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ジョンソン・エンド・ジョンソンのベビーパウダーは、FDAの分類上は化粧品に該当します。この分類の製品に対するFDAの権限は極めて限定的です。連邦食品・医薬品・化粧品法 (Federal Food, Drug, and Cosmetic Act)は800ページ以上あるのですが、化粧品に関する記述はたったの2ページしかないのです。化粧品という分類には、口紅、マスカラ、モイスチャライザー、アンチエイジング美容液など、化粧品売場に並ぶものだけでなく、歯磨き粉、制汗剤、シャンプーなど、ほとんどのアメリカ人が毎日使う製品も含まれています。
805億ドル規模の化粧品産業を規制する責任を負っているのは、FDAの化粧品部門です。同部門の職員はわずか30名で、年間予算は1,000万ドル未満です。FDA全体の予算は600億ドルですので、ほんの誤差レベルでしかなく、ペット用の食品や医薬品の規制に費やされている予算の 20 分の 1 でしかありません。FDAにおける化粧品の地位の低さは、急性リスクと慢性リスクの違いに起因しています。化粧品にリスクがあるといっても、何年も使い続けて初めて症状が出たり死を引き起こす可能性があるだけですから、当局が安易に規制を先延ばしするのも致し方ないことなのかもしれません。しかし、化粧品がほとんど規制されていないもう1つの理由は、化粧品業界が80年以上にわたって、議会対策を上手く行ってきたことにあります。それによって、化粧品会社が守らなければならない規則はほとんど議会で更新されていません。現在、化粧品会社は販売前に製品の安全性テストを実施する法的義務はないのです。FDAへの登録義務はなく、成分表示の義務もなく、検査記録を保存したり提出したりする必要もなければ、発疹や頭痛や思春期早発症や癌などの有害事象を報告する必要もないのです。もし、化粧品に分類される製品の中のある製品が生命を脅かすものであったとしても、当局は製品の回収や生産の停止を指示することはできず、企業にそのようなことをするよう促すことしかできないのです。非営利の研究機関である環境ワーキンググループ (Environmental Working Group:略称EWG)で規制当局関連の調査部門の責任者を務めるスコット・フェイバー(Scott Faber)は私に言いました、「化粧品の規制ほど杜撰なものはありません。」と。EWGが調べた限りでは、イギリス、カンボジア、ミャンマーなど80カ国以上で、化粧品に関する規制がアメリカよりも厳しいものでした。また、パラベンからホルムアルデヒドまで、2,400種類以上の化粧品成分を禁止している国もいくつかあるのですが、FDAが使用を禁止したり制限しているのは十数種類に過ぎないのです。
「アメリカ人のほとんどは、問題があれば政府が対処すると考えています。しかし、適切な規制が無く、あっても緩いせいで国民に危害が及びそうで、国民を無防備にしているものがあります。その最も典型的なものは、化粧品に関する規制です。」と、予防医学研究者のデイビッド・マイケルズ(David Michaels)は私に言いました。彼は、労働安全衛生局(Occupational Safety and Health Administration)の元局長で、「The Triumph of Doubt: Dark Money and the Science of Deception(未邦訳)」の著者です。その著書で、彼は、タルクの件は企業や業界が規制当局を上手く懐柔した典型的な事例であると指摘しています。化粧品業界は、タルクの規制が制定される際に、さまざまな形で介入してその文言を修正させました。それによって当局からほとんど監督を受けずに済むようにしました。化粧品業界は昔から非常に強力な発言力を持っています。かつては、化粧品工業会(Cosmetic, Toiletry, and Fragrance Association:略称CTFA)という業界団体がありましたが、現在はパーソナルケア製品評議会(Personal Care Products Council:略称PCPC)に変わりました。現在でも変わらず強力な発言力を持っています。
CTFAは1970年代にその影響力を発揮し始めました。当時、公益科学センター(Center for Science in the Public Interest:アメリカを拠点とする非営利の監視団体)や環境防衛基金(Environmental Defense Fund:アメリカを拠点とする非営利の環境擁護団体)などの圧力団体が、FDAに化粧品にアスベストを使うことを規制するよう働きかけていました。1973年にFDAは、化粧品に使うタルクには角閃石(アムフィボール)や温石綿(クリソタイル)等のアスベスト繊維を99.99%以上含まないことを要求する規則を提案しました。化粧品工業会(CTFA)は、現在最高裁判事を務めているブレット・カバノーの父親のE・エドワード・カバノーをロビイストとして採用しました。彼はその後20年間にわたりその組織の運営に携わりました。彼の報酬は高額で、多い時の年収は450万ドルもありました。
化粧品の業界団体は「タルク規制対策チーム」を組織して、この新規制に抵抗しました。その規制の影響を受けるのは、ジョンソン・エンド・ジョンソン、エイボン社(アンフォーゲッタブル・パフュームド・タルクという製品を販売)、コルゲート・パルモリーブ社(カシミア・ブーケという製品がタルクを使用)などが、製品中のタルカムパウダーが癌を引き起こしたとする訴訟に直面することになりました。
CTFAは、FDAが提案した検査方法について、「偽陽性と偽陰性の両方の所見を導き出す可能性があり、費用負担も大きく、非常に手間がかかる」と主張しました。CTFAがより感度の低い検査方法を採用すべきであると主張する中、CTFAのある会員企業の1人の従業員が同僚にFDAによる新しいアスベスト規制について、おそらくあまり心配する必要はないだろうとメモで伝えていました。そのメモには理由が記されていました。「FDAの化粧品関連部署には、科学的に詳細な分析を行って危険性を証明する人的資源も資金も無いのだから」と、記されていました。
1976年、FDAはタルクに含まれるアスベストを規制することをほぼ諦めました。タルクパウダー市場で圧倒的なシェアを誇るジョンソン・エンド・ジョンソンが、政府の規制を前に自主規制を行うようCTFAに働きかけていたことも一因でした。CTFAは、化粧品に使うタルクに「繊維状アスベスト鉱物を含まない」という自主基準を設定し、化粧品業界全体で遵守するように決めました。CTFA加盟全社が、基準に従いましたが、各社は独自の検出方法を選択することができました。温石綿(クリソタイル)の検査は行わない企業がありましたし、角閃石(アムフィボール)の含有量がFDAが当初提案した値の5倍になった時にだけ表示する企業もありました。アスベストを研究し、タルク訴訟で原告側の証人として証言してきた疫学者デビッド・エギルマン(David Egilman)は、そうした企業の姿勢を批判していました。消費者の健康リスクを除去するということに真剣に取り組んでいないと指摘していました。(パーソナルケア製品評議会(PCPC)に過失と共謀があったとして起こされた訴訟は、昨年ニュージャージー州では棄却されました。)
それ以来、化粧品業界の各社は、この自主基準を最大限に利用しています。1976年以降に製造されたタルク製品はアスベストを含んでいないと主張しています。そうした主張を大々的に繰り広げ続けています。ジョンソン・エンド・ジョンソンのウェブサイトを見にいくと、「タルクの安全性に関する事実」というページが有り、その主張を見ることができます。化粧品業界団体と加盟各社は、タルクと癌の相関関係を示す医学文献に異議を唱えるために、自主基準を利用し続けているのです。この自主基準が導入される前に発生した癌症例は、タルクに含まれていたアスベストが原因かもしれない、と化粧品業界は主張しています。しかし、自主規制導入後のタルクパウダー等はアスベストの検査が十分に行われており安全なので、これ以上の規制は必要ないと主張しています。しかし、本当に規制が不必要なのでしょうか。実際に、2019年にFDAが検査したところ、アメリカで売られているいくつかのタルク製品からアスベストが検出されました。その中には、ジョンソン・エンド・ジョンソンのベビーパウダーもありました。(ある企業は声明を出し、検査ミスの可能性があると主張していました。FDAは調査結果は正確だったと主張しています。)
もう1つCTFAが上手く立ち回ったことがあります。それは、2000年の末のことでした。アメリカ厚生省の国家毒性プログラム(National Toxicology Program:略号NTP)が、アスベスト状繊維の有無にかかわらず、タルクを発がん性物質に分類することを初めて検討した時のことでした。CTFAのある会員企業は同業者との会合でプレゼンを行って、NTPがタルクを発癌性物質に分類すると「民事訴訟が激増し、売上は急減するだろう。」と述べていました。そこでCTFAは、コンサルタント企業のワインズバーググループ(Weinberg Group)やシンクタンクのCenter for Regulatory Effectivenessなどを頼りました。それらは、タバコ事業者がタバコの規制に抵抗する際にも助太刀をした実績がありました。そして、何とかしてタルクを発癌性物質に分類させないようにNPTに働きかけました。また、NTPがタルクを規制する前にアスベストに関する自主規制を導入しました。当初は、NTPの研究者の圧倒的多数が、タルクを発癌性物質に分類することに賛成していました。しかし、働きかけの結果、状況は大きく変わりました。その後、タルクは全く発癌性物質であるか否か審議されることはなくなりました。NTPが一度発癌性があると分類することを検討したのに、その後そう分類することを全く検討しなかったという事例は非常に稀です。ジョンソン・エンド・ジョンソンにタルクを供給している企業のある幹部は、「我々(タルク業界)は、タルクが発癌性物質に分類されるかもしれないという懸念を見事に除去できました。」と、私的なメールで打ち明けていました。しかし、そのメールを送られた者の内の1人は、今後も新たな規制が出来てしまう危険性は完全には排除されていないとメールで返信していました。そこには、「当局に対する働きかけを緩めてはならない。」と記されていました。
その後まもなく、CTFAは新しい幹部を迎え入れました。ジョン・ベイリー(John Bailey)は、10年間FDAの化粧品部門の責任者を務めていたのですが、退職した後に新たな幹部として迎えられたのです。それ以降、ベイリーは、ジョンソン・エンド・ジョンソンなどがタルク関連で起こされた訴訟において専門家証人としてたびたび証言しました。