人工心臓開発の初期 膨らむ期待、小さな成果
移植できるような人工心臓が出来る前は、心臓にメスを入れることはタブーでした。19世紀の外科医にとって心臓は触れることが出来ないものでした。20世紀前半、麻酔が使われるようになって外科医はより勇敢な行動がとれるようになり、心臓がまだ拍動しているのに大動脈と心臓弁を修復するようになりました。患者を低体温レベルまで冷やし、心臓が停止している間に、すばやく心臓の手術しようとしていました。1950年代になって初めて、人工心肺が開発されたことにより、開心術は普通に行われるようになりました。血液を体外に出して人工心肺へ送り、心臓と肺を迂回することによって、外科医は心臓が停止し血流の無い状態で手術できるようになりました。心臓は他の筋肉と同様に扱われるようになったのです。
初期の人工心肺は机ほどの大きさで、短い時間しか安全に使用できませんでした。それでも、それは人工心臓を開発することの実現可能性を示すものでした。人工心臓の開発に期待が集まっていたのは、他の理由もありました。それは、1960、70年代に心臓病を患う人が非常に増えていたということです。20世紀半ばまでに、米国人の死因の40%は心臓病になっていました。その数値は、米政府にとっても重大な懸念事項でした。1948年、米下院で全国心臓法(the National Heart Act)が可決されました。それによって、循環器系疾患の研究のための連邦政府の支出が大きく増えました。
当時、米国では、アポロ計画が進行中でした。アポロ計画は国の威信をかけて遠い月を目指すものでしたが、人工心臓開発も同じくらい重要視されていました。1964年、米国立衛生研究所は人工心臓開発計画を制定しました。数百億ドルが投じられ、10年以内に移植可能な人工心臓を開発することが目的でした。NASAのアポロ計画と同様ですが、助成金が方々にばら撒かれ、有望な研究と判明すればすぐに契約するなどしたので、多くの研究者が人工心臓の開発でしのぎを削りました。心弁やポンプや駆動電源などの研究が行われました。中には原子力で駆動する人工心臓の開発を目指す研究チームもいくつかありましたが、実用化には成功しませんでした。タイム誌やライフ誌が人工心臓開発について特集したこともありました。しかし、医学史家シェリー・マッケラーが指摘しているのですが、当時は人工心臓開発に対する期待は異常なほどに高まっていましたが、そうした期待は当時の医療技術水準を全く考慮していないものでした。
すぐに人工心臓開発の真の難しさが明らかになりました。ブルックリンのマイモニデス病院では、ペースメーカーと人工心肺の開発にも携わった外科医エイドリアン・カントロウィッツが人工心臓のポンプの設計に取り組み始めました。彼は巧妙と思える方法を考案しました。心臓を人工心臓に交換する代わりに、心臓のすぐ外側にポンプを付けるという方法でした。それで、心臓の機能不全を補い、心臓が治癒する時間を稼ぎます。カントロウィッツはその試作品を作って犬で実験し、1966年までにはそれを人間の患者に付ける準備ができていました。しかし、それを付けた最初の患者は、大量出血後に死亡しました。2番目の患者は(2回の心臓発作歴がある63歳の寝たきりの糖尿病の女性)12日間生存しましたが、脳卒中を起こした後に死亡しました。
カントロウィッツはポンプを取り出して分解してみました。血餅が出来ていました。血液凝固が見られました。過度の圧がかかると、血液損傷が起こりやすくなるのです(ポンプ内回流時の圧力やポンプに吸引される際の陰圧によって血液が凝固する)。それらが血管の細い部分を通過する際に、表面に溜まって固まります。カントロウィッツのポンプは、汲み上げた血液を損傷させ、凝固させていたのです。そうして、重大な結果を引き起こしていました。
一方、ヒューストンのベイラー医科大学では、当時世界最高の心臓外科医との名声を得ていた2人、マイケル・ドベイキーとデントン・クーリーが、さまざまな困難を克服しようと取り組んでいました。2人は共同して驚異的なペースで膨大な数の心臓手術を行っていました。その後、2人は袂を分かつこととなりました。クーリーは1960年にドベイキーの診療所から去りました。後々、テキサス心臓研究所(ドベイキーの診療所の道を隔ててすぐの所に)を設立することになります。一方、ドベイキーは、心臓外科の先駆者の1人のアルゼンチン人のドミンゴ・リオッタを人工心臓の研究をするために招聘しました。1969年からリオッタは人工心臓の試作品を何頭かの子牛に移植しました。その結果は悲惨でした。7匹のの内、4匹は手術後すぐに死亡しました。ドベイキーは、まだ人間に移植する段階にはないと判断しました。しかし、クーリーは仕事を進めたくてウズウズしていました。というのは、彼は移植可能な心臓が供されるのを待っている患者を沢山抱えていたからです。病院だけでなく近くのモーテルにもそうした患者を抱えていたのです。ドベイキーに断りもなく、クーリーはテキサス心臓研究所にリオッタを招いて雇い入れました。リオッタが使った人工心臓の試作品を利用したいという魂胆がありました。
クーリーはそうした患者の中から人工心臓を試すべき候補者を探してました。イリノイ州スコーキー出身の47歳ハスケル・カープが頭に浮かんだこともありました。カープは心臓病で13回入院し、日常的に息を切らしていて、顔を洗うのも一苦労でした。クーリーはカープの心臓を何とか外科的手術で修復出来ないか検討していました。それで、外科的手術を試みることにしました。しかし、その手術をする前に、カープとその妻から同意を得ていました。それは、外科的手術で修復できない場合には、クーリーによってリオッタの人工心臓の試作品を移植するというものでした。それで一時しのぎをして、心臓の提供者が現れて心臓移植出来るようになるのを待つという考えでした。カープは車いすで手術室に運ばれ、その時点で、すでに真っ青で、脂汗をかいて、呼吸も大変そうで、血圧も通常の半分くらいまで下がっていました。手術の途中で、外科的手術では修復不可能であることが明白になりました。
外科的手術を中止して、クーリーは、カープに空圧式の人工心臓を移植しました。それはホースで冷蔵庫ほどの大きさの制御装置に接続されていました。その人口心臓の心室は弾力性のあるプラスチックでできており、伸縮性のあるポリエステルの裏地が付いていました。その心室と裏地の間に空気が送り込まれると、心室が収縮する形になることで、人工心臓のはポンプの機能を果たします。カープは、その装置によって、移植用の心臓(40歳の3児の母親であるバーバラ・エワンの心臓)が提供されて移植されるまで、生存することが出来ました。64時間でした。しかしながら、カープはその32時間後に亡くなりました。死因は肺炎と腎不全でした。カープの心臓病はかなり進んでいたことが、リスクの高い人工心臓の移植を真っ先に受けることになった理由でした。クーリーはカープへの移植は成功だったと見なしていました。しかし、ドベイキーは激怒していました。なぜなら、自分の人工心臓をクーリーが盗んだと見なしていたからです。また、ドベイキーはクーリーの行動は倫理的に問題があったのではないかと疑っていました。一連の調査が為され、クーリーはアメリカ外科医師会によって非難されました。調査をした者たちの間では、クーリーの手術が売名行為的で無謀であったという者もいましたが、そうではないという者もいました。いずれにせよ、新たな問題が提起されました。それは、人工心臓の移植を検討しなければならない人がたくさんいて、彼らは酷い病状ににあるにも関わらず何の治療も受けられないということでした。
オランダ生まれの内科医ウィレム・コルフは、1940年代に血液透析を発明したことで有名ですが、悪戦苦闘していました。彼は、心臓移植までの一時しのぎではなく、永続的に使用できるような人工心臓を開発することを目指していました。ユタ大学のコルフの研究室では、クリフォード・クワン=ゲットという医師兼エンジニアが、血液損傷を起こさないような人工心室を開発しました。また、その研究室に天才ロバート・ジャービック(専門は医療機器開発)が加わり(未だ医学生でしたが)、設計と製造工程を大胆に見直して、人工心臓を小型化し管内で血液が凝固しにくくしました。ジャービックがその研究室に加わったのは1971年でしたが、当時その研究室の人工心臓が子牛の生命を維持出来たのはたったの10日でした。しかし、着実な進歩を続け、それから10年も経たない内に、子牛(アルフレッド・ロード・テニソンと名付けられていた)を人工心臓で268日生存させることに成功しました。その人工心臓は、ジャービック5という名前でした。
その人口心臓の改良版であるジャービック7を、1982年12月に心臓外科医ウィリアム・デフリースが61歳の歯科医バーニー・クラークに移植しました。クラークの心臓は通常の6分の1しか機能していませんでした。彼は非常に体調が悪かったので、人工心臓を移植された羊や子牛を見て、「あいつらの方が、私よりもずっと具合が良さそうですね。」と言いました。その移植手術は国際的な注目を集めました。注目を集めた理由は、関係者の個性が際立っていたことも一因でした。デフリースは貴族のようで上流階級のたしなみを身につけていて、ジャービックは若くてハンサムでしたし、クラークは特殊な才能が無いながらも苦労して身を成した善人でした(第二次世界大戦で空戦任務を遂行した)。各テレビ局が、7時間半に及ぶ手術についてニュースで報道しました。手術後も大学のカフェテリアで記者会見が毎日行われ、多くのテレビ局が来ていました。
クラークは手術後112日間生存しました。彼はチューブで400ポンドの装置類と繋がれていました。彼の体調は一進一退で悪化と回復を繰り返しました。気分も滅入ったり良くなったりでした。彼は短い時間であれば立つことが出来ましたし、エアロバイクを漕ぐことも出来ました。しかし、ベッドで寝ていることがほとんどで、呼吸するのも辛そうで、人工呼吸器をつけて空気を吸い込んでいました。人工心臓の弁の1つをもう一度手術して交換する必要がありました。彼は鼻血、発作、腎不全、肺炎に苦しんでいました。彼は、敗血症と臓器不全で亡くなりましたが、ポツポツと人工心臓が音をたてる中、いまわの際に言いました、「実験台となって、人々の役に立つことが出来たことは光栄です。」と。
米食品医薬品局から7件の人工心臓移植手術の許可を得て、デフリ-スは研究を推進しました。1984年、デフリースはわずかに改良したジャービック7をウィリアム・シュローダー(52歳、元陸軍弾薬検査官)に移植しました。移植手術を受ける前に、シュローダーは教会で最後の秘跡を受けました。彼は最終的に620日間生存しました。時には病院を出て自宅マンションへ帰りました。3時間持つバッテリーを積んだ新しい装置は携帯できるサイズでした。ロナルド・レーガンとも電話で話しました。その時、彼は自分への社会保障費の支払いの遅さについて文句を言いましたが、それはほんの冗談でした。そのやり取りを見守っていた記者たちには、彼は普通の人よりも元気ではないかと思えるほどでした。実際には、彼はさまざまな症状に苦しんでおり、脳卒中もありました。結局、彼は慢性感染症や肺の不調が原因で亡くなりました。埋葬され、墓石には2つの心臓が重なるように記されていました。1つは人間の心臓で、もう1つは人工心臓ジャービック7でした。
人工心臓はどんどん改良されていきました。外科手術の分野でも技術の改良が続いていました。しかしながら、多くの改善があったものの、人工心臓の本質的な構造には変化がありませんでした。デフリースはさらに何回かの移植手術を行いました。手術の成功度合いにはばらつきがありました。スウェーデンでジャービック7を移植した男性の術後はすこぶる良好でした。長時間の散歩に出かけたり、お気に入りのレストランで食事をすることも出来ました。それでも、その患者は7か月半後に亡くなりました。その7か月半に関して、スウェーデンでは法的な議論、そもそも彼は生きていたと言えるのかという議論が巻き起こりました(というのは、当地の法律に照らすと、彼は心臓が止まった時に亡くなったことになるからです)。心臓外科医、患者、取材していた記者たちの人工心臓に対する熱い期待も萎え始めました。死ぬまで交換不要な人工心臓移植を開発するという夢の実現性は低いのではないかとの疑念が広がり始めました。また、この分野に資金を提供していた投資家も他の投資先を探し始めた方が良いかもしれないと迷っていました。さまざまな疑問が浮かび上がってきました。短い期間しか有効でない人工心臓に意義はあるのか?人工心臓移植を行った外科医は本当に患者を救おうとしていたのだろうか?単に患者を実験台にしたかっただけではないのか?人工心臓を付けて過ごした日々は本当に価値があったのか?
初期の人工心臓研究者たちは、成功を収めましたが、大きな成功とは言えません。彼らの開発した人工心臓が患者の生命を一定期間維持することができましたが、永続的ではありませんでした。心不全に陥った患者をしばらく生き延びさせることができたものの、生活の質が高いとは言えませんでした。患者からすると、ありがたいような、ありがたくないような気持ちだったのかもしれません。ティムズは私と人工心臓開発の歴史について話しているときに言いました、「人工心臓の研究者たちは、人工心臓を開発しました。しかし、残念ながらそれはみんなが期待しているようなものにはなりませんでした」と。彼は、さらなる研究を続けなければならないという使命を感じていました。