2.
第二波フェミニストの中には、家父長制の下で暮らす女性が男性との性行為に「同意( consent )」できるという考え自体が馬鹿げていると考える者もいた。封建時代に農奴が領主のために働くことに同意することなどありえないと誰もが考えるわけだが、それと同じという理屈である。たしかに、農奴が畑を耕すことを楽しんだり、領主を愛したりすることが全くなかったわけではないだろう。しかし、好き好んで農奴という職業を選んだわけではない。当時の厳格でしばしば暴力的な社会的な制約によって、選択肢は全く無かった。他の職業に就くことを禁じられていたのである。たとえ選択が自由になったとしても――たとえ何十年にもわたるフェミニストの苦闘の末に、現代を生きる女性にもはや農奴とは似ても似つかないような解放がもたらされたとしても――夫に農奴のように仕えるという選択は「知的( intelligent )」と言えるだろうか?編み物を楽しみ、快適に過ごし、自分の女性らしさを素晴らしいと肯定できる女性もいるだろう。しかし、レイプされる確率が 10% もあるとしたら、カップルになることを自信を持って友人に勧められる女性はどれほどいるだろうか?
こうした議論は 1970 年代、80 年代に活発だった。キャサリン・マッキノン( Catharine MacKinnon )やアンドレア・ドウォーキン( Andrea Dworkin )などのフェミニストが議論の先頭に立っていた。ドウォーキン自身も夫から暴力を受けていた。今日では、2 人の基本的な主張は、しばしば「異性間のセックスはすべてレイプである」と解釈されることもある。しかし、実際のマッキノンやドウォーキンの主張とはかけ離れていると言わざるを得ない。滑稽な現象である。急進的フェミニストが異性愛者の女性が「敵と寝た( sleeping with the enemy )」ことを非難することはない。女性が経済的に依存している夫とのセックスに実際に同意できるということは広く受け入れられている。これは裏を返せば、女性は金を払ってくれる見知らぬ男性とのセックスにも同意できるという結論を導き出す。しかし、世間はそうした考え方には与していない。現在、多くのフェミニストが主張しているのだが、女性が夫とのセックス以外に同意もできるという主張は、女性を幼児化し、国家や道徳主義に従属させるものであり、女性が自分の体をコントロールしていることを認めることとは程遠い。
しかし、第二波フェミニストの批判の根底にあるのは、合意を表明するだけでは不十分な格差が力関係として存在するというものであり、それは他の議論にも生き続けている。詩人メアリー・カー( t Mary Karr )がかつて「身長 3 フィート、一文無し、失業中、そして読み書きができない」と表現した子供たちは、その明白な例である。子供たちが強制または強要されたセックスを強いられる状況に恐怖を感じるのは簡単である。しかし、彼らがセックスを望んでいると主張する場合はどうだろうか? 子供たちは他の子供たちとのセックスに同意できるだろうか? 大人とのセックスの場合は? 19 歳の少女が、愛情があり合意に基づいたセックスだと信じて、義父と合法的にセックスすることはできるだろうか? 義母とはどうだろうか? 学生は教授と、あるいは従業員は上司とセックスすることを選択できるだろうか? これらの質問にどう答えるかは、誰が騙されやすく、傷つきやすく、搾取されているかを考えれば決まる。そんな人たちが自らの欲望を表現した際に守られるべきである。
一般的に、私たちは短期的には人々の自律性を制限することに積極的である。若さとは最も一時的な状態である。性行為から守られた子供は、子供たちを守らなければならない大人へと成長する。しかし、法的に言えば、子供時代から決して抜け出せない人もいる。2018 年、ラトガース大学( Rutgers )の元倫理学教授アナ・スタブルフィールド( Anna Stubblefield )は、脳性麻痺の男性との加重性的接触の罪で有罪となった。男性の名前は DJ で、DJ は口語でコミュニケーションすることができず、母親と兄の保護下にあった。この事件は、強制同意をめぐる議論を文字通りに反映しているように思われたため、他の倫理学教授たちの関心を引いた。スタブルフィールドは DJ と共同で、ファシリテーテッド・コミュニケーション( facilitated communication )と呼ばれる手法に取り組んでいた。健常者が非言語障害者の腕を支え、DJ がタイピングできるようにするというものである。DJ がタイピングした性的関係後の喜びの表現「人生で初めて生きている実感がある」は、本当に彼自身のものだったのだろうか? DJ のような人間がセックスに同意することはあるのだろうか?もしできないなら、彼に残された選択肢は永遠に独身でいるか、レイプされるかのどちらかしかないのだろうか?
リベラル派にとってもう 1‗つの難しい問題は、歪んだ力関係に属さない成人間であっても、一部の性的行為が禁じられているのかどうかということである。ここで避けられないケーススタディは 2001 年のものである。2 人のドイツ人男性がネット上で知り合い、一方の男性のペニスを切断して一緒に食べることに同意した。切断された男性は出血多量の状態に陥る中、一貫して明確に同意を示していた。殺されることにも、切断されることにも同意していいたの。実際、その様子が映像として残っていた。おそらく、一部の哲学者は、何人も将来の同意を放棄することはできないはずだと主張するだろう。深刻な身体的傷害や死に至るような暴行に同意したり、長期的に主体性を奪われる契約を結んだりすることはできないと考えるからである。しかし、アメリカンフットボールの選手たちがフィールドで互いの身体をぶつけ合うことに同意できるのであれば、ベッドで互いを殴り合うことになぜ同意できないのだろうか?人々が自身が夢想することを実現しようとすることを禁じたいのであれば、BDSM ( Bondage-緊縛、Discipline-規律、Sadism-サディズム、Masochism-マゾヒズムの頭文字を取った言葉で、支配と服従、快楽と痛みなどを伴う性的嗜好や活動の総称)的な関係は犯罪とする必要がある。いや、「奉仕( serve )」という言葉を含む結婚の誓約さえ犯罪とする必要があるかもしれない。
同意に対する批判の 1 つは、それがあまりにも寛容的すぎることである。つまり強制や妄想が合意という幻想を生み出す可能性を無視している。他方で、さらにもう 1 つの批判もある。それはあまりにも制限的で懲罰的であるというものである。数十年にわたる法改正により、法的にレイプとみなされる状況は拡大された。もはや、武装した見知らぬ男が抵抗する被害者(理想的には白人の処女)を襲った場合にのみ訴追できるという時代ではなくなった。現在の大学のキャンパスでは、「ノーはノーを意味する( no means no )」という考え方は多くの人が恐怖の瞬間に凍りつき言葉が出なくなるというよく知られた事実のために、「イエスはイエスを意味する( yes means yes )」という考え方に取って代わられた。
この変化を批判する人たちも少なくない。男女双方が意識を失うほど泥酔しているケースや、一方が遡及的に同意を撤回したように見えるケースを懸念している。彼らは、レイプのハードルが低くなることで誤解が犯罪と見なされ、もしくは訴訟を起こされることを懸念している。また、一部のフェミニストが熱心に擁護したがっているような気楽な触れ合いが妨げられると主張する。「暴行はどこにでもあると私たちに信じ込ませること以上に、女性を服従させる良い方法は思いつかない」と、自称フェミニストのローラ・キプニス( Laura Kipnis )は 2017 年の著書” Unwanted Advances:sexual paranoia on campus ”(望まぬ進歩: 性的パラノイアがキャンパスにやってくる)に書いている。同書では、大学教授が机の周りを追いかけてきてキスしようとしたことを笑いながら思い出していた自身の母親が描写されている。キプニスが主張するのは、今日の若い女性はキプニスの母親のようにトラウマになりそうな出来事を無邪気に受け流すことを促されてはいないということである。彼女たちの無邪気さ、純粋さ、無力さを前提としてレイプに関する法律は修正されてきた。それは性差別的な考えを前提にしていて、よりそれを助長するものでもある。もう 1 つの解釈がある。若い女性たちが、どちらかといえば男性的な自己権利意識から、違反者を甘やかすような微笑みを向ける必要はないと決めつけているというものである。しかし、キプニスのより広い視点からの指摘は正しい。つまり、レイプに関する法律が改正されてきたが、それは性の解放への道ではないのである。
キプニスの著書は、本誌とニューヨーク・タイムズ( the Times )の記者がハーヴェイ・ワインスタイン( Harvey Weinstein )に対する十数件の告発を掲載する 6 カ月前に出版された。#MeToo 運動に拍車をかけた。その後の一連の告発で明らかになったのは、性暴力がいかに日常的なものであるか、そして被害者が告発することでいかに多くのものを失い続けているかということである。それは、クリスティン・ブレイジー・フォード( Christine Blasey Ford )の回顧録を読むとわかる。ブレイジー・フォードの人生を決定づけた瞬間は、彼女がベッドに押し倒され、17 歳の少年にまたがられ、服を引き裂かれ、友人たちに笑われる中で、泣き叫ぶ口を手で塞がれた時ではない。世間、少なくとも議会が、彼女は嘘つきで、彼女を押さえつけた少年は最高裁判事になるべきだと決めた時だったのである。回顧録の書評の中で、作家のモイラ・ドネガン( Moira Donegan )がそう指摘している。
タイトル IX ( Title IX:アメリカで 1972 年に制定された連邦法で、連邦の財政支援を受ける教育機関における性別に基づくあらゆる差別を禁止する法律)や #MeToo 運動への反発を見て、男性に対するこうした運動の主な影響は、水泳の奨学金や本の出版契約、政治的影響力を、一時的に剥奪することであるかのように思う者も少なくない。ちなみに、アンドリュー・クオモ( Andrew Cuomo )の市長選での失敗の根本は、司法省が彼が 13 人の女性に性的嫌がらせを行ったと認定し、告発した一部の女性に報復したことを有権者が時期に忘れ去るだろうという考えたことにある。しかし、レイプは法律に違反する行為であり、多くの者が、貧困層の男性が多くとりわけ非白人男性が多いわけだが、その罪で数十年も刑務所で過ごす可能性がある。しかし、時には不当な場合もある。セントラルパーク・ファイブ( Central Park Five:1989 年にニューヨークのセントラルパークで発生した女性ジョガー襲撃事件で、無実の罪で有罪判決を受けた 5 人の黒人・ヒスパニック系の少年たち)を思い出してほしい。特定の犯罪に対する量刑の格差は衝撃的である。レイプで有罪判決を受けた人のおよそ 5 人に 4 人はネイティブアメリカンである。
対照的な 2 つの事実がある。1 つは、レイプのような犯罪の捜査が過度に積極的に為されている、あるいは被害者の証言が過度に信用されていると主張するのは非常に難しいということである。例えばシカゴでは、2018 年から 2023 年の間に市警察は 2 万件以上の性犯罪の通報を受けたが、刑務所に入ったのはわずか 300 人程度だった。もう 1 つは、レイプを怖れる人なら誰でも、刑務所に収容される者が増えることに強い懸念を抱くべきということである。そこでは性暴力(多くの場合、看守によるもの)が著しく蔓延しているのだから。州刑務所と連邦刑務所で性行為を強要されたとする報告が無くならないわけだが、被害を受ける割合は男女でほぼ同じである。これは、レイプは専ら女性が被害者になりやすいという事実を否定するものではなく、特定の状況下では、誰でもが被害者になる可能性があるということである。多くのフェミニストが長年主張してきたように、レイプはセックスに関して偶発的に起こることかもしれない。しかし、常に権力に関して起こるものである。