3.
過去 10 年間の議論で 1 つ明らかになったことがあるとすれば、それは同意だけでは女性を救えないということである。依然として、ひどい判決が出る裁判が多いし、女性をエロティックと見なし蔑む考え方も残っている。しかし、法律や規制を制定すれば解決できることでもないような気がする。政府がセックスに関して道徳的に介入するのは非常に難しいと言わざるを得ない。政府が介入するとなれば、苦労して勝ち取った大切な自由が奪われかねない。避妊する権利、同性愛の権利、あるいは自由奔放なセックスをする権利などである。今や現状を無視できない多くの大学の管理者たちは、ほとんどが訴訟回避のための機械となっている。#MeToo 運動の盛り上がりは束の間のものであった。今でも、多くの最悪の人間が依然として自分たちこそが真の被害者だと思い込み、この国を支配し続けている。レイプに関しては、刑務所に道徳的権威はない。
こんな事態であるが示唆に富む本がいくつも出ている。ジョセフ・フィシェル( Joseph Fischel )の” Screw Consent: A Better Politics of Sexual Justice ”(同意なんかどうでもいい:性正義のより良い政治)、キャサリン・エンジェル( Katherine Angel )の” Tomorrow Sex Will Be Good Again: Women and Desire in the Age of Consent ”(明日のセックスは再び良いものになる:同意の時代の女性と欲望)、マノン・ガルシア( Manon Garcia )の” The Joy of Consent: A Philosophy of Good Sex “(同意の喜び:良いセックスの哲学)などである。これらの本は、いずれもアメリカの法制度の批判に重点を置いているわけではない。フィシェルは、「同意は性暴力に関する法律で利用できる最も悪くない基準である」と記している。しかし、3 人は、同意を強調し重要視する文化を懸念している。それはセックスを素晴らしいものとレイプの 2 カテゴリーに分類することになるという。女性の欲望の複雑さも無視している。セックスは平等な 2 人が一緒に楽しむものというよりも、女性が男性に与えるものという概念を強化してしてしまうとも懸念している。
このジャンルに新しく加わった最も勢いのある本は、ジョージタウン大学で哲学と障害学を教えるクイル・ククラ教授の著書” Sex Beyond ‘Yes’: Pleasure and Agency for Everyone ” (「イエス」を超えたセックス:すべての人に喜びと主体性を与える)である。ある意味マニュアル本であり、ある意味マニフェストでもある。この本には、合意に基づくセックスを「良いセックス( good sex )」に変える方法について実現可能なアイデアが満載である。つまり、受け入れたり拒絶したりするだけでなく、誘ったり、警告したり、尋ねたり、命令したりすることを学ぶ方法などが列挙されている。ノンバイナリーであり、学術的にも個人的にもキンク( kink:一般的な性的嗜好や行為から逸脱した、型破りな性的嗜好、行動、空想を指す )に興味を持つククラ教授は、バニラ( vanilla:一般的な性的嗜好)の異性愛カップルに対して、ちょっと見下しているところがある。「自分の性行為や欲望について内省的に考えることを強いられたことが一度もなかったため、こうしたスキルを身につける機会がなかったのかもしれない」と彼女は書いている。しかし、ここで取り上げた本はいずれも、幅広い読者の関心を引くトピックにも触れている。例えば、認知症( dementia )のパートナーと倫理的にセックスをする方法や、セーフワード( safe words )を使って子どもたちに身体的境界線を定義する方法を教えることで得られる解放的な可能性などである。
ククラが嘆いているのは、良いセックスの仕方についてはあまり語られず、悪いセックスを避ける方法についてはあまりにも語られすぎていることである。「夜を取り戻せ( Take Back the Night:女性に対するセクシャルハラスメント、ドメスティックバイオレンスなどに抗議し、その撲滅を訴える国際的な運動・デモ活動)」のような取り組みが逆効果であると痛烈に批判しているフェミニストも結構多い。この取り組みは、女性が路上の見知らぬ人から高いリスクにさらされていると示唆しており、その結果としてパートナーや知人への依存を高めてしまっている。しかし、レイプの 90% 以上を犯しているのはパートナーや知人なのである。男性の体は不快で恐ろしいという大多数の人たち(そして時にはフェミニスト)の考えは、実際にはレイプ文化の一形態であると批判する者も少なくない。なぜなら、セックスは男性が女性から奪うべきものであるという考えを擁護していることになるからである。ククラの著書を読んで、レイプ犯とは単に良いセックスのための「複雑なスキル( complicated skills )」を身につける機会をまだ得ていない人々であるという認識を持つ者も少なくないであろう。そうした認識が極端に楽観的であるとも言えないのが悲しいところである。2000 年の司法省の報告書によると、性的暴行犯の最も一般的な年齢は 14 歳だった。そして、より良いセックスを主張するものが少なくないわけだが、そういう者たちはレイプ犯の少年や男性には変わる能力があるということを第一原則として受け入れなければならない。
性教育で、” Sex Beyond ‘Yes’ ”という概念は明快で率直なものである(訳者注:Sex Beyond ‘Yes’ とは、 Yes という言葉による合意の機械的な解釈を超え、相互尊重と快楽、主体性(エージェンシー)を重視する、より豊かで倫理的なセクシュアリティを探求する哲学的な考え方)。より良い世界であれば、高校で教える概念かもしれない。しかし、ククラが認めているように、重要なのは性教育がすべてではないということである。「世界一優れたコミュニケーターであっても、極めて制限的で懲罰的な性規範や法律のある国や、刑務所や病院などプライバシーのない施設の明るい部屋に閉じ込められている場合には、強い性的主体性を持つことはできない」。ククラが好む用語である「性的主体性( sexual agency )」は、性的同意( sexual consent )とは異なっている。それは、歩行可能な住宅街区とゲーティッドコミュニティ( gated community:住宅地全体を塀で囲んで敷地への進入路にゲートを設けた街)が全くの別物であるのと同じである。同意は、他人を自分に触れてはいけないという束縛から一時的に解放する私たちの権利である。一方、主体性は私たちが自由に欲望を追求できる条件下で生活する私たちの権利である。ククラはそのような条件を良いセックスのための「足場( scaffolding )」と呼んでいる。
例えば、女子学生クラブのメンバーであれば、ダンスをしたり酔っ払ったり、見知らぬ人とキスをしたりできる場所や機会があるはずで、より良い足場を得ることが容易である。そうした場所は、互いに共謀し合おうとする男たちだけで運営されている場所ではないわけである。また、セクシュアル・ヘイジング( Sexual hazing:主に学校、スポーツチームなどの集団において、新メンバーを加入させる際に行われる、性的な要素を含んだ屈辱的、暴力的、または強制的なしごきや加入儀式を指す)が普通に行われている場所でもない。里子( foster child )の場合、鍵のかかるドアのある自分の寝室があれば、より良い足場を得ることができる。避妊やプレップ( PREP:曝露前予防内服)は、経済的自立と同様に、より良いセックスへの足場となり得る。ククラは「 24 時間利用可能な公共交通機関( twenty-four-hour public transportation )」のようなものが理想であると言及する。たしかに、それによって多くの人たちがいつでも安全かつ容易に外出できるという自信を持つことができている。この部分を読んだとき、私はジョン・ライドアウト( John Rideout )が酒を飲みすぎて自転車で帰宅できなくなった後にシーラ・モクスリー( Sheila Moxley )を暴行した事件を思い出した。もし外にバス停があれば、モクスリーはもっと自信を持ってライドアウトを追い出し、ドアに鍵をかけ、一晩中安らかに眠ることができたのだろうか。
この疑問には、どこか納得がいかないところがある。というのは、どことなく被害者を責めているようなところがあるからである。結局のところ、ライドアウトはタクシー代を払いたくなかったからモクスリーをレイプしたわけではない。彼女を一人前の人間として見ていなかったからレイプしたのである。ククラはそうした事例をいくつも確実に認識しているはずなのに、セックスに関するジェンダー分析を避けている。そして、ことさらに不道徳なセックスを助長する物質的な現実に焦点を当てているところがある。彼女は足場がどうのこうのと煩いわけだが、極端な言い方をすれば、足場は賠償というよりは、むしろ普遍的なベーシックインカムに近いのかもしれない。
いつの世でも、どこへ行ってもお金が重要であることに変わりはない。もしグレタ・ヒバードがもう少し高額な小切手を夫から受け取っていたら、彼女の人生はどうなっていただろうか。答えはないわけで、想像するしかない。19 歳で妊娠した彼女は、ライドアウトのプロポーズを最初は「無責任( irresponsible )」だと思って断った。数カ月間は生活保護を受けながら赤子を 1 人で育てようと奮闘した後、彼女は考え直して当時陸軍に入隊していたライドアウトを受け入れた。ヒバードがライドアウトから殴られたり蹴られたりし始めたと両親に告げた際には、父親からは結婚生活を続ける義務があると諭された。母親からは離婚費用の援助を拒否された。ヒバードの周りにたくさんの怪物( monsters )がいたのかもしれないし、そうでなかったのかもしれない。しかし、彼女が怪物のような建築物( monstrous architecture )の中に生きていたことは確かである。♦
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