アメリカ 各都市で警察当局以外が実施している犯罪遮断プログラムとは?効果ある?何で警察以外がでしゃばるの?

2.キュア・バイオレンスなるプログラムでシカゴの殺人事件が激減

 疫学者のゲーリー・スラットキン(Gary Slutkin)は、1980年代後半から90年代前半にかけて7年間、世界保健機関(World Health Organization)と連携して中央・東アフリカで蔓延していたたHIVの感染拡大防止に努めました。それ以前にも、ソマリアのコレラやサンフランシスコで発生した結核と闘った経験があります。1995年にアメリカに帰国し、シカゴに住みました。両親が近くに住んでいたからです。そこで、彼は次に取り組むべきことは何かと考えたわけですが、シカゴ市民の死因の中で最も多かった要因の1つである犯罪を抑制しようと思い付いたのです。

 シカゴでは毎年約900件もの殺人事件が発生しており、スラットキンはその原因の分析や解決策をめぐる議論に納得がいかないものを感じていました。彼は言いました、「私は、関係者に何をしているのかを尋ねるところから始めました。聞いてみたところ、彼らがしていたことには科学的な根拠が無いように思えました。論理的でもないようでした。彼らの分析では、”悪い者が犯罪に手を染めた”という理論以外には何もないようでした。」と。自分なりに分析した結果、銃による犯罪は、彼がこれまで取り組んできた疫病などと同じで、伝染性があると彼は考えました。彼は私に言いました、「まさしく伝染病と呼ぶにふさわしいと思いました。というのは、負傷者(罹患者)数や死亡者数という数字で結果が測れるものでしたし、その上、伝染性があるように見えたからです。1つの事件がもう1つの事件を引き起こすという伝染性があるのが明らかでした。」と。

 スラットキンは、銃による犯罪は伝染病として扱う必要があると考えました。だから、最も感染力が強い者たちや、感染しやすい者たちに人手をかけてアプローチする必要があると考えました。彼が言うには、その際に必要となる人手は、つまり犯罪防止プログラムの協力者にふさわしい人物は、信頼性があって、対象となる人たちと接触できる者でなければなりません。シカゴでは、そういう人物を確保するとなると、銃撃事件が多発している地域でしたので、犯罪歴のある者を協力者として採用せざるを得ませんました。

 スラットキンは2000年にイリノイ大学シカゴ校に拠点を置きました。疾病管理予防センター(Centers for Disease Control and Prevention)とロバート・ウッド・ジョンソン財団(Robert Wood Johnson Foundation:アメリカの慈善団体)から資金を得ていました。彼は、市内で最も犯罪発生率が高かった地区の1つであるウエストガーフィールドパーク(West Garfield Park)に8人編成のチームを配置しました。その地域での銃撃事件の数は68%減少しました。スラットキンはその後の2年間で、さらに6つの地区に同様のチームを配置し、1年以内にそれらの地域での銃撃事件は平均で30%減少しました。

 それは、とても衝撃的な数値でした。しかし、殺人事件発生率は全米中で低下していました。シカゴ以外でも、各地で銃撃事件削減の取り組みが成功しつつあったのです。その1つが、ボストンでデビッド・ケネディ(David Kennedy)が実施していた”集中的抑止”(focussed deterrence)モデルでした。検察官(prosecutors)、警察官(police officers)、地域の著名人(respected community figures)などからなるチームが、集団で働きかけをする形の取り組みでした。そのチームが銃撃事件を起こす可能性が高いと思われる若者と面会して、社会福祉事業の恩恵を受けられるようにすると同時に銃撃事件に及んでしまえばもっと悲惨な結果をもたらすと脅したりしました。

 しかし、スラットキンの取り組みモデルの方が、銃撃事件を減少させるには効果があるという評価が優勢となり、他の都市もシカゴのように犯罪歴のある協力者を配置するようになりました。スラットキンのモデルは、最終的にはキュア・バイオレンス(Cure Violence)と呼ばれるようになりました。多くの都市がキュア・バイオレンスのプログラムを学んで参考にしました。しかしながら、多くの都市が、重大な犯罪歴のある人物を直接雇うことには慎重にならざるを得ませんでした。そのため、犯罪遮断プログラムの運営は、非営利団体が行うことが少なくありませんでした。市が直接運営するよりは柔軟な活動ができるようでした。

 ボルチモアがセーフ・ストリート(Safe Streets)というプログラムを立ち上げた2007年には、ボルチモアの殺人事件発生率は全米でもトップクラスでした。東ボルチモア出身で30代前半の人気者であったダンテ・バークスデール(Dante Barksdale)は、このプログラムに立ち上げ時から関与して、ずっと牽引してきました。彼はこのプログラムについて語りました、「私はすべてが嫌だったんです。誰かに監禁されるのも、警察官に逮捕されるのも、常に警戒していなければならないことにも。何もかもうんざりでした。とにかく定職に就きたかったんです。何か自分が役に立てれば良いなと考えていました。私は街ではちょっとした顔役でしたから、セーフ・ストリートのミッションにうってつけだと思いました。役に立てるだろうと思いました。」と。

 セーフ・ストリート・プログラムでは、最初の協力者チームはボルチモア市の東の方のマックエルダリー・パーク(McElderry Park)に配置されました。バークスデイルは、テイター(Tater)の愛称で皆に親しまれていました。彼は、その後の数年間で、さらに3つの地域にそのプログラムを拡大しました。いずれにおいてもプログラムは成果を挙げました。その結果、ボルチモアでは数十年ぶりに殺人事件の件数が激減し始めたのです。彼はシカゴのキュア・バイオレンスのスタッフとともに、全米中を飛び回って、同様のプログラムをしようとする団体を支援しました。トレーニングセッションを行ったりしました。キュア・バイオレンスのトレーニング責任者であるコビー・ウィリアムズ(Cobe Williams)は、バークスデールと一緒にシカゴの低所得者が住むエリアを車でしばしば回りました。ウィリアムズは良く口にしていました、「あいつは俺の仲間だ。銃撃事件を防ぐことしか頭にないんだよ。」と。