真相は解明された。しかし、人々が欲していたのは「真実」では無かった。
クリアコフは記者会見の最後に、9人が死因は完全に解明されたので、「形の上ではこれで終了。一件落着だ」と宣言しました。しかし、ロシアではこの事件は非常に興味を持たれていましたので、静かな幕引きとはなりませんでした。多くの人が、9人の死が純粋に自然現象によるものだという点に異議を唱えました。9人を殺害した者を特定して、ソ連時代の暗部をあぶりだすべきだと考える人が沢山いました。クリアコフの公表した調査結果は、案の定、ほとんど誰からも支持されませんでした。特に遺族たちは全く納得していませんでした。ディアトロフ登山グループ記念財団は検察総長に書簡を送りました。その中で、9人の死は、秘密兵器の実験が失敗して強力な有毒物質が大気放出されたことによるものだと訴えました。長年この件を取材し続けているモスクワのジャーナリスト、ナタリア・バルセゴワも、クリヤコフの調査結果には懐疑的でした。彼女は私にeメールを送ってきました。そこには、「2年前、アンドレイ・クリヤコフが再調査を開始した頃には、本当に真剣に真相を突き止めようとしているのが分かりました。しかし、今になって思うと、そうではなかったようです。私は雪崩が原因とする結論には全く同意できません。」と記されていました。先述のスイス人2人が雪崩説を補強する論文を発表した際にも、彼女はそれに反論する記事を書いていました。その記事には、記されていました、「2人のスイス人が導き出した結論は机上の空論です。2人はコンピューターモデリングや様々な理論を動員して雪崩が発生したと推論しました。しかし、テントが張られていた斜面付近で過去に雪崩が起きたことなど一度もないのです。実際、付近に住むマンシ族、そこを訪れた多くの観光客、スノーモービルのツアーを開催している人、誰に聞いてもその辺りで雪崩が発生したという結論には納得していませんでした」。
クリヤコフは記者会見をした1か月後、許可なく会見を行ったとしたとしてけん責処分を受け、10月に再調査チームの責任者を外されました(地方検察局は、彼は自ら辞任を申し出たのであって、勝手に会見をしたことで解職されたわけでは無いと主張していました)。今年初め、彼はスヴェルドロフスク地区の天然資源管理局の副局長に任命されました。その地区は木材生産が盛んです。クンツェビッチ(例の財団の理事長)は、それを見て、「クリヤコフは左遷されて、木こりをしているよ。」と私に言いました。一方、検事総長はこの件に関して一切の取材を拒否していて、検察からは公式の発表は一切為されていません。クンツェビッチは、公式な発表が為されることは無いだろうと確信しています。遺族に対してさえも、何も知らされることは無いだろうと確信しています。財団は、今でも更なる調査が行われるよう要求しています。クリヤコフの調査結果は決して出鱈目なものではありませんでしたし、科学的な見地から見ても筋が通ったものであるにもかかわらず、猜疑心と不信感が渦巻く中では受け入れられず、その後、日の目を見ないままとなりました。
クリアコフの推論で最も魅力的な点は、ディアトロフたちの取った行動は極めて理性的なものであったと推論しているところです。グリーンによれば、おそらく最初に風成雪板が割れて規模は大きくないものの表層雪崩がテントを襲ったのでしょう。その際にはゴロゴロと音がして、9人は大規模雪崩が差し迫っていると察したのですが、それは当然のことです。それ以降に彼らが取った行動は非常に理性的なものでした(彼らのミスは1つだけでした。テントを張った位置です)。教科書通りの対応で、彼らは雪崩の危険性が低い地点に緊急退避した後、より安全な森に逃れ、火を起こし、寒さを凌ぐべく雪に穴を掘って潜んだのです。万が一、彼らが冬山登山の経験が浅かったら、彼らは退避せずにテントの近くに留まってブーツ等を掘り起こしすことが出来て、結果的に生き残れたかもしれません。しかし、冬山登山で最大の脅威は雪崩なのですから、経験値の高い者ならば、雪崩から逃れようとするのは当然のことです。9人は経験値が高く、理性的に行動したがゆえに、不幸な結末を迎えてしまったのです。
1958年の終わり頃、出発する直前の頃でしたが、クリヴォニシチェンコはディアトロフに手紙を送りました。旅程や食料の準備などについて確認するための手紙でしたが、メンバー全員に向けた新年を祝う詩も同封していました。次のようなものでした。
新年おめでとう。
はるか遠くの山を目指し
過酷な自然の中を征く
背中の荷物も軽やかに
天候も良く、我らの探求を後押ししている
偉大なロシアの大地に足跡を残そう!
大自然を満喫しよう!
今日、ディアトロフ峠はハイカーや観光客にとって人気のスポットとなっています。何百人もの人々が「高度1079」地点を訪れ、ディアトロフたちが通ったルートを徒歩やスノーモービルやクロスカントリースキーでたどりました。世界中から人々がやって来て、テントが張られていた場所、遺体が見つかった川床、ヒマラヤスギの高木などを見ていきます。また、真相を究明するためにこの地を訪れる人たちもいて、まざまな詮索を行ったり、測量を行ったり、写真や動画を撮影していきます。死の山の吹きさらしの斜面は、巡礼地のように訪れる人が絶えません。ディアトロフら9人が亡くなってから長い年月が経過しました。彼らは間違いなくロシアの大地に沢山の足跡を残しました。♦
以上