実録! バイオミルク(Biomilq)社の人工母乳開発への挑戦 ー 結局、母乳と同じものは作れない?

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 体内で母乳が作られる過程は、妊娠中にホルモンの変化によって乳腺細胞(mammary cells)の増殖が促されることから始まります。出産後、エストロゲン(estrogen)とプロゲステロン(progesterone)という2つの妊娠ホルモン(pregnancy hormones)が減少し、プロラクチン(prolactin:黄体刺激ホルモン)が残ります。プロラクチンが乳腺細胞を刺激し、乳腺細胞は母親の血液(bloodstream)から糖質(carbohydratrs)、アミノ酸(amino acids)、脂肪酸(fatty acids)を取り込み、それらの原料を赤ちゃんに必要な主要栄養素(macronutrients)に変換します。バイオミルク(Biomilq)社の研究では、乳腺細胞はドナーから提供された母乳や胸部組織のサンプルから採取します。それを、研究者チームの管理下で最適な状態を維持して培養し増殖させます。培養された乳腺細胞は、中空糸バイオリアクター(hollow-fibre bioreactor)に移されます。それは、中に何百本もの微細な多孔質チューブがある大きなチューブです。微細なチューブは研究室で培養した乳腺細胞の層で覆われます。母乳の原料となるものが小さなチューブに流れ込むと、乳腺細胞が母乳の成分を大きなチューブに分泌します。そこに母乳の成分が溜まります。

 ここで「母乳」ではなく「母乳の成分」と記しているわけですが、実はこれには重要な意味があります。バイオミルク(Biomilq)社は、母乳に含まれている多くの主要栄養素を生成する手法を確立しました。タンパク質や複合糖質(complex carbohydrates)や生理活性脂質(bioactive lipids)などです。しかし、それらを本当の母乳と同じ成分比率で生成することはできていないのです。また、母乳には非常に多種類の成分が含まれているわけですが、同社が全く生成できていない成分も少なくないのです。例えば、母乳の中には母親の抗体(antibodies)も含まれますが、研究室で培養した乳腺細胞がそれを生成することは不可能です。それは、バイオミルク(Biomilq)社で完全に無菌状態の研究室で生成していることが理由です。同じ理由で、本物の母乳の中にある有益な腸内細菌も生成されません。

 他にも母乳の成分と母乳では違う点があります。それは、母乳の特徴として、数カ月で、あるいは数日で、もっと言えば授乳する度に化学的な組成が変化するということです。乳児ごとに必要となる栄養は異なるわけですが、母乳はそれに対応して刻々と変わるのです。バイオミルク(Biomilq)社がどのように研究室で母乳の成分を生成するかにかかわらず、品質的には成分が均一でなければなりません。ですので、ストリックランドは、その部分はどうしても母乳とは異なってしまうと言います。しかしながら、彼女は培養した乳腺細胞が生成するものは有用であると確信しています。牛の乳と人間の母乳の成分は異なるわけですが、どちらの中にも共通して存在しているタンパク質もある程度あります。しかし、どちらにも存在する同じタンパク質であっても、生成される過程は異なっているようで、種固有の部分があるようです。彼女は言いました、「乳腺細胞によって生成された成分は、より生物活性が高く、より吸収性が高く、乳児の腸にとって好ましいと考えられます。」と。

 バイオミルク(Biomilq)社で製品開発責任者を務めているキャサリン・リッチソン(Katherine Richeson)は、細胞生物学者です。同社に来る前は、乳がん治療を含むがん治療に関する研究を行っていました。彼女は、母乳や乳腺細胞に関する研究データのあまりの少なさに衝撃を受けたそうです。「文献を読み漁ろうと思ったのですが、ほとんど時間はかかりませんでした」と彼女は話してくれました。カリフォルニア大学デービス校の教授で栄養科学化学者であり食品科学の教授であるブルース・ジャーマン(Bruce German)は、人間の母乳に関する研究の第一人者です。彼が研究で明らかにしたのは、母乳には消化されない成分もあるのですが、それは乳児の腸内環境を改善するバクテリアの栄養になるということです(ちなみに、ジャーマンは、無償でバイオミルク(Biomilq)社に助言を行っているそうです)。彼は、母乳に関しての学術的関心は昔からずっと低いと認識していて、その理由は母親や乳幼児よりも中年の白人男性が関心を持つことに関する研究が優先されたからだと推測しています。「実際、ワインの論文の方が、ミルクの論文よりずっと多いわけですから。」と彼は言いました。

 バイオミルク(Biomilq)社で母乳の成分を生成する方法は、基本的にはバイオ医薬品関連のテクノロジーが使われています。器具装備類もバイオ医薬品関連の研究で使われているものを利用しています。バイオ医薬品関連のテクノロジーというのは大量に食品を作るという規模感のものではないわけですから、母乳の成分の生成を商業的な規模にするためには、そのレベルをスケールアップする必要があります。「2つの課題がある」と、ストリックランドは言います。「私たちは、バイオ医薬品関連のテクノロジーが想定しているものより、桁違いに多くのものを作り出さなければなりません。また、桁違いに安いコストで作りたいのです。」同社のターゲットとする消費者について尋ねると、ストリックランドは、バイオミルク(Biomilq)が、乳児に十分な母乳を与えられないことで悩んでいる母親を更に困らせるようなことになるとしたら、それは彼女にとって「最悪のシナリオ」であると語りました。「安価で大量に提供できるようになるまでは、成功したとは言えないのです。」と彼女は言いました。エガーは、より現実的なスタンスをとっています。彼女は、同社の製品を、いずれ乳児用粉ミルクカテゴリーで最高級品(top end)に該当する価格にすることを目指しており、最初の内はさらに高価にならざるを得ない可能性があると言っていました。「当社は入手しやすさを第一に考えていますが、世界中のすべての人がすぐに入手しやすい状況にできるわけではありません。」と、エガーは言いました。今のところ、同社は母乳による育児の価値を認めつつも、その実践が困難なことに悩んでいる顧客や、あるいは次善の策として子供のためなら大枚をはたくことをいとわない顧客に対して売り込みをかけようとしています。

 次善の策として選ばれる可能性のあるバイオミルク(Biomilq)社が生成する母乳の成分は、どのくらい価値のあるものなのでしょうか。世界保健機関(WHO)で乳幼児期の栄養学を専門とするローレンス・グラマー=ストローン(Laurence Grummer-Strawn)は私に言いました、「私たちが実現したいのは、単に栄養面で最高のスタートを切ることではありません。人生における最高のスタートを切ることを求めているのです。」と。母乳育児が「最高のスタート」を可能にします。母乳には、培養した乳腺細胞から生成される母乳の成分にはないものが沢山あります。本物の母乳は乳児の成長に合わせて成分比率が変わりますし、母乳を与える際には親子の絆が強まります。グラマー=ストローンは言いました、「現時点では、母乳に劣る点が少しだけあるとは言え、母乳の代替品として最も優れているのは粉ミルクということになります。栄養学的な観点からすると、正直なところ、粉ミルクというのは悪くありません。」と。彼は、母乳で育児をするという行為よりも、母乳の成分に焦点を当てています。それで、粉ミルクの微細な化学物質等の成分比率は改良を重ねて優れたものになったと言っていました。多くのアメリカ人が彼と同様に母乳で育てるという行為自体には焦点を当てていないようです。