2.
私はパリ郊外のビセートル病院(Hôpital Bicêtre)にある彼の研究施設であるインサーム・ユニット1195(Inserm Unit 1195:インスティチュート ナショナル・デ・ラ・サンテ・エ・デ・ラ・リシェルシェ・メディカル・ユニット1195)にボリューを訪ねました。その研究施設の控え室には、色鮮やかなバインダー(「中絶」「更年期」「倫理委員会」等の背表紙が付いていた)と数十年分の新聞記事の切り抜きが入ったフォルダーが並んでいました。その中には、1989年のニューヨークポスト紙の切り抜きもありました。記事の見出しは、「暴挙?中絶薬の開発者を顕彰して良いのか?中絶反対活動団体は、”胎児用殺人薬”と非難!」となっていました。机の上には、かつてパテを入れていたガラス容器を使って、たくさんの記事が固定されていました。
ボリューは、グレーのスラックスに白のボタンダウンシャツを着て、ブルーグレーのブレザーを着ていました。杖をついていましたが、95歳とは思えないほど元気でした。彼は、その施設で長年にわたってうつ病やアルツハイマーの研究に没頭してきたそうです。彼は、そこでデヒドロエピアンドロステロン(DHEA)というホルモンの老化防止効果も調べたそうですが、決定的な証拠は得られなかったそうです。彼は、「私は、毎日それを摂取していますよ。」と言いながら、研究施設内を案内してくれました。
ボリューは、ミフェプリストンを開発した功績によってノーベル賞候補と目されていたのですが、結局受賞することはありませでした。しかし、研究者が受賞して名誉に思える賞のほとんどを受賞しました。ラスカー賞やフランス科学アカデミー会長賞などです。1989年、ボリューの研究施設を訪れたタイムズ紙のスティーブン・グリーンハウス記者は、ボリューのことを「気さくで、はっきりとした物言いで、かつ、活動的である。緻密な医学研究者というよりも、ポピュリストの政治家のような雰囲気である。」と評していました。その後、ボリューは年を重ねるにつれて穏やかな性格になったようです。が、あるフランス人ジャーナリストの言葉によると、ボリューはカトリックを公然と批判しており、反フェミニスト的で、極右思想の持ち主だそうです。しかしながら、彼に備わっていた博識で自信に満ちた人格は全く変化がありません。彼の研究施設には、トロフィーや記念品や本の山が、フェミニストのニキ・ド・サンファル(フランスの造形作家)作の丸みを帯びた彫刻と混在していました。サド侯爵が収容されていた刑務所を見下ろす窓の横の椅子に座って、「私は彼女(サンフェル)と一緒に暮らしていました。」とボリューはさりげなく言いました。ボリューは、ソフィア・ローレンをオースチン・モーリスに乗せていて、パパラッチに見つかって逃げ回ったことがあるのですが、ロ-レンのことには言及しませんでした。1990年代にヴァニティ・フェア誌は、ローレンが否定していたにもかかわらず、2人が情事を重ねていると報じました。ボリューの妻はコメントを求められ、「どうしようもないわよ?彼は恋に落ちてしまったのよ。」と答えました。
ボリューは、エジプトのナイル川流域で生まれました。当時、腎臓病の専門医であった父レオン・ブルムは、エジプトに赴いてフアード1世の糖尿病の治療にあたっていました。妻も一緒に行っていました。第一次世界大戦中、レオンはアルザス人であったので、徴兵されてドイツ軍に加わっていました。その際、彼は疫学的な検査のために必要であると偽り、将校連中に尿のサンプルを郵送で提出するように依頼しました。そして、届いたサンプルに押されていた消印を手掛かりに将校連中の居場所を推定し、それをフランス軍に伝えていました。それで、大戦が終わるとフランスからレジオン・ドヌール勲章を授与されました。レオンは、ボリューが3歳の時に亡くなりました。一方、ボリューの母親は、弁護士であり、ピアニストでもあり、参政権運動に積極的に関与していました。母親は、アルザス人であることに閉塞感を感じていましたし、レオンの職業にも辟易としていました。それで、一家でパリに移り住みました。後にボリューは言っていました、「私は、母親からどんな職業についても良いと言われていました。ただし、医学関係はダメだと言われていました。」と。
1940年、ヒトラー率いるドイツ軍がフランスを占領した時、ボリューはまだ10代でした。彼は、共産党に加わり、反ドイツのパンフレットを配ったり、ドイツ軍の車を撃ったり、武器を運んだりしました。危うく捕まりそうになったこともありました。1944年11月に、獄中で裁判を待っていたヴィシー政府(事実上ナチス・ドイツの傀儡)の重鎮のシャルル・マリオンが、レジスタンスの残党によって連れ出され処刑されるという事件がありましたが、ボリューは、その事件に関与していたそうです。「マリオンは、美しいローデン・コート(オーストリアの貴族が着用していた伝統的なハンティング用の防寒コート)に身を包み、死ぬまで威厳を保っていたことが忘れられない。」と、ボリューは後にジャーナリストのカロリーヌ・フーレストとの対談本「Libre Chercheur(未邦訳)」で回想しています。ボリューは残党の中では最年少だったので、マリオンを射殺する役は任されず、写真撮影を任されたそうです。彼は、マリオンが処刑されたのは致し方ないことで正当な裁きを受けただけだと確信していたそうです。しかし、その一方で、協力者として告発された女性たちが強制的に剃毛させられるのを目にしたのですが、それが恐ろしい記憶として頭から離れず何年も悩まされることになったそうです。
結局、ボリューは父のかつての職業に惹かれるようになりました。1956年に医学研究の道に進みました。研究時間を確保するため、素早く食べられるバナナをいつも食べていました。その年には、ソ連がハンガリーに侵攻したのを機に共産党を脱退しました。彼は当時のことを振り返って、「社会を救うには、個人レベルで貢献することが必要であると感じていたんです。」と言いました。その後、プリーモ・レーヴィの科学の本質を突いた著作を気に入って読み込んだそうです。彼は、「科学には本質的な美徳がある。それは、あるがままを尊重するということです。」と言いました。
ボリューの最初の大発見は、DHEAというホルモンを発見したことでした。その後も、彼はDHEAに関する研究を続けました。DHEAは副腎皮質から分泌されるもので、テストステロンとエストロゲンを製造する際に重要な役割を果たしています。DHEAの濃度は、ある種の疾病の指標となることもあります。他の医学者たちは、その物質を検出する技術を考案しようとして、副腎から出る油状の液体を調べていました。一方、ボリューは、その物質が水に溶けている状態で存在していることを前提に検出しようとしました。彼は、その方法は、酢と油が混ざったドレッシングの中の酢を検出するようなものであったと言っていました。彼は、その物質を検出し発見したことにより、30歳の若さで終身教授になりました。そして、コロンビア大学医学部で1年間研究するため、ニューヨークに向かいました(彼は、過去に共産党員であったため、ビザの取得に少し時間がかかりました)。彼は、アメリカに渡った後に、経口避妊薬の発明者であるグレゴリー・ピンカスと知り合いました。後に、ピンカスはボリューのメンターになりました。彼は、ニューヨークでは夜の街にも繰り出すようになり、そこで活躍している芸術家たちとも親交を深めました。画家のジャスパー・ジョーンズ、ポップアートの隆盛に重要な役割を果たした美術家のロバート・ラウシェンバーグ、画家・彫刻家のフランク・ステラなどです。「私の研究も彼らがしていたことと似ていました。答えが有るか無いかも分からない中で、漫然と何もない中から答えを導き出さなくてはならなかったのです。想像力と忍耐力が必要でした。」と、後にボリューは自身の研究について記していました。
やがてボリューは、性ホルモンの研究に注力しようと思うようになりました。彼が性ホルモンの研究を究めようと思った理由は、明確です。彼は、性ホルモンが、女性の生殖に関する自律性をより高め、中絶した人が長年にわたって悩まされる痛みと罪悪感を軽減してくれるだろうと確信していたのです。(彼は、かつてある産科医が助産婦に言った言葉が忘れられないと言っていました。その産科医は、「中絶する妊婦には罪悪感を感じてもらうべきなので、麻酔無しで堕胎します。」と指示したそうです。)彼は私に言いました、「私は、中絶薬を開発することによって、女性に危険な外科的手術を回避する選択肢を与えたかったのです。そうすることで、女性のプライバシー権(望まない妊娠を継続するか否かを自ら判断する権利)と身体完全性(physical integrity:自らの肉体に対する不可侵性)を尊重できると信じています。」と。
ボリューは、プロゲステロン(排卵直後から分泌量が増える、妊娠の準備のためのホルモン)になりすまし、子宮のプロゲステロン受容体を占拠して受精卵が成長するのを妨ぐ分子を開発すべきであると気付きました。彼は言いました、「鋭利なスプーンや吸引チューブを使って物理的に妊娠を中断させる代わりに、妊娠を促進するホルモンの代わりに逆の働きをするホルモンを投与することによって、妊娠のプロセスを逆転させることができると考えたのです。」と。ルーセル・ユクラフ社の親会社であるヘキスト社の最高経営責任者は、中絶に反対する超保守的なカトリック教徒でしたので、ボリューは会社の会議で、その新製品(抗プロゲステロン剤)を説明する際には、他の用途に焦点を当てなければなりませんでした。彼が強調したのは、抗プロゲステロン剤はコルチゾール(ホルモンの一種で心理的・身体的なストレスに反応して増減する)の生成を抑制するので、宇宙飛行士のストレスコントロールに有効であるという点でした。数ヶ月にわたって研究を続けた結果、ルーセル・ユクラフ社はRU-486の合成に成功しました。臨床試験では、その薬と陣痛促進剤を併用すると、中絶の成功率はほぼ100%でした。
ボリューは、以前、フランスで産児制限を合法化するための政府の委員会の委員を務めたことがあります。彼の記憶によると、その委員会のメンバーは、13人の男性医師と2人の女性秘書だったそうです。彼は、RU-486の販売を成功させるためには、公的なお墨付きがあることが重要であることを認識していました。薬を服用することで中絶できるということは、中絶する妊婦の健康のことを考えると革命的なことでした(タイム誌でその薬が取り上げられた際の表紙には、「すべてを変える薬」と書かれていました)。また、断固として中絶に反対する人たちも少なからずいたわけですが、そうした人たちの中にも、中絶手術には反対だが中絶薬は許容できるという人もいました。ボリューは、自らが開発した中絶薬のことを、避妊と堕胎手術の中間に位置する手段であると主張しました。彼は、RU-486の最も著名な擁護者の一人となったわけですが、時には一緒に開発に携わった者たちから非難されることもあったそうです。手柄を独り占めにしているとして非難されたのです。彼は、常にその薬のことを多くの人に知ってもらいたいと望んでいました。それで薬効を説明する際に、さまざまな比喩を用いました。時には、中絶薬を、無線通信を妨害する際の妨害電波に例えたこともありました。しかし、そもそもミフェプリストンの薬効は非常にシンプルなものでした。決して理解しにくいものではありませんでしたので、比喩を用いて説明する必要などないほどでした。RU-486は、ボリューにとっては自慢の作品でした。彼と交流の深かったニューヨークの芸術家たちと同様に、彼は自分の完成させた作品を広く世の中の人に知ってもらうことに心血を注いでいたのです。