4.身代金目的誘拐とランサムウェア攻撃との共通点と相違点
1971年にアルゼンチンの食肉加工場の英国人マネージャーがゲリラグループに誘拐されました。数週間後に雇用主が25万ドルの身代金を支払った後に、彼は解放されました。1972年にも同国で家電メーカーの幹部が誘拐されましたが、身代金はその2倍の金額で50万ドルでした。1973年には中央アメリカで企業幹部の誘拐が多発しました。身代金は驚くべき速さで上昇しました。コカ・コーラ社は身代金として百万ドルを支払いました。コダック社の場合は150万ドルでした。ブリティッシュ・アメリカン・タバコ社は170万ドルでした。ファイアストン社は300万ドルでした。ある企業のCEOは230万ドルの身代金を払って解放されましたが、2年後に再び誘拐された際の身代金は1千万ドルと高騰しました。
1974年には多国籍企業で食品コングロマリットのバンジ&ボーン社(現在のバンジリミテッド社)の相続人であるフアン・ボーンとホルヘ・ボーンの2人がアルゼンチンで極左集団に誘拐されました。非常に大がかりな誘拐で、偽の道路標識が作られ、電話工事業者や警察官に扮した者数人による犯行でした。最終的に6千万ドルの身代金の支払いに加えて、貧しい人たちへの配布用として1百万ドル相当の衣類や食料品も差しださねばなりませんでした。誘拐される危険にさらされることは、企業幹部である以上避けられないと、グスタボ・カーティスは会社から言われたことがありました。彼は、1976年にアメリカ企業のマネージャーでしたが、コロンビアで働いている時に誘拐されました。
人類の歴史のほとんどにおいて、誘拐が多発するのは、政情が安定しなくて政権がコロコロ変わる国でした。しかし、グローバリゼーションの進展、政情不安定の国の増加、不平等の拡大により、誘拐はそうした国以外でも多く発生するようになりました。イタリアでは、犯罪組織が裕福な外国人や農民の子供たちを誘拐し、年間80人が身代金目的で誘拐されました。ジョン・ポール・ゲッティは、孫が誘拐された際に、税金が控除される額以上の身代金の支払いは拒否しました。消息筋によると、その額は3百万ドルです。
誘拐された際に身代金を支払う保険は、1932年にリンドバーグの赤ちゃんが誘拐され殺害された後に登場しました。その後、扱い件数、額は急増しました。1970年の市場規模は約15万ドルでした。1976年時点では7千万ドルでした。身代金の保険契約の大部分は、ロイズが再保険を引き受けています。現在では、誘拐を防ぐコンサルタント業がありますし、誘拐を防ぐことに特化した民間警備会社もありますし、万が一誘拐されてしまった際には、身代金の交渉を代行してくれる業者もあります。
Control Risks(以下、コントロールリスクス社)は、保険業界が誘拐問題に対処するのを支援する目的で、英国特殊部隊の元メンバーらによって1975年に設立されました。しかし、あまり実務的な組織ではなく、貴族のようなおっとりさで業務を遂行していました。1977年に、コントロールリスクス社の創設メンバーの2人がコロンビアで誘拐されたのですが、当時は身代金の交渉を行うことは合法なのか否かは判断の分かれるところで誰にも分からない状況だったので、自社の行動規範を作成するのに10週間掛かってしまいました。(誘拐された2人は後に無事解放されました。)
フォーチュン500(フォーチュン誌が年1回編集・発行するリストの1つで、 全米上位500社がその総収入に基づきランキングされる)に名のある企業の4分の3が誘拐の身代金をカバーする保険に入っています。その保険は、身代金だけでなく身代金交渉業者への費用等もカバーします。しかし、そうした保険に対して、マフィア、テロリスト、犯罪組織を利するものでしかないとして不快感を持つ者も少なくありません。コントロールリスク社の共同設立者の1人は1979年にタイムズ誌とのインタビューで「保険があることで気前よく身代金が過剰に支払われている」と語っていました。そうした状況を受けて、イタリア、コロンビア、イギリスでは、身代金をカバーする保険の販売は禁止されています。
しかし、キングス・カレッジ・ロンドンの政治経済学の教授であるアンジャ・ショートランドは、身代金交渉業者の存在によって身代金の高騰が避けれら、それなりの秩序が維持できていると主張しています。例えば、コントロールリスク社が行っている業務は身代金の交渉だけではありません。セキュリティの監査を行ってアドバイスしたり、企業の幹部が誘拐されないようにする方法もアドバイスしています。保険会社は、セキュリティを強化した企業に対して身代金の保険の保険料を減額しましたし、誘拐件数自体もここのところは減少に転じています。万が一、誘拐されてしまった時には、身代金交渉のプロが間に入ることによって、身代金が想定外に高くなるのを防げます。最近では、誘拐事件の約90%は身代金を支払うことによって解決されています。身代金交渉業者が関与する場合、解決する率は97%に上昇します。身代金をカバーする保険を禁止した国は、身代金交渉業者が表立って登場する場面は少ないですが、裏で交渉が行われている可能性があります。
ショートランドは犯罪を経済学的側面から分析することを専門としています。彼女は私に言いました、「経済学では複雑な問題を単純化してモデル化して分かり易くするという試みが為されます。」と。しかし、彼女は犯罪について研究する際に、複雑で詳細な調査や分析を疎かにしません。身代金目的の誘拐をビジネスという視点で分析するために、彼女はソマリアの海賊事件と誘拐事件を綿密に調査しました。ソマリアでは、民間の保険会社、コンサルタント業、身代金交渉業者が共存して一定の秩序が保たれていました。海賊や誘拐が頻発して混沌としているかと予測していたのですが、それぞれが対処可能な状態が維持されていたのです。現地のある身代金交渉専門家が彼女に言ったのですが、そこにはそこなりの秩序がありました。
秩序は、関連する者の間で相互の信頼感が無い場合には維持することができません。また、秩序を維持することが関与する者すべてにとって利益にならなければ維持できません。ショートランドがソマリアで調査した限りでは、身代金目的の誘拐をした組織は想定通りの身代金を受け取っていました。また、誘拐された側は、間違いなく無傷で解放されるはずだと推測していました。誘拐が頻発しているエリアに在る企業の多くは、コンサルタント等の協力を得られるので自社の幹部が誘拐されないように対策をしていました。万が一誘拐されたとしても、身代金交渉業者が存在しているおかげで殺害されることは無いだろうと安心することができました。また、保険会社はリスクを正しく評価して適正な保険料を設定することが出来ましたし、コンサルタント業者もそれなりに出番があり潤っていました。
カバウェア社の共同設立者のビル・シーゲルは、ハッカー集団によるランサムウェア攻撃は誘拐ほど残虐な犯罪に見えないと言いました。確かに、誘拐事件では切断された耳が郵送されたりすることがありましたが、ランサムウェア攻撃ではそういったことは起こっていません。しかし、経済学的な側面から見ると、両者の違いは小さいようです。ショートランドは言いました、「ランサムウェア攻撃を仕掛けるハッカー集団は、ソマリアで見られた身代金目的誘拐に関わる者たちが作り上げていたものと良く似たコミュニティを作っています。しかし、そのコミュニティはソマリアのそれより経験という点では80年の遅れがあり、未成熟な部分もあります。」と。