2.
数年前、ナノ分子科学者のJ・ストーズ・ホール( J. Storrs Hall )は「空飛ぶクルマはどこにあるのか」という声明文を発表した。こうした声明文には象徴的な意味合いの強いものが多いのだが、これはテクノロジーの側面から見ても参考となる記述が多く内容の濃いものである。ストーズ・ホールの物語は、空想上の未来の空飛ぶクルマではなく、歴史に記録が残る空飛ぶクルマから始まる。1920 年代にフアン・デ・ラ・シエルバ( Juan de la Cierva )というスペインの天才航空技術者が、オートジャイロ( autogyro )という安価なヘリコプターの先駆けとなるものを発明した。この乗り物はよく地上に落下したのだが、しばしば乗員が死なないこともあった。不運なことに、彼自身は飛行機事故で亡くなっている(オートジャイロが墜落したわけではなく、普通に旅客として搭乗した旅客機が墜落した)。1930 年代、ウォルド・ウォーターマン( Waldo Waterman )がエアロバイル( Aerobiles )と呼ばれる取り外し可能な翼と公道走行可能な胴体を備えた車を数台販売した。これらの機体は扱いにくいものだったかもしれないが、特にパイロット訓練を受けて戦争から帰還した退役軍人がたくさんいた時代には、空飛ぶクルマというコンセプトが実現する日は遠くないように思えた。航空機メーカーのセスナ( Cessna )社はガレージに格納できる実用的な小型飛行機「ファミリーカー・オブ・ジ・エア( Family Car of the Air )」の雑誌広告を掲載し、次のようなコピーを添えた。「誰もが知っているとおり、ミセス・アメリカはいろいろなところへ出かけていろいろなものを見るのが大好きである。彼女は午前中だけで 600 マイルを悠々と移動できて 12 の都市を回って買い物や散策ができたら良いのにと考えている。飛んで行きたい彼女にピッタリのものがある」。
1950 年代半ばには、未来のセダン車には翼が付くに違いないと思われていた。高さ 1 マイル( 1.6 キロ)の塔が無數に建ち並ぶようになったら、どうやって移動するのか?1962 年に初放映されたTVアニメ「 The Jetsons(邦題:宇宙家族ジェットソンズ)」のオープニング部分では、地上は一度も描かれていない。主人公のジョージ( George )が妻と子供たちをドーム型の飛行船に乗せ、1 人づつ目的の空中に浮遊しているプラットフォームで降ろした後、スペースリー・スペース・スプロケット社( Spacely Space Sprockets, Inc )のオフィスに向かう。ストーズ・ホールの推定によれば、ジョージが所有しているのは 1,341 馬力の乗り物で、1,000 ポンド( 454 キロ)のジェット燃料を消費するという。このようなイメージの一部は、アメリカ経済が絶好調であった 20 世紀中頃に支配的となった楽観主義によって生み出されたものだが、実際にはそれほど突飛なものでもなかった。実際、その時代が予測したものの多くは実現した。携帯ラジオ( portable radios )、ハンカチサイズの画面のテレビ( televisions with screens the size of a pocket handkerchief )、エアコン( air-conditioning )、プラスチック( plastic )などである。宇宙家族ジェットソンズでは、ルンバ( Roomba )のような代物も描かれていた。空飛ぶクルマも既に作られていた。エアロカー( the Aerocar )は車に主翼 2 枚と尾翼 1 枚が付いていた。それらは折りたたんで、車後部に繋げて牽引して運ぶことができた。コンブエアカー( the ConvAirCar )は、車を鷲掴みにするアタッチメントが付いた飛行機だった。空港まで車で行って、そこでこれをレンタルで借りて飛び立つというコンセプトである。しかし、当時から現在まで空飛ぶクルマは工学的な観点で見ると広く普及できるレベルではなかった。そもそも車というものは路面から浮いたら推進力を失ってしまう。路面を常に掴んでいなければ進まない。車に付いているスポイラーの役割は、翼とは正反対である。ほとんどの空飛ぶクルマのデザインは、お粗末な自動車と陳腐な飛行機を無理矢理引っ付けたようなものだった。コンブエアカーのパイロットはテスト飛行時にガス欠で墜落した。間抜けなことに、飛行機の燃料計ではなく車のを見ていたためガス欠に気づかなかったのである。幸いにも彼は軽傷で済んだが、プロジェクト自体は頓挫してしまった。陸軍はエアジープ( the AirGeep )の研究開発を続けた。滑走路を必要としない小型機であった。しかし、1970 年代には空飛ぶクルマの夢はしぼんでしまった。ほとんどのプロジェクトは消滅した。
スターズ・ホールにとって、これは必然ではなかった。彼は、いわゆるテクノロジーの停滞について、いくつかの絡み合った理由を挙げている。彼が指摘しているのだが、根本的な原因は、社会全体がプロメテウス的な野望を失ってしまったことにある。空飛ぶクルマはアメリカを席巻した「テクノロジーに対する敵意と疑念の波」の犠牲になったのである。1973 年、連邦航空局( FAA )は騒音問題を理由にコンコルドのアメリカ上空での飛行を禁止した。より静かな超音速旅客機の開発を妨げたのは、この禁止令そのものであったとスターズ・ホールは指摘する。また彼は、1970 年代までは化石燃料の後継者と思われていた原子力発電が衰退したのも、同じような力学が働いたと見ている。1979年のスリーマイル島( Tree Mile Island )での炉心溶融事故を受けて、死者は 1 人も出ていないにもかかわらず、アメリカでは原子力発電所の新設はほとんど不可能になった。今となっては、これは誤った政策だったように思える。
種々の規制によって技術革新が妨げられていると主張する者は少なくない。彼らが主張しているのは、空飛ぶクルマは社会が進歩のリスクを許容すればとっくに実現していたということである。空飛ぶクルマ推進派がしばしば口にするのだが、アメリカ人は年間約 4 万人の交通事故死を許容しているのに、航空機事故による死亡は 1 人たりとも容認しない。ストーズ・ホールは連邦航空局( FAA ) について語った、「航空局は『空飛ぶクルマを開発したいなら、砂漠で好きなだけ実験すれば良い』と言うべきである。アマゾンがドローン配送の実験をしようとしたが、カナダでしなければならなかったことは記憶に新しい」と。1960 年代にニューヨークのパンナム・ビルの屋上にヘリポートが建設された。しばらく使われていなかったが、1977 年に再び使われるようになり、近隣の空港に毎日 64 便もの定期便が運行されていた。その年の 5 月、着陸装置の故障が発生した。回転するローターブレード(回転翼)によって 4 人が死亡し、下の道路を歩いていた者 1 名が落下したパーツの直撃を受けて死亡した。そのヘリポートは永久に閉鎖されることとなった。
この話は、空飛ぶクルマが実現しない理由の説明として真実であるものの、不完全でもある。当時は航空機を取り巻く環境が大きく変わり始めた頃であった。1980 年代までに小型の自家用機を飛ばすコストは非常に高くなってしまった。それに伴って小型飛行機の開発は実用的なものから趣味的なものへと変化した。同時期に、航空運賃が大幅に引き下げられただけでなく、命を落とす可能性も格段に低くなった。50 年前には航空機はしょっちゅう墜落していた。最も最近の国内民間ジェット旅客機の死亡事故は 2009 年まで遡る。航空機産業は奇跡を起こしたと言っても過言ではない。墜落事故がしばしば発生してもパニックに陥って技術革新の手を緩めなかった。決して撤退しなかったのである。パニックに陥っても技術革新を続けたのである。しかし、何十年もの間、安全で使いやすい上にコスト効率の良い 1 人用航空機を作るために必要なテクノロジーの進歩は無かった。安全性への懸念が技術革新を止めてしまった。「航空機に対しては、誰もが生理的な反応をしてしまうものなのです。」と、パイロットであり先進的な小型航空機開発企業への投資家でもあるサイラス・シガリ( Cyrus Sigari )は語った。「人間の身体は空を飛ぶことは普通のことではないと認識している。だから、飛行機事故が発生すると、誰もが心の中で深い疑念を抱くのである。それは、『空を飛ぶのは危険だと警告していただろう。なのに、無視して飛ぶから墜落したんだよ』というものである」。
そして 15 年ほど前、多くの人々が同時に、空飛ぶクルマの実用化に必要ないくつかの関連技術が既に生み出されていることに気付いた。2010 年、グーグルの共同創業者であるラリー・ペイジ( Larry Page )は、ドイツ人エンジニアのセバスチャン・スラン( Sebastian Thrun )を夕食に招いた。スランは、グーグルの機密施設にて次世代技術の開発を担うプロジェクトであるグーグル X の創設者で、自律走行車の世界的な権威の一人であった。ペイジは様々な計算式を作成しそれをスランに示した。スランはそれを見て「イーロン( Elon )がテスラ社の見通しの正しさを説明するのに使ったものに似ている」と評した。バッテリーはより良く、より軽くなり、電力駆動システムは劇的に強力になった。最新センサーは自律走行能力を向上させた。ペイジの計算は、空中に出てそこにとどまるための新たな実行可能な方法があることを示していた。「すべての条件が同じであれば、自律運転車よりも自律型空飛ぶクルマのほうが難易度が低い部分も多いため、自律運転車の開発を中止すべきかもしれないとさえ考えた。」とスランは言う。2 人は、グーグルが両方のプロジェクトを同時に継続するのはチャレンジング過ぎると判断した。自律運転車はこれまで通り研究開発を進めることになった。空飛ぶクルマの開発はどうなったか? ペイジは、「切り離して、僕がやるよ!」と言った。
その後数年間、ペイジはジーエアロ( Zee.Aero )社やスランが経営するキティホーク( Kittyhawk )社を含む複数の企業に密かに資金を提供した。一種の分散型研究開発体制として機能させた。彼の最初のアイデアは、駐車スペースから離着陸できる自動運転飛行機を作るというものであった。彼は社用ジェット機を何機も所有していたが、いつも空港までの移動が煩わしいと感じていたようである。最初の 5 年間で、彼は 1 億ドル以上の自己資金を 1 つの企業だけにつぎ込んだ。当初、ペイジは、研究開発に使っている格納施設の上のマンションを借りていたが、名前を呼ばれることはなかった。上の階に住む男( the guy upstairs )という意味でガス( Gus )と呼ばれていた。バッテリーの調達に苦労した研究チームがあった際には、すぐさまペイジは 10 台のオートバイを買い取って解体し燃料電池を取り出した。あるエンジニアが風洞設備を確保できなかった際には、南カリフォルニア行きの貨物列車にプロトタイプを載せて運んだ。コンテナではなくむき出しの貨車だったので、非常に注目を浴びた。ある時、1 つの研究チームがレッドブル・フルーグタグ( Red Bull Flugtag:桟橋から飛び降りて滑空距離を競うコンテスト)に出場するために全力を尽くした。結果、同チームは機体設計の際の翼に関する知見を活かして新記録を樹立した。それは未だに破られていない。2014 年までに、そのチームのコンセプト実証機は 200 回以上のテスト飛行を成功させた。その噂が広まり、航空機マニアたちが格納施設の周辺をコソコソと歩き回り、ペイジが開発する得体の知れない機体を盗み見しようと試みていた。
やがて、この成功がこの業界全体を発展させるきっかけとなった。エアバス( Airbus )社はイーヴィートル( eVTOL )の試作機の開発に 4 年を費やした。ドイツのある企業は、莫大な資金を集めたが、開発中の気体は機能しないことが判明しつつある。ストーズ・ホールは、空飛ぶクルマの開発が突然盛んになったのは、ドローン技術が進化して普及しつつあることと、テクノロジーに対する楽観的なムードが高まったためだと分析する。「 時代精神( Zeitgeist )の流れが少し変わりつつある。『なぜ人類は再び月着陸を目指さないのか? 』と言う者が増えている。」と彼は言う。ペイジはあちこちで資金を投じている。レングの処女航海から 3 年後、ピボタル社はペイジから資金を得てシリコンバレーに移転した。2022 年にはケン・カークリン( Ken Karklin )という著名なドローン研究者を招聘し CEO に就任させた。就任時にカークリンが私に言ったことによれば、雑誌「 Wired(ワイアード)」の元編集者で後にキティホーク社の CTO となったクリス・アンダーソン( Chris Anderson )から電話があり、「ラリー・ペイジの格納庫へようこそ」と言われたのだという。