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6年前、作家のジョン・グリーン(John Green)は、インディアナ州にある実家の土地で、家の近くの森までまっすぐに続く小道を整備した。スイカズラとツタを掘り起こし、ウッドチップを敷き、レンガを並べた。一週間後、彼は平衡感覚を失った。「世界は転がり、回転し始めた。」と、彼はエッセイに書いている。「私は突然、大海原に浮かぶとても小さなボートになった」。彼は迷路炎(labyrinthitis)と診断された。回復に6週間を要した。
グリーンが作成した動画によると、めまいは彼が人生を見直すきっかけになったという。彼はお金のことだけを考えて各種プロジェクトを進めるのをやめ、自分が情熱を注げることに集中することにした。「迷路炎になって分かったことがある。」と、グリーンは書いている。「私は1カ月かけて真っ直ぐな小道を整備した。しかし、分かったのは、人生は決して単純な道ではないということだ。めくるめく迷路が何重にも折り重なっているんだ」。
人生が真っ直ぐな道ではないという比喩には、私も同意する。めまいが始まった時、私のマンションの部屋には青と白のみで描かれた正方形の迷宮のポスターが飾られていた。ウツァフ・ヴェルマ(Utsav Verma)というグラフィックデザイナーが描いたものである。キャプション(説明文)があり、迷宮(labyrinth)は一本の連続した道をたどるが、迷路(maze)は多くの分かれ道や行き止まりを含むという違いが説明されていた。救急治療室で医師に迷路炎(labyrinthitis)と診断された時、私の脳裏には、ヴェルマのポスターのキャプションが思い浮かんだ。
人生は迷路の連続だということを受け入れるしかない。少しは気が楽になる。めまいの発作で前後不覚になりそうな時でさえ、私はゆっくりと何かに向かって進んでいるのだと自分に言い聞かせた。グリーンのように、私は自分にとって何が大切なのかということを考えるようにした。それで、仕事を辞め、新しいマンションに引っ越し、仕事と私生活のバランスを見直そうとした。ニューヨークにあるいくつかのラビリンス(迷宮)に行った。また、ボランティアをしているコミュニティ・ガーデンにレンガでラビリンス(迷宮)を作った。
7月には、私はフランスのシャルトルのノートルダム大聖堂(the Notre-Dame de Chartres)にある有名な12世紀に作られた迷宮を訪れた。1時間近く観光客に混じって歩いた。彼らは立ち止まって祈ることに興味を持っているようだったが、曲がりくねった道を歩くこと自体には興味が無いようだった。群衆にもみくちゃにされ、流れに身を任せた。人生は迷路のようなものだと思おうとしたが、全く楽しめなかった。私は悟りを開く境地にはほど遠いことをことを実感した。ここにいても無駄だと感じた。それで直ぐにそこから去った。
ニューヨークに戻って、友人と朝食を食べに行く途中、地下鉄の駅の中を歩いていた。スマホをチェックすると、ツヴェルガルからメールが届いていた。私は階段を2段ずつ上りながら、彼のメッセージを見てみた。1 年前の私は、階段を2段ずつ上るなんてできなかった。怖くて。ツヴェルガルによれば、採取した私の涙には、異常に高いレベルのCGRPが含まれていたという。私は階段の途中で立ち止まり、その事実を知って、自分の目に涙が浮かんでいることに気づいた。
めまいがしばらく続くと、いつそれが無くなったか分からないことがある。めまいが少し落ち着いて日常生活で支障が無くなってくると、私はめまいについて自問することがある。めまいがまだ残っているか否かとか、めまいが無い状態ってどんな感じだったかを考える。最近では、私がめまいを感じる際には、症状そのものよりも、何が原因かを探ることに焦点を当てるようになった。どこかバランスが崩れているわけで、それが何かを知ることが重要だと考えるようになった。めまいがしないということは、全てのバランスが取れていると感じられるわけで、すべてが適切に機能している必要がある。めまいがして世界が回転していると感じられるとしたら、必ず何か原因があるはずである。私がめまいの症状を医者に説明する際には、その原因を説明するのにいつも苦労した。なかなか描写するのが難しいのだ。
私の涙に高濃度のCGRPが含まれていることが判明したが、私の人生を変えるようなものではない。潜在的な治療法が分かるのは、まだ先のことである。それでも、ツヴェルガルのメールは、私がめまいに苦しんでいることを示す初めての物的証拠を与えてくれた。私は片頭痛に効くサプリメントを飲み始めた。徐々ではあるが体調が良くなっている。
先日、早起きした。ジョギングに行こうか迷った。昨年の夏以降、私は走ることを避けてきた。めまいが始まった日もジョギングした記憶があるのだが、ジョギングとめまいが密接に結びついている気がしていたのだ。靴紐を締め、外に出た。恐る恐るではあるが、ゆっくり走り出した。何か悪い兆候がないか心配だったが、地面は安定していてめまいを感じることはなかった。いつものルートをジョギングし、水辺の公園で息を整えた。川を眺めると、水面に陽光が揺らめいていた。川面が揺れても、身体が揺れる感じはしなかった。私は川岸に背を向け、家に帰るために走った。♦
以上