれるだけだけだと言いました。それでも、サービトは、自分が存在しているだけで、そのような災難を引き起こしてしまったことに驚きました。サービトは回想しました、「その日はたくさん泣きました。私はウイルスと同じような存在でした。」と。
 行くあての無かったサービトはチャン・ホンチャオに電話を掛けました。彼は社区居民委員会センターに宿泊できる寮があると言いました。その夜、彼女は荷物を持ってそこに引っ越しました。「今日は助けてくれてありがとう。」と彼にテキストメッセージを送りました。「あなたはそこに住むことができます。」とチャン・ホンチャオはテキストメッセージを返しました。
 彼女の部屋は他の2人のカザフ人女性との相部屋でした。後に、その内の1人は、チャン・ホンチャオからサービトを監視するよう指示されていたとサービトに語りました。チャン・ホンチャオはサービトが何をしたか、何を言ったか、誰に会ったか、基本的に全ての詳細を知りたがっていました。