4.ファージ療法の研究は十分為されていない
移植の専門家であるサイマ・アスラムの研究室は、IPATHの事務所から見てカリフォルニア大学サンディエゴ校を越えた所にあります。彼女はおそらく米国では最もファージ療法に精通しています。これまで、10人の患者にファージ療法を施し、現在も何人かは待機中です。各地の医師が行う施術にも助言して関わっています。彼女がファージ療法に関心を持つようになったのは、移植専門医として困った状況に陥っていたからです。彼女は患者に移植手術をしていましたが、移植を受けた患者は免疫抑制剤を摂取する必要があります(そうしないと拒絶反応が起き、移植片が剥がれる)。そうすると、免疫が抑制されて患者は院内感染しやすくなります。それで、抗生物質が投与されることとなり、ますます抗生物質耐性菌の出現が促されてしまうという状況に陥っていたのです。
私がアスラムを訪ねた日、待合室には、80代前半のナポレオン・デル・フィエロという男性患者がいました。彼はフィリピン出身で米海軍で勤務後、引退するまで電気技師をしていました。彼は、妻のヴィオレタ(元看護師)と息子のディノ(小児歯科医)と一緒でした。彼がうたた寝しながら待っている時に、時折、目をうっすらと開けましたが、私はアスラムとヴィオレタとディノから彼の病状について説明を受けました。彼は、数年前、すでに10年ほど鬱血性心不全.を患っていましたが、胸骨のすぐ下に血液を体中に循環させるため人工心臓を埋め込みました。すぐに、胸骨付近でシュードモナスの感染が発生しました。骨が腐食して、膿が数か所で溜まっていました。感染は人工心臓の粘液層(バイオフィルム(生体膜)と呼ばれる)で発生していて、彼の免疫システムと抗生物質は無力でした。彼の人工心臓を換装することは、手術に耐えられる体力は無いと思われ不可能でした。そのため、感染は徐々に拡大し、細菌が血流に流れ出し、時に敗血症性ショックを起こしていました。
ヴィオレタは雑誌「ピープル」に載ったトム・パターソンの症例の記事を目にしたことがありました。ナポレオン・デル・フィエロの娘のディヴィナは、何とかして父にファージ療法を受けさせたいと考え、方々にメールを送りました。それがストラスディーに届き、アスラムにも自動転送されました。私がナポレオン・デル・フィエロに会った時、彼がファージ療法を受けてから既に4か月経っていました。開胸手術をして、膿と壊疽した組織を取り除き、ファージを人工心臓に直接接触させました。それから6週間、ファージと抗生物質が併せて静脈内に注入されました。「彼の病状は目に見えて良くなりました。大成功でした。感染は完全に除去できたように見えました。」と、アスラムは当時を振り返って言いました。しかし、アスラムが抗生物質の投与をやめるとすぐに、感染は再発しました。アスラムは、非常に失望しました。それでも、アスラムはシュードモナスに対してもっと有効性が高いと思われるファージがいくつか発見されたという情報を得たので、そのことをデル・フィエロ家の人たちに話し、さらなるファージ療法を進めるべく準備を始めました。米食品医薬品局にそれらを投与することの承認を得るための申請書類の作成に取り掛かりました。
デル・フィエロ家の人たちが去った後、アスラムは私に言ったのですが、ファージ療法をナポレオン・デル・フィエロに施すが過度に期待しないよう心がけていました。というのは、彼は83歳と高齢で、人工心臓を入れており、既に耐性菌に感染しており、すでに行ったファージ療法では菌を全て殺すことが出来なかったからです。しかし、アスラムは、可能性がある限り、最善を尽くして、彼を治したいと考えていました。
パターソンがファージ療法で治った症例は、多くの者を勇気づけ、その噂は瞬く間に広がりました。それでも、アスラムが言うには、ファージ療法は標準的な治療法となるには、まだ長い時間が必要だということでした。ファージは実験的治療に分類されているため、使用するためには米食品医薬品局の承認を得る必要がありましたし、健康保険の適用外でした。ファージ療法の有用性を示す数多くの症例があるにもかかわらず、まだ臨床試験はほとんど行われてきませんでしたので、ファージ療法は標準的な治療法になる一歩前の段階でした。アスラムは言いました、「驚くほど効果があるはずです。既に有効性を示唆する症例が沢山あります。しかし、ファージ療法を試す時に毎回逡巡します。この療法を試して良いのだろうか?他の治療法の方が良いのではないか?と迷ってしまんです。」と。
アスラムは、デル・フィエロの人工心臓の表面にファージを投与しましたが、量が十分でなかったのではないかと思うこともありました。当時は、ファージをどれくらい使うのが適量かということは分かっていませんでした。そのための研究は未だ不十分でした。また、彼女は、人工心臓の表面にファージが付いたバイオフィルム(生体膜)を置いたのも好ましい処置でなかったのではないかと考えることもありました。バイオフィルム(生体膜)は無酸素性で多糖類からできていました。一部の科学者は、糖分が豊富で酸素の供給が無い環境下ではファージの攻撃能力が失われると信じていました。また、ファージの中には、細菌にバイオフィルム(生体膜)への侵入を容易にする酵素を放出する種類が存在することもいくつかの実験で明らかになっていました。
IPATHでのストラスディーとスクーリーの目標の1つは、嚢胞性線維症の患者に対しての静脈内ファージ療法の臨床試験を他に先駆けて実施することでした。基本的な原則を確立しようと考えていました。最適な用量、最適な投与方法、どのようにしてファージが人体内で感染菌を攻撃するのか、副作用がないのか等を調べなければなりませんでした。スクーリーが最も苦心したのは、ファージを十分なだけ準備することでした。もし、それが出来ていれば、実験の開始は2年半早めることが出来たでしょう。新型コロナのパンデミックも臨床試験開始を遅らす要因となりました。スクーリーがファージの量を確保するのに窮している間、いくつかの研究室や新興企業が、アスラムやファージ療法を行っている他の医師たちに助けの手を差しのべて、ファージを提供していました。しかし、ファージがどのように機能しているかを解明するために必要な基本的な臨床試験に喜んで投資する企業や機関を見つけることは、ほぼ不可能な状況が続いていました。
サンディエゴ州立大学の微生物生態学者フォレスト・ローヴァーは、ファージ療法に関する根本的な問題を指摘しています。サンゴ礁であれ人間の体であれ、地球上の生命体にとっては、常に敵となるものも、常に味方となるもの存在しておらず、敵とか味方というのは時と場合によると指摘しています。そもそも、遺伝子を放出する能力を使って、ファージウイルスは世の中のほとんどの病原菌が生み出される際に関与しています。コレラの流行は、ファージによって引き起こされ、ファージによって抑制されているのです。ある種類のファージは、コレラ菌に病原性遺伝子を提供し、それによりコレラ菌は増殖します。この時、人間はコレラを発症します。別の種類のファージが、増殖した脆弱な病原性のコレラ菌を乗っ取り、その菌を破壊します。この時には、人間はコレラを発症しません。ローヴァーは、ファージ療法には非常に可能性を感じています。しかし、懸念も抱いています。それは、ファージ療法を使って人間の生体活動を制御しようとしすぎると、手に負えない結果になるということです。病原菌自体も厄介ですが、予期せぬ結果がもたらされることも厄介です。ローヴァーは言いました、「病原菌によって死ぬ人がいます。それは致し方ないことです。でも、ファージ療法の意図せぬ効果によって病原菌が増殖して死ぬ人がいたとしたら、大問題となるでしょう。」と。
現在でも、ファージ療法の研究は大がかりには行われていません。限られた少数の患者に対して個々に行われています。養鶏場や下水処理場や養豚場から回収した汚水から分離したファージカクテルは、患者1人1人に専用のものが作られています。それが効くこともあれば、効かないこともあります。残念ながら、ストラスディーと私がバティキートス・ラグーンで採集したファージは、ジョセフ・ブネヴァッツの感染には有用でないことが判明しました。