VIi.ESCAPE(解放)
サービトが収容所から解放された時、中国を離れることは不可能にさえ思えました。当時、彼女は、1人の結核になったカザフ人男性拘留者の顛末を知りました。その男は結核になって入院しました。カザフスタンの家族に会えないため悲嘆に暮れていたのですが、結局はカザフスタンへ行く許可を得たのでした。いくつかそういった類の話を聞いて、彼女は出国できる可能性があるかもしれないと思いました。
彼女が収容所から解放されてから1か月後、サービトはパスポートを返してもらうために警察署に行かなければなりませんでした。警察署に行って言われたのは、手続きが必要であるということでした。手続きとして、後日面接を受けることが必要でした。その後に必要書類が承認のためにクイトゥン市法務委員会に送られるということでした。
サービトは面談してもらう日をじっと待っていましたが、何カ月経っても警察署からは何の連絡もありませんでした。彼女はチャン・ホンチャオに教えてもらった寮に引っ越した時でもまだ面接日の連絡が来ることを心待ちにしていました。ある日、社区居民委員会センターに立ち寄った1人の党幹部が彼女に言いました。それは、彼がサービトのパスポート申請が承認されたということを耳にしたということでした。チャン・ホンチャオはサービトに出くわした時に言いました、「聞きましたよ、承認が下りたって。もしパスポートが戻ってきたら、いつ出発する予定ですか?」と。サービトは、「今すぐです。」と嬉しそうに語りました。
チャン・ホンチャオは眉をひそめて言いました、「あなたの教育は不完全だったようですね。また再教育施設に行きたいのですか?」と。彼女は驚いて「いいえ!」と言いました。
その後間もなく、法務委員会のメンバーからサービトに電話がありました。その人は彼女の経歴ファイルを見たので、地元の貿易会社で職を得てはどうかと言いました。彼が言うには、その会社はウズベキスタンと取引があり、語学力のある人を必要としているとのことでした。彼はサービトに尋ねました、「そこで働くことができますか?」と。
サービトはその電話の真意を掴みかねていました。自分の出国申請が許可されていないということを意味しているのではないか?また、自分が収容所に入れられた唯一の理由が貿易の仕事でウズベキスタンに行ったことだったのに、どうして自治区政府が同じ仕事を紹介するのだろうか?と思いました。彼女はこの就職斡旋を断ることはできないと推定しました。その後、彼女は治安維持局に連絡したところ、「是非やって下さい!」と言われました。
サービトはその職に就きました。彼女は海外の顧客に電話したり、電子メールを送ったりする必要がある時は、その都度治安維持局に連絡して聞きました、「実行して良いですか?」と。毎回、治安維持局の担当者は上位職に許可を貰いに行かなければなりませんでした。それで、治安維持局は彼女に電話を掛けてくるなと言いました。
その数週間後、サービトは彼女のパスポートの準備ができていることを知りました。彼女は警察署に急いで行きました。そこで彼女は沢山の書類にサインしました。収容所のことは決して口外しないという誓約書も含まれていました。それから彼女はパスポートを受け取りました。空港を使うのは危険だと感じたので、彼女はカザフスタン国境へ向かう夜行列車のチケットを購入しました。そして、彼女は叔父に別れを告げて去りました。
夜が明けた頃、サービトは最西端の町に到着しました。そこで彼女は国境を越えるシャトルバスに乗らなければなりませんでした。バス待合所に入ると、アラームが鳴らないように祈りながら、彼女は自分のIDカードをスキャンしました。
アラームが鳴ることはなく、彼女はバスに乗り込みました。10分ほどでバスは国境に着きました。サービトが窓の外を見つめるていると、携帯電話が鳴りました。ワン・ティンからでした。「宗教的、分離主義的な思想を持っている人物を見かけたら、必ず報告してください。」と彼は言いました。彼女はスパイになるつもりはありませんでしたが、彼が彼女の出発を阻止できることを知っていました。それで、彼女は「もちろんです。」と答えました。
国境で、サービトはカザフスタンの草原を見ることができました。あちこちに雪が残り、風で草がなびいていました。その向こうには、手付かずの山々が見えました。全員がバスを降り、中国の国境検問所に入りました。そこでは、全員が尋問されました。サービトは一番最後になりました。尋問は窓のない部屋で、3人から尋問されました。1人は肩にカメラを取り付けていました。彼女は40分間尋問された後、他の乗客と同様にカザフスタンに入国して良いと言われました。カザフスタンに入って彼女は安心しました。彼女は家族のことを思い出しました。バスの中の人たちはカザフ語を自由に話していました。彼女は手荷物はほとんど何も無かったので、税関をすんなり通過しました。1人のいとこが彼女を母親のところに送り届けるために車で迎えに来ていていました。彼女がその車に向かって歩いていると突風が吹き、彼女はさわやかな空気を吸い込みました。1年8カ月の捕らわれの身から、今ようやく解放されたのです。
今年は人権法の歴史において重要な節目の年に当たります。ちょうど100年前、ラファエル・レムキンというポーランド人弁護士が、オスマン帝国の元内務大臣を暗殺した男性の裁判に興味を持ち詳しく調べていました。元内務大臣はオスマン帝国内のアルメニア人のほぼ完全な根絶を主導した人物でした。暗殺者は、母親を虐殺されたアルメニア人でしたが、元大臣をベルリンの自宅で待ち伏せして射殺していました。裁判中、彼は良心に従って真実を述べると宣誓し、「私は男を1人殺した。しかし、私は殺人者ではない」と述べました。
レムキンは事件について調べていくと、難問にぶち当たりました。暗殺者は裁判にかけられていましたが、一方、百万人以上の虐殺を指揮した被害者は法的な裁きを全く受けていませんでした。どうしてなのか?「私は、オスマン帝国が犯したような大量殺人は国際社会で裁かれるべきだと感じました。」と彼は後に書いています。1944年に、レムキン(ユダヤ人)はナチズムの恐ろしさを目撃しました。それで、現代法には欠けている単語があると気づきました。それで彼は新しい単語を造語しました。それは、「genocide(ジェノサイド・集団虐殺)」です。
長年、その単語には「ある人種・国民などに対する計画的な集団虐殺」という定義が定着していますが、レムキンはその単語の定義をもっと広く考えていました。彼はジェノサイドについて述べていました。「大量殺戮によって達成された場合を除いて、ジェノサイドは必ずしも国家の即時の破壊を意味するものではない。それはむしろ、国家や集団に対して故意に、全部又は一部に肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を課することである。」と。これにまさしく当てはまるようなことが現在新疆ウイグル自治区で行われています。レムキンに影響を与えたオスマン帝国の事例と同じように、国を挙げて大々的に行われています。
12月、国際刑事裁判所(ICC)は、中国が行っている少数民族ウイグル族弾圧に関する捜査要請を退けました。理由は、新疆ウイグル自治区の事案は「中国の領土内で、中国人のみによって」行われたものであり、中国はICC非加盟国であるため中国国内での行為についてICCに管轄権が無いというものでした。数年間、世界のほとんどの国がウイグル族の弾圧を公式には認めていません。つい最近になって、米国は中国のジェノサイドを非難するようになりました。昨夏、米政府は陳全国、朱海仑、兵団に制裁を課しました。また、新疆ウイグル自治区の綿花とトマトの輸入を禁止しました。EUと英国とカナダが数週間前に同様の措置を取っていました。
中国の国力を考えると、各国が共同で足並みをそろえて厳しい制裁を実施しない限り、制裁されても痛くも痒くもないでしょう。しかも、制裁は迅速に行う必要があります。ジェノサイドが実施されている期間が長く成れば、それ自体が正当化されるようになってしまいます。オスマン帝国の場合がそうでした。暗殺された元大臣は諫めに来た米国の外交官に語っていました、「我々は根絶するまで続けなければならない。そうしなければ、彼らの復讐に会うからです。」と。中国は何年も大がかりな弾圧をつづけた後、オスマン帝国と同じ態度を取るであろうことは容易に想像できることです。中国では、大規模な収容所がいくつも作られたり、新しいシステムの導入などのさまざまな変化が見られますが、それは国家ぐるみで長期的に弾圧政策を続けようという意図を明確に示すものです。
2019年12月、新疆ウイグル自治区党委員会書記は、「再教育訓練を受けていた者は全員卒業しました。」と発表しました。そうした発表にもかかわらず、当時、拘留者の数はピークであったと推測されています。確かに一部で解放された人もいましたが、多くの人たちが連絡が取れないままでした。さまざまな証拠から推測できることは、膨大な数の人たちが収容所に入れられるか、強制労働をさせられているということです。昨年、欧州にいるウイグル人女性は、彼女の兄が収容所から解放された後に消息を絶ったと言っていました。彼女は兄が強制労働させられていると疑っています。TikTokの彼のいくつかの投稿を見ると、沢山の箱を運んでいる彼の姿が映っていました。彼女は、「とても、家族が心配です。」と言っていました。
中国の国外に逃げた人たちも恐怖に襲われています。先日公表されたフリーダム・ハウス(1941年にナチス・ドイツに対抗して、自由と民主主義を監視する機関として設立された米国に本部を置く国際NGO団体)の報告書が指摘しています、「中国は世界で最も狡猾な、全世界規模で国境を越えた弾圧を行っている。」と。弾圧では、IT技術を駆使した脅迫、根拠のない起訴、強制的な国外追放などあらゆる手段が駆使されています。先日、習近平政権は歴史上誰もしたことが無い行動をし始めました。新疆ウイグル自治区に関する研究をしている西側の学者や組織に制裁を課し始めました。「彼らは自らの無知と傲慢さの代償を払わなければならないだろう。人権教師面をするな。」と中国外務省は宣言しました。中国国外に逃亡していて新疆ウイグル自治区の弾圧について口外した者の多くは、苦しんでいます。というのは、彼らの新疆ウイグル自治区にいる家族や親戚が懲罰の対象となっているからです。そして、家族や親戚からの激しい非難にさらされています。
2006年にアメリカに移住したウイグル人活動家の伊利夏提が私に最近起こったことを話してくれました。3人の男がバージニアの郊外の彼の自宅まで車でやって来て、堂々と彼の自宅の写真を撮り始めました。3人は、隣人が見ていたので思いとどまったものの、郵便物を持ち去ろうとしていました。また、彼はワシントンの中国大使館での抗議集会に出席していた時、知らない女性に近づかれ、北京語で言われました、「もしも毒を盛られたら、治療する方法は知っているの?」と。それで彼は、「どうしてそんなことを知る必要があるんだ?」と聞き返しました。彼女は言いました、「あなたは知らないのね。中国政府はとても強力よ。あなたは自動車事故で死ぬかもしれないし、毒物で死ぬかもしれないわ。」と。
もう何年も伊利夏提は家族と連絡をとっていません。2人の妹、1人の義弟、1人の姪が収容所に入っていて、残りの者も連絡を取りようがない状況です。彼が家族と最後に連絡をとったのは、2016年です。その時、母親は言いました、「もう電話しないほうが良いみたいね。ごめんね。あなたの幸運を祈ってます。」と。彼女がその後どうなっているのかは不明です。
全くの偶然ですが、サービトは伊利夏提の妹2人と一緒の拘留室にいました。サービトは2人が非常に残酷な仕打ちを受けているのを見てきました。2人の状況は非常に過酷でした。ある日、収容所の副所長は2人に向かって言いました、「あなたたちの問題の根本はあなたたちの兄です。あなたたちの兄が死なない限り、あなたたちの問題は解決しません。」と。
何ヶ月もサービトは私に弾圧のことを口外するのを躊躇していました。しかし、彼女は恐怖を脇に置いて、私に話す決心をしました。彼女は収容所で反省文を書かされて、何度も「私はやりました」と嘘の内容を書かされました。今は実際に見てきたこと、本当のことを話すべき時だと思ったのです。
中国から出国してから半年後の2019年10月に、彼女は回想録を書き始めました。彼女はそれが彼女のトラウマを克服するのに役立ったと感じていました。セラピストに診てもらったことも役立ちました。しかし、彼女は自分が昔の自分とは全く違うということを認識しています。昔は、もっと自信に満ちて決断力があったのにと感じています。悪夢で眠れないこともあります。彼女は言いました、「どこにいても収容所にいた時のことを思い出してしまうことがあるのです。」と。狭い部屋にいると、独房に入れられた時の自分を思い出しました。また、マッサージパーラーで他の人も横になっているのを見ると、拘留室に沢山の人がいたことを思い出しました。「1年間、私はほとんど毎日悪夢にうなされました。私は何度も恐怖で目が覚めて泣きました。拷問が続いているのと同じだと言いたいです。安全な場所にいるのに、あの体験を思い出してしまうんですから。」と彼女は私に言いました。
治療のおかげで、しばらくの間は悪夢を見なくなりましたが、最近、別の形で戻ってきました。サービトが最近見る夢は新疆ウイグル自治区にいる夢です。「夢の中では、私が立ち去ろうとすると、必ず警察官が出てきて足止めをするのです。場所は国境であったり、空港であったり、時として違うのですが。それで私は自問するんです、『私はどうしてここに来てしまったの?中国でどう振る舞うべきだったの?』と」と。♦
以上