6.
1990年代には、ヒトゲノム計画( Human Genome Project )に数十億ドルが注ぎ込まれた。DNA の配列を解読すれば、ガン、遺伝性疾患、さらには老化といった医学の最も厄介な問題を解決できるかもしれないという仮説があったからである。当時、クローン羊のドリー( Dolly )や映画「ジュラシック・パーク( Jurassic Park )」が話題になったが、巷には根拠のない自信に満ち溢れていた。バイオテクノロジーが台頭し始め、多くの研究者が人間が神の役割を担うべきかどうかという問いに向き合うようになった。しかし、ほどなくして生物学者たちは、現実はもっと複雑であることを思い知らされた。ガンを治すことも、アルツハイマー病や自閉症( autism )の原因を発見することもできなかった。DNA は生命の物語のほんの一部を語るに過ぎないことも分かった。では、何故、生物学者たちは一種の熱病のように遺伝子研究にのめり込み、DNA に固執することになったのか?おそらく一番大きな理由は、当時、既に DNA を研究し理解する手段があったことであろう。
それでも、フランシス・クリック( Francis Crick )が 1953 年の DNA の構造の解明に貢献したことを非難する者はいないであろう。構造を解明した日、彼はケンブリッジのパブに入った。彼は嬉しくて、生命の秘密を発見したことを黙っていることができなかった。彼と彼の研究チームの生命の神秘を解き明かすための貢献は非常に大きい。おそらく彼らほど貢献した者は他にいないだろう。彼らの発見後の数十年間は、科学史上最も生産的で刺激的な時代の 1 つだった。現在では、DNA という用語は誰もが知っている。DNA の二重らせん構造を教えない高校は無い。
現在は、AI 界隈が大騒ぎである。熱狂の対象が DNA から AI に代わったものの、再び自信に満ち溢れた時代を迎えている。サム・( Sam Altman )は、「スターゲート( Stargate )」計画のために 5,000 億ドルを調達すると語っている。アメリカ国内に新たな AI データセンター群を構築するという。多くの人たちが超知能の開発競争に非常に興味を持っている。重要性を認識し切迫感を持って議論している。私は、本当にそんなに重要なことなのかと疑問を持つこともあるし、時には彼らの議論が滑稽に思えることもある。一体全体、アモディやアルトマンらはどうしたら救世主のような発言をできるのだろうか。思うに、彼らは知能の基本的な全体像はすでに解明されていると認識しているのではないだろうか。また、未解明の部分は単なる細部に過ぎないと信じているのではないだろうか。
神経科学者の中には、人工知能の進歩が重要な閾値を超えたと考える者もいる。「人工ニューラルネットワークは認知の正しいモデルになる可能性があると本当に思っている」とユリ・ハッソン( Uri Hasson )は述べる。彼はプリンストン大学でコーエン、ノーマン、レイクの同僚である。このことは彼を興奮させると同時に、不安にもさせている。「私はほとんどの人とは正反対の懸念を抱いている」と彼は語る。「私の懸念は、最新の AI モデルが
人間に似ていることではなく、私たち自身が AI モデルに似ていることである」。簡単な訓練技術で人工のプログラムが人間のように振る舞うことができるなら、人間は誰もが考えているほど特別な存在ではないのかもしれない。それはまた、AI が知識だけでなく、判断力、創意工夫、狡猾さにおいても人間を凌駕することを意味するのだろうか?結果として人間よりも力をもつことになるのではないか?「最近、私たちが脳の仕組みを解明できるのではないかと心配している。この問いを追求したことは、人類にとって大きな間違いだったかもしれない」と彼は言った。それを聞いて私はいささか驚いた。彼は AI 研究者を 1930 年代の核科学者に例え、「彼らにとって今こそが人生で最も研究していて楽しい時期である。そして同時に、彼らは自分たちの研究が人類にとって重大な影響を及ぼすことも認識している。しかし、探求したいという好奇心が勝ってしまい、研究を止められない状況である」と述べた。
ホフスタッターの著書の中で、私のお気に入りの一冊は ” Fluid Concepts and Creative Analogies: Computer Models of the Fundamental Mechanisms of Thought. ”(未邦訳:「流動的概念と創造的アナロジー:思考の基本メカニズムのコンピュータモデル」の意)である。ちょっとオタクっぽい一冊である。大学時代にこの本に衝撃を受けた。「思考とは何か?( What is thinking? )」などと問う際には前提がある。それは、単に哲学的な問答をしたいわけではなく、真の答えがあるということである。1995 年にこの本が出版された当時、ホフスタッターの研究チームは、真の答えを返すことができなかった。わずかにヒントを残すことぐらいはできたが。この本を再びよく読み込んでみた。現在、AI 研究者は彼が切望していたもの、つまり思考の原理を機械的に説明できる手段を手に入れたかもしれない。私は、きっと彼はそれを喜んでいるだろうと推測していた。しかし、実際に会って話を聞いてみると、彼はひどく落胆している。また、怯えているようでもある。「現在の AI 研究は私の考えの多くを裏付けているが、同時に人間性の根幹にある美しさを損なっている」と彼は私に言った。 「私がもっと若かった頃には、創造性の根底にあるもの、つまり創造性のメカニズムを知りたいと願っていた。それは私にとって聖杯であった。でも今は、それを謎のままにしておきたいと願っている」。もしかしたら、思考の秘密は誰もが想像するよりもずっと単純なものなのかもしれない。高校生、いや機械でさえ理解できるような類のものなのかもしれない。♦
以上