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私は、ある日の午後遅くにキガリ出身で上海で学んだ建築家であるクリスチャン・ベニマナ(Christian Benimana)と会う約束をしていました。彼はACESのキャンパスの設計に協力していました。この1週間、私は車やトラックに乗りっぱなしだったので、彼の事務所まで歩くことにしました。キガリ市内を1時間半かけて歩きました。ルワンダでは、ジェノサイド以降、人口が急増しています。1994年に30万人弱だった人口が今では120万人を超えています。ですが、街は驚くほど静かで、途上国のどこの都市の街角でも見られるような喧騒は無く、活気が感じられませんでした。市内は坂が多いため、貧しい人以外は短距離でもバイクタクシーで移動していました。バイクタクシーはどこに行ってもありました。ベニマナの事務所までの道中で、歩いていたのは私一人だけでした。
賑わいのない街並みは、最初は退屈に思えたのですが、次第にそれ自体が魅力的に見えてくるようになりました。歩道はピカピカでした。ここでは、2008年から商店でのビニールのレジ袋の使用が禁止されています。視認性の高いベストを着た女性が花壇や中央分離帯の草取りをしていて、完璧に手入れされていました。ホームレスは1人も見かけませんでした。聞くところによると、ホームレスは、ルワンダ政府が設置した短期リハビリテーション・センターに移動させられているそうです。もっとも、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch:アメリカ合衆国に基盤を持つ国際的な人権NGO)はその施設を刑務所と呼んで非難しています。無味なガラス張りのオフィスビルと小奇麗な平屋の家屋が広がっている中に、広大なオープンスペースが広がっていました。巨大なユリノキからはトキの群れの鳴き声が聞こえました。濁った川の縁ではアフリカヘラサギが赤紫の脚で歩いていました。猛禽類が上昇気流に乗って私の頭上を旋回していました。しかし、匂いだけはいただけませんでした。ディーゼル車の吐き出す排気ガスが原因です。また、どこの交差点でも自転車やバイクタクシーに乗り合わせた人たちの熱気と体臭が混ざったような匂いを感じました。そのことは、私が貧しい国に来ていることを思い出させました。
ベニマナは、控えめだが統率力のある 40 歳の男性です。彼が私に言ったのですが、2007 年にルワンダ政府は、キガリを「アフリカ大陸全体の安定と発展のための重要な中心地」に変えるための基本計画を発表したそうです。それは、非常に先見の明のあるものでしたが、重大な欠陥があることがすぐに明らかになり、批判的な世論が優勢となりました。しかし、ルワンダ政府は、計画を無理やり押し通すのでもなく、放棄するのでもなく、批判を踏まえて計画の大幅な見直しを行いました。その後も計画の見直しを随時行って、取組みを継続して大きな成功を収めました。ベニバナが私に言ったのですが、計画にも多少の欠点はあったそうです。彼は、個性に欠ける施設が多いことが欠点かもしれないと言っていました。街の中心には巨大なロータリーがあり、いくつもホテルやショッピングモールがあり、工業団地にはどこも同じような箱型の建物が並んでいます。それは欠点かもしれませんが、計画は非常に上手くいっていると言えるのではないでしょうか。キガリの面積の4分の1を湿地が占めています。湿地は、現在では野生生物の保護生息地になっています。ロンドンやロサンゼルスでは都市化の進行に伴い、河川の水質が下水レベルに悪化しましたが、ここではそんなことは全く起きていないのです。
ベニマナは言いました、「大虐殺の後、ルワンダは国を一から作り直さなければならない状況でした。早々に決定が為されたのですが、非常に高い目標が掲げられました。その背景には、私たちが抱えていた構造的、社会的問題を解決するという意気込みがあったのです。また、人々が学ぶことができる国にしようという意気込みもあったのです。」と。ベニマナは、ACESに関わって何でも試して改革を続けたいと考えています。それは、ルワンダが国としてしようとしていることと全く同じです。彼は私に言いました、「私たちは、想像を超えるような夢を描くことができ、それを実現することもできるのです。いや、できなくても、チャレンジし続けます。」と。♦
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