頭の中で思考する際に、言語で考える人と映像で考える人がいるらしい?いやいや、その研究って本当に正しいの?

Annals of Inquiry January 16, 2023 Issue

How Should We Think About Our Different Styles of Thinking?
人によって、頭の中で思考するスタイルは異なる?

頭の中で思考する時に、映像(イメージ)を思い浮かべると言う人もいれば、言葉で考えるという人もいます。しかし、頭の中の思考プロセスは、未知の部分が多く神秘的です。

By Joshua Rothman  January 9, 2023

1.人間には、頭の中で言語で考える人と映像で考える人がいる

 私が自分が頭が空っぽであることに気づいたのは、19歳か20歳の頃でした。大学の英語の授業を、日当たりの良いセミナールームで受けていたのですが、「For Whom the Bell Tolls(邦題:誰がために鐘は鳴る、アーネスト・ヘミングウェイ著)」か、「The Waves(邦題:波、ヴァージニア・ウルフ著)について議論していた記憶があります。何か言おうと手を挙げたのですが、私は、突然、自分が何を言おうとしているのか、全く理解していないわからないことに気づきました。ほんの一瞬、私はパニックになりました。程なくして、私は先生に指名されたのですが、私は口を開いて、とくとくとしゃべっていました。自然と言葉が出てきたのです。その時の言葉は、どこから出てきたのでしょう?おそらく、私は何か思いついたような気がしたから、手を挙げたのだと思います。でも、その思いは口に出すまで分からなかったのです。何とも不思議な感覚でした。

 後日、その時のことを1人の友人に話したのですが、ふと、子供の頃、母がよく父に 「何を考えているの?」と聞いていたことを思い出しました。そんな時、父は肩をすくめて「別に何にも考えていないよ!」と答えていました。それは、母をひどく苛立たせました。母は私に言いました、「どうしてお父さんは何も考えていないのかしら?」と。実は、私は父と全く同じで、ほとんどいつも何も考えずに過ごしていました。ずっと何も考えずに生きてきたような気がします。その一方で、私は話し出すと、どこからともなく凝縮された考えが頭に浮かんでくるのです。その時も、友人と話をしている内に、いろんな考えが浮かんできました。私は、自分の頭の中に確かに存在しているがぼんやりしているものを、話しながら、はっきりとしたものに置き換えているような気がします。

 私の頭の中には、まったく言葉がないわけではありません。多くの人と同じように、時々、私も心の中で会話をしています。「牛乳を買うのを忘れるな!」とか、「あと10回だけ頑張ろう!」などと心の中で呟いたりします。けれども、ほとんどの時は何も考えておらず、全体としては脳の中を静かな沈黙が支配しています。また、頭の中には何の映像もありません。私の頭には、視覚的なイメージはほとんど存在していません。私は、物や人や場所を思い浮かべることはほとんどありません。思考は自分の目の奥の方に圧力として湧いてくるような感じで、自分の思考を明確にするためには、声に出す必要があります。そのため、私の脳が思考している際に、私の妻が重要な役割を果たすことがしばしばあります。妻が傍に居なかったり、他に話す相手がいない場合には、私は文章を書くようにしています。それができない時は、誰もいない家の中を歩き回り、ぶつぶつ声を出します。また、声を出しても誰にも迷惑をかけないように、ときどき岸辺から離れたところに泳ぎに行くこともあります。私は小さい頃からずっと頭の中を空っぽにして生きてきました。私はよくしゃべる方ですし、プロの作家でもありますし、写真家でもあります。私は、頭の中にあるものを何とかほじくり出して、自分で理解できる形にして吐き出そうとし続けてきたような気がします。

 自分には頭の中で考える際にスタイルがある、あるいはあると思い込んでいるのは、私だけではないでしょう。誰かにどうやって考えているのかを聞いてみると良いかもしれません。黙って頭の中で独り言を言っているとか、視覚的に思考しているとか、物理的な空間を抜け出て精神的な空間内で思索している等々の答えが返ってくるでしょう。私の友人の1人は、ヨガをしながら考えると言っていました。また、別の友人は、心の中にあるいくつもの画像を見たり見比べながら考えると言っていました。私が懇意にしているある科学者は、夢の中でタンパク質を並べ替えているそうです。心の中でテトリスをしているようなものだと言っていました。私の妻は、しばしばぼんやりとした表情を浮かべていることがあります。そんな時の彼女の頭の中がどうなっているかを私は知っています。頭の中で、複雑なドラマのリハーサルをし、すべてのセリフを通しで練習しているのです。ときどき、彼女は、文章全体を聴こえないレベルで発音してから、大きな声で発音します。

 先日、テンプル・グランディン(Temple Grandin)が、著書”Visual Thinking: The Hidden Gifts of People Who Think in Pictures, Patterns, and Abstractions”(未邦訳。「ビジュアルシンキング: イメージ、パターン、抽象で考える人々の隠された才能」くらいの意?)に記していたのですが、彼女の頭の中はたくさんの詳細な画像(イメージ)で満たされており、それらを並列に並べたり、組み合わせたり、修正したりすることを、精力的かつ正確に行うことができるそうです。動物行動学者であり、コロラド州立大学の農学を修めたこともあるグランディンは、屠殺場や他の農場の構造物の設計に携わってきました。新しい建物の費用見積もりを出すように指示されると、彼女は頭の中でいくつもの設計プランを考えて、過去に作られた沢山の建物のイメージを思い出して、いろいろと比べたりするそうです。頭の中で視覚的に考えるだけで、新しい建物が過去の建物よりコストが2倍かかるとか、4分の3になるとか、正確に見積もれるそうです。新型コロナのパンデミックが始まった後、彼女は、薬剤がどのような仕組みで新型コロナウイルスに対して機能するのかということについて学びました。そして、新型コロナウイルスに感染した人間の身体は、完全に包囲された軍事基地と似ていると表現しました。彼女が表現した状態は、まさしくサイトカインストームと呼ばれる状況です。免疫システムが過剰に反応し、制御不能の炎症が引き起こされます。彼女がこうしたことを思い付いた時、彼女は言葉で概念化しませんでした。その代わり、彼女はこう書いています、「身体の免疫システムの中でたくさんの兵士たちが凶暴化しています。彼らは混乱し、味方を攻撃し始め、火を放っています。」と。

 グランディンの本を読んで、私はしばしば、自分ももっと頭の中で視覚的に考えることができたら良いなと思います。私の頭の中で幼少期の記憶を視覚的に思い浮かべる能力は非常に貧弱なものです。幼少期の記憶を視覚的に思い出すことができませんし、イメージすることもできません。しかし、グランディンは幼少期の「鮮明な絵のような記憶」に簡単にアクセスすることができます。二次元ではなく三次元で認識できるそうで、静止画の場合もあれば動画の場合もあるそうです。彼女は、トボガンぞり(カナダのイヌイットが使う簡単なそり)に乗って、雪に覆われた丘を滑り降りたことを鮮明に思い出せるそうです。そりが斜面を滑り落ちる時に地面の凹凸で浮いたり沈んだりした感じを明確に思い出せるそうです。また、小学校の家庭科の授業で刺繍を習った際に指に挟んだ繊細な3本の絹糸を鮮明に頭の中に思い描くこともできるそうです。彼女の頭の中の画像はアイマックスシアター(imax theatre)のような高解像度ですが、私の頭の中の画像はファックスレベルです。

 20世紀初頭、”Ulysses(邦題:ユリシーズ)”や”Mrs. Dalloway(邦題:ダロウェイ夫人)”や”In Search of Lost Time(邦題:失われた時を求めて)”などの小説は、読者に自分自身の内側、つまり自分の心を見つめることを求めました。グランディンの本も同様なところがあって、ウィリアム・ジェームス(William James:アメリカの哲学者であり心理学者)が「意識の流れ(the stream of consciousness)」と呼んだのですが、私たちの注意が私たちの頭の中にある思考の継続的な流れに向くようにしています。ジェームズは書いています、「私たちの頭の中の活動は、鳥の一生と同じようなところがあり、飛ぶことと止まり木で休むこととを交互に繰り返しているのです。」と。彼は頭の中の働きを、水の流れや鳥の一生に例えたわけですが、私たちの頭の中で起こっていることを具体化しすぎることを避けたのだと推測します。なかなか奥ゆかしいところがあります。グランディンの文章はその逆です。彼女の頭の中で起こっていること、そしておそらく読む者の頭の中で起こっていることを、驚くほど具体的に描き出しています。その精緻な描写は、ジェームズのものとは大きく異なっており、その差は2人の心の中の状態が違っていることを表しています。哲学者トーマス・ナーゲル(Thomas Nagel)は、1974年に発表した”What Is It Like to Be a Bat?”(邦題:コウモリになるとはどういうことか)という著書の中で、「コウモリの超音波ソナーは、人間の視覚とは全く異なるので、想像を絶するほど違うため、人間にはそれを理解することはできない。」と論じています。グランディンと私の違いは、人間とコウモリの違いに比べれば小さいわけですが、私には彼女のような卓越した視覚を持つことを想像することは容易ではありません。

 同時に、グランディンと私の頭の中では、共通している部分も少なくありません。私も彼女も、構築物のコスト計算ができますし、サイトカインストームについても理解できます。2人は、それぞれ異なるルートを通っても、同じ目的地に到着することができるのです。私と彼女の頭の中は、どれほど違うのでしょうか?それは、小さいものなのでしょうか?それとも、とてつもなく大きいものなのでしょうか?そして、その違いをどうとらえるべきなのでしょうか?