3.ワクチン接種によって訓練免疫が高まることを証明する研究が続けられている
1984年にエイズの原因がHIVウイルスであることを発見したロバート・ギャロは、2011年にウイルス性感染症の感染拡大防止を目的とするウイルス学者の国際的な組織「グローバル・ウイルス・ネットワーク」を設立しました。2020年初頭に中国のウイルス研究チームがSARS-CoV-2ウイルスの遺伝子配列が発表されたのですが、その時、ギャロは訓練免疫を強化することでウイルスの蔓延を遅らせることができるのではないかと推測しました。その2年前に、ギャロは、経口ポリオワクチンの投与にインフルエンザを防ぐ効果があるというコンスタンティン・チュマコフの講演を聴いていました。また、ギャロは、複数のコロナウイルスに感染しているのに、発症することなく、抗体も出来ていないコウモリに関する論文も目にしていました。「どうして、コウモリは発症しないのでしょうか?旧来から知られている獲得免疫では説明がつきません。おそらく、自然免疫が常に機能していて、コロナウイルスが体内に侵入していても害が出ないように、バランスを保っているのでしょう。コウモリの論文を読んだことは、自然免疫に深く興味を持つきっかけになりました。」と。2020年と2021年に、ギャロは、チュマコフ、アーベイ、ベン、ネテアと共同で論文を書き上げました。その論文では、既存のワクチンを使って訓練免疫を引き出すことで、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐことが提唱されていました。
ギャロらが提唱していたことは、全くの偶然で意図したわけでは無いのですが、小規模ですが、既に行われていました。昔から存在しているワクチンを接種をすることで、偶然にも新型コロナの感染が抑制されていたのです。バージニア工科大学と国立衛生研究所が共同で研究したのですが、社会的状況が類似している22カ国を調査した結果、BCGワクチンの接種率が高い国ほど、新型コロナによる死亡率が低いことを発見したのです。この発見は、結核菌と新型コロナウイルスの最後の共通祖先が存在していたのが30億年以上前だったことを考えると、非常に驚くべきことです。経口ポリオワクチンも同様に新型コロナによる死亡率を下げるか否かは検証できませんでした。というのは、ポリオがほぼ根絶されたため、経口ポリオワクチンはほとんどの国で投与されていなかったからです。しかし、チュマコフやギャロや他の研究者たちの分析によると、自分の子供に経口ポリオワクチンを投与したことによって間接的にポリオウイルスに曝露してしまったイランの母親たち(経口ポリオワクチンは感染する力が残っている)は、新型コロナウイルスに対してより高い免疫力を有していることが判明しました。スイスとブラジルの研究チームがブラジルで行った調査では、インフルエンザの予防接種を受けると、新型コロナによる死亡率が16%減少することが判明しました。
同じような結論を出している研究が沢山あるようです。ネテアと彼の共同研究者たちは、オランダのある病院で小規模な調査研究を行ったのですが、インフルエンザワクチンの接種を受けた者は新型コロナに感染する確率が約40%低いことが判明しました。それは自然免疫が強化されたことによるものだと推測されます。グラクソ・スミスクライン社がカリフォルニア州の50歳以上の成人約50万人を対象に行った調査では、グラクソ・スミスクライン社の帯状疱疹ワクチンを接種した人は新型コロナに感染する可能性が16%低く、入院する可能性は32%低いことが判明しました。また、メイヨークリニック(ミネソタ州ロチェスター市に本部を置く総合病院)の10万3千人以上の患者を調査したのですが、過去1年から5年以内に、水痘、インフルエンザ、肝炎、麻疹、肺炎、ポリオなどのワクチンの接種を受けた者は、新型コロナに感染する確率が低いことが分かりました。ポリオワクチンは、併存疾患、他のワクチン接種、人口統計(年齢、性別、人種、民族、居住国)、地域ごとの新型コロナの発生率と検査実施率を調整後の数字で、新型コロナの感染率を43%減少させていました。世界中の研究者がさまざまな研究を行っていますが、同じような結果を示しているものがたくさんあるようです。
しかし、それらの研究にはいずれも問題があります。それらの研究は、いずれも観察的なものです。つまり、事後的なデータ分析に基づいたものです。観察的研究は示唆に富んでいますが、決定的なものではないのです。なぜなら、ワクチンを接種する人の違いなど、データの偏りを完全に排除することが不可能だからです(実験的研究であれば、データを偏りなく完全にコントロールすることができる)。現在、多くの研究者たちが、プラセボ対照試験を実施しています。プラセボ対照試験では、被験者をランダム(無作為に)に2グループに割り振って、1つのグループにはワクチンを接種し、もう1つのグループには偽のワクチンを接種します。そして、その結果を測定します。現在ブラジルで行われている研究の暫定的結果を見ると、MMRワクチン(3種混合ワクチン:麻疹・風しん・おたふくかぜの混合ワクチン)を接種した成人は新型コロナの感染からは守られないものの、新型コロナを発症する確率は半分ほどになりました。MMRワクチンの接種が、新型コロナに感染しても重症化する確率を下げるという可能性が示唆されています。ギリシャでネテアが他の研究者と共同で行っていた研究は、つい先日終わりました。その暫定的結果が出ていて、BCGワクチンを接種した高齢者は、新型コロナに感染する確率が68%低くなっていました。また、ネテアらが新型コロナのパンデミックが起こる直前に行った200人の高齢者を対象としたプラセボ対照試験では、BCGワクチンを接種すると、その後1年間に呼吸器感染症に罹る確率が79%下がりました。
問題は、観察的研究によって得られた知見が、本当に正しいか否かということです。今後、ますます多くのランダム化プラセボ対照試験が行われると思いますが、それによって覆される可能性が全く無いわけではありません。「ミハイ・ネテアは、実に興味深い研究をしています。まさしく、世の中が一番必要としている研究だと思います。」と、アストラゼネカ社と共同で新型コロナワクチンを開発したオックスフォード・ワクチングループの代表であるアンドリュー・ポラードは私に言いました。しかし、ポラードは、乳幼児の自然免疫が強化されたことは認めるものの、大人の自然免疫が強化されるという点には懐疑的なようです。「大人は、それこそ何百万回もウイルスに感染していますし、たくさんのワクチンを接種してきたでしょうし、何十年にもわたって免疫系がウイルスに晒され続けてきたわけです。ですので、あるワクチンを接種することで、他の感染症に対する防御がさらに強化されるという説には、私は懐疑的です。」と彼は言いました。ポラードの推測によれば、大人には成人する途中で備わった免疫機能があるので、大人がワクチンを接種した際には、乳幼児の場合と違って他の感染症への免疫力が高まるという現象はほとんど見られないでしょう。それが、新型コロナのパンデミックが起こったことで、大人がワクチンを接種した場合でも乳幼児と同様の効果があるか否かということに興味が集まり、それを調べる研究が沢山行われるようになっただけなのかもしれません。ポラードは、巷で盛んに行われているランダム化プラセボ対照試験について、「多くの研究者が、ランダム化プラセボ対照試験のデータを早く見たいと思っています。観察的研究のデータには問題があります。どうしても、データが無作為化したものではないので、偏りが出てしまうからです。」と。
また、ポラードは言いました、「もし、ランダム化プラセボ対照試験のデータによって、あるワクチンを接種することでさまざまな感染症に対する免疫力が上がってそれが長期的に続くことが示されれば、それはこれまでの常識を変えることになるでしょう。」と。しかし、ランダム化プラセボ対照試験の結果が、観察的研究から得られた知見と相反するものである可能性もあります。観察的研究で得られた知見を補強する結果であったとしても、免疫を強化する効果がそれほど大きくない可能性もあります。あるいは、このランダム化プラセボ対照試験の結果が、新たな疑問を生み出す可能性もあります。ポラードは言いました、「観察的研究を行った際に、母集団は適切だったのか?サンプル数が不十分だったのではないか?という疑問が出てくる可能性もあります。」と。また、どのワクチンを接種したかによって、他の感染症に対する免疫が強化される度合いも異なります。季節性インフルエンザのワクチンは、不活化ワクチンで、破壊されたウイルスの断片が含まれています。BCG、経口ポリオワクチン、MMRワクチン(3種混合ワクチン)は、弱毒化ワクチンで、対象となる感染症のウイルスや細菌よりも毒性が弱められた細菌やウイルスが丸ごと含まれています。一般的には、生ワクチンの方が自然免疫をより効果的に強化すると考えられていて、対象となる感染症以外のウイルス等への防御力を最も高めると考えられています。そのため、10%しか予防効果がないインフルエンザ用のワクチンを接種するよりも、インフルエンザ以外の感染症用の生ワクチンを接種した方がインフルエンザを予防する効果が大きいということが時として発生するのです。