2.ロボットに球審をさせたら誤審は無くなる?
歴史を振り返ると、機械は多くの人の仕事を奪ってきました。映写士や地下鉄の車掌等はいつの間にか居なくなってしまいました。いずれは、生身の人間がしている仕事は機械に全て奪われてしまうのかもしれません。牛乳配達や個人宅を往診する医者のように、野球の審判員という職業も既に時代遅れなものなのかもしれません。ほとんどの審判員は男で、白人です。実際、メジャーリーグには春季トレーニング以外で審判員を務めた女性はこれまで1人もいません。また、昨年までは、黒人の審判員はいましたが、黒人で球審を務めた者はいませんでした。多くの審判員は、ウィンストンライトのような軽い煙草を吸っていて、審判員になる前は法曹界に身を置いていた者が多いようです。20年前に審判訓練アカデミーを訪れた者は、そこで訓練を受けていた全員が「NYPDブルー(ニューヨークが舞台の刑事ドラマ)」に夢中になっているような連中であることを発見できたでしょう。全ての審判員が聡明で、勤勉で、倫理感が強く非の打ちどころがないように見えます。実際に過去にメジャーリーグの審判員に不正が認められたのは、1882年の1件だけです。とはいえ、どこまでを不正とするかで、不正と認識される件数も変わってきます。決していつの時代にも全審判員が清廉潔白であったというわけではないのです。1990年代は無政府状態のようだったと主張する者もいます。現在はキリスト教の牧師をしており、1994年に審判員になったテッド・バレットなる人物が、彼が審判員になった頃には、回りの審判員は大酒飲みばかりで、暴飲ばかりしていたと主張しています。そんな輩ばかりだったので、彼によれば当時は一貫した正確な判定を下し続けることが出来ない審判員も多かったとのことです。2001年には、そうした状況を受けて、MLB機構は審判員の正確性を担保するために、審判員に関してビデオ評価システムを導入しました。MLBの発表によれば、現在では審判員の判定は非常に正確で、ストライクかボールの判定の正確性は97%という驚異的な高さを示しているそうです。
そのビデオ評価システムが導入された翌年、2002年はマイケル・ルイスが著書「マネー・ボール」を執筆し始めた頃でした。ルイスらは、沢山のデータをとりました。これまで取られていなかったようなデータも取っていました。打者の打球の初速とか、ピッチャーが投げた球の回転数とかなどです。そして、野球ファンはネット上でいつでもそうしたデータを見れるようになりました。また、審判のデータも見れましたので、どの審判員がどの試合でどういった誤審をしたかということも簡単に調べられるようになってしまいました。メージャーリーグでは、平均すると、1シーズンに3万5千回の誤審が発生しています。中には勝敗に直結するような誤審も沢山あります。そうした状況ですので、自動ストライク-ボール判定装置の導入を望む声は日増しに強まっていました。
MLBに自動ストライク-ボール判定装置を導入するために様々な実験・検討が為されていますが、その責任者はシニア・バイス・プレジデントのモーガン・ソードです。彼は36歳で、髪は赤毛で、愛嬌があります。少年時代にはメッツのマイク・ピアッツァのファンでした。今年の春の終わり頃に、私はミッドタウンにあるMLB機構の本部で、ソードと会いました。自動ストライク-ボール判定装置の試験運用と評価の責任者であるリード・マクフェイルも同席していました。マクフェイルは大学(クレアモント・マッケンナ・カレッジ)で野球をしていましたが短期間で辞めていました。彼の大学での通算打率は8割3分3厘(訳者注:6打数5安打)でした。彼が言うには、5本放った安打の内、4本はCalTech(カリフォルニア工科大学)との試合で放ったものでした。CalTechは過去20年間勝利を挙げていない弱小チームでした。
ソードによると、自動ストライク-ボール判定装置の導入は野球をよりエキサイティングにする取り組みの一環であるとのことです。MLB機構の幹部たちの間では、若いファンが離れてしまう危険性があるという危機意識が共有されています。競馬やボクシングのようにファンが減ってしまわないように、対策を常に検討しています。ソードは言いました、「私たちはファンやMLBに携わっている人たちに、野球のどんなところが好きかを尋ねるところから始めました。」と。いろんなアンケート等をして分かったのは、誰もが選手の躍動している姿を見たいと思っていることでした。選手が思い切り投げて、思い切り打って、思い切り走って、華麗に守るところを誰もが見たいと願っていました。必要なのは躍動感だったのです。しかし、1980年代以降の野球は、そういったものとは少し縁遠いスタイルになってしまいました。あの「マネーボール」という本が書かれた影響と、100マイル(161キロ)の速球を投げる投手が多くなったことで、野球の試合から躍動感が消えてしまいました。100マイルの速球は、打ち返すのも困難ですが制球も困難なので、三振と四球とホームランがやたらと増えました。そうしたスタイルの野球の試合では、躍動感が不足しています。
ソードらは、どんな対策をうつことができるかブレインストーミングをして意見を出し合いました。ソードは言いました、「既存のあらゆるルールについて、1個1個変更すべきか否かを検討しました。バットを変更すべきではないかとか、ボールを変えるべきではないかとか、ベースを変えるとか、フィールドの大きさや形を変えるとか、野手の人数を変えるべきではないか等々です。また、イニング数、ボールとストライクの数も変更すべきか検討しました。芝生の長さを変えることも検討しました。そうすると、ゴロのスピードが速くなり安打が増えるとおもわれるからです。また、本当に真剣に検討したとは言えませんが、観客がホームランボールをインフィールドに投げ返してプレーを続行する案も検討しました。まあ、私はその案にはあまり乗り気ではないのですが。」と。
ソードは自動ストライク-ボール判定装置の導入自体は野球のルールの変更には該当せず、単に運営方法がかわるだけだと思っています。ストライクとなるゾーン、つまり、高さや幅の変更を検討することは重要だと認識しています。ストライクゾーンをどうするかは非常に重要で、それを変えると、野球は根本的に大きく変わるでしょう。ソードとマクフェイルは様々なストライクゾーンの形を検討しました。三角形、丸形、楕円形、台形、平行四辺形とあらゆる可能性を検討しました。しかしながら、ストライクゾーンを現在の長方形から変える案は却下されました。というのは、ストライクをそれらの形にした場合には、自動ストライク-ボール判定装置の援助が無ければ球審が正しい判定が出来ないと思われますが、野球は全国津々浦々で行われており、自動ストライク-ボール判定装置の全ての試合で導入することは非現実的だからです。
時間の経過とともに、野球は様変わりして、安打が出やすくなりすぎるとか出難くなりすぎるなどすることがあります。そうした場合にも自動ストライク-ボール判定装置が有れば、即座にストライクゾーンを変更して対応することが可能です。自動車レースではテクノロジーが進化してスピードが速くなりすぎるとパワーユニットの排気量を小さくして対応していますが、それと同じことが可能なわけです。ソードは、現在のMLBの審判員は非常に優秀で、その能力はほとんど自動ストライク-ボール判定装置と遜色ないと認識しています。しかし、ストライクゾーンを変更すると、審判員がそれに慣れて正確なコールができるようになるには数年を要するだろうと推測しています。しかし、自動ストライク-ボール判定装置を導入した場合には、即座に対応が可能です。ちょっと設定をいじったら済むことだからです。MLB機構は、審判員組合と労働協約を締結していて、メジャーリーグに自動ストライク-ボール判定装置を導入することに関しては合意できていると伝えられています(審判員組合はこの件に関してコメントを拒否していますが)。自動ストライク-ボール判定装置の導入案は多くの審判員に反対されることが予想されます。今シーズンの途中でメージャーリーグの審判員の最多出場記録(5,376試合)を更新したジョー・ウエストは、かつて審判員組合の委員長を務めた経験もありますが、私に「ストライクかボールかを決められるのは球審しかいません。」と言いました。ウエストは、自動ストライク-ボール判定装置の導入は誰も望んでいないと言います。それを導入しても混乱が引き起こされるだけだと言います。(MLB機構は、導入しても混乱が起こることはまず無いだろうと主張しています。また、導入したとしても、自動ストライク-ボール判定装置が下すボールかストライクの判定に、生身の人間の審判員が介入できる余地を残しておくと説明していました。)
MLB機構は、既に自動ストライク-ボール判定装置は機能的には何の問題も無いと結論付けています。現在は、導入した際にどういった影響がどのくらいの規模で出るのかを分析している最中です。今年、フロリダステートリーグ(マイナーリーグ、3A、2Aの下のシングルAに該当する)で自動ストライク-ボール判定装置が試験導入されました。そこで使われた自動ストライク-ボール判定装置はTrackMan(トラックマン社)製のものではなく、Hawk-Eye(ホークアイ社)製でした。ホークアイ社製が採用された理由は、性能とかを検討した結果ではなく、単に売込みが激しかったからのようです。)
私はソードに案内されて、ダックスの試合を観戦しました。その際、私はトラックマン社製のヘッドマウントディスプレイ(音声付き)を頭に着けました。球審が着けているのと同じものでした。ナイタ―観戦にはうってつけの気候でした。何人かの子供がダックスを応援していました。ディスプレイ内の1点が緑色に点灯しました。同時に、「ストライク」という電子音が聞こえました。電子音なのに少しうれしそうな音調でした。それに比べて「ボール」という電子音は心なしか暗めの音調でした。私は1球ごとに、ディスプレイに表示される球筋をチェックしました。投球の高低やホームベースのどのあたりを通過したのかが明確に分かりました。それを見たら、審判などしたことのない私でも正確にストライクかボールかをコールすることが出来ると思いました。おそらく、このディスプレイが無かったら、ホームベースの真後ろの球審が立つ位置にいても、私が球審を務めることは不可能でしょう。球が速すぎるので素人がコースが外れているとか、低すぎるとか判定するなんてことは到底不可能に思われます。その日私が学んだことは、そのディスプレイさえ装着していれば、私が球審と入れ替わっても誰も気付かないだろうということです。