4.精神科医フィル・ウォルフソンによるケタミン・セラピーのトレーニング・セッションの様子
フィールド・トリップ・ヘルスは、エンバー・ヘルスやニューヨーク・ケタミン・インフュージョンとは対照的に、治療抵抗性のうつ病患者以外の幅広い客層を対象としています。フィールド・トリップ・ヘルスのニューヨークのクリニックの医療ディレクターのベン・メドラーノは、1990年代にパーティーなどで乱痴気騒ぎをする際に初めてケタミンなどの幻覚剤を試したと語っていました。彼は、その時の経験を踏まえて、違法に幻覚剤などを調達するようなことは推奨できないものの、それなりの効用があるので、うつ症状の改善などを目的とした利用をもっと拡大すべきであると主張しています。しかし、残念ながら、ケタミンなどの幻覚剤の投与による効果は、実験室や二重盲検比較試験で簡単に検証できるものではない、と彼は主張しています。「ケタミン等の幻覚剤は、意識の深淵部に作用して効果を発揮します。意識の深淵部で起こることを検知したり認知したりする術など存在しないわけですから、脳科学者や精神科医であっても、それについて多くを語ることはできないのです。残念ながら、私たちは意識がどこに存在するのかさえもわからないのですから。」と。
もし、ボトックスと同じように、セラピストによる幻覚剤でトリップする治療が一般的なものとなれば、メンタルクリニックの現場は二分されるでしょう。一方には、幻覚剤の治療を受けようとする人たちが集まり、もう一方には、幻覚剤などとは一切関わりたくないと考える人たちが集まるでしょう。6月下旬に、私はキャッツキル山地(ニューヨーク州の中部にあるゆるやかな山地)に行き、メンラ・インスティテュートという寺院のような治療施設に行きました。そこでは、沢山の人が訪れていてケタミン・セラピーを上手く実施するためのトレーニング・セッションが行われていました。トレーニング・セッションを受けている人は、多くが心理療法士でしたが、救急救命医も沢山いましたし、PTSDを発症した退役軍人に幻覚剤支援精神療法を施す活動をしている退役軍人たちもいました。また、マイアミに本拠のあるNue Life Health(ヌエ・ライフ・ヘルス)というスタートアップ企業のトップもいました。
また、2014年に初版が出版された著書”The Body Keeps the Score”(邦題:身体はトラウマを記録する ー 脳・心・体のつながりと回復のための手法)がAmazonの売れ筋ランキングで10位以内に頻繁にランクインしている精神科医のベッセル・ヴァン・デル・コークも出席していました。ヴァン・デル・コークは、PTSDの治療薬であるプロザック(イーライリリー社が開発したうつ病治療薬)とゾロフト(ファイザーが販売する選択的にセロトニン再取り込みを阻害する抗うつ薬)の初期の研究に携わった経験があります。彼は、言いました、「プロザックもゾロフトもそれなりに抗うつ症状を和らげます。しかし、うつ病を改善させる効果は全くありませんでした。現在、巷で流通している抗うつ薬は、ほとんどうつ病を改善することはありません。」と。ヴァン・デル・コークは、数年前にウォルフソンからケタミンの注射を打たれたことがあります。その体験について彼は言いました、「私は宇宙のかなたに吹き飛ばされたように感じました。幻覚などを感じることは無く、ただただ記憶が無くなってしまったような状態でした。」と。それで、彼は、ケタミンを投与されて確かにトリップしたけれども、ケタミンはうつ病の症状をほとんど改善しないという懐疑的な考えを持つに至りました。彼の妻であり共同で研究をしているリシア・スカイの意見は違いました。彼女もトレーニング・セッションに参加していたので、ケタミン・セラピーに関してある程度の知識がありました。彼女は、ケタミンを投与された後のヴァン・デル・コークに変化があったことに気付いていました。彼女は私に言いました、「ケタミンを投与される前の彼には、心の奥底に焦りのような感情が隠れていて、とても動揺しやすかったんです。でも、彼の中からその焦りが消えましたし、動揺しやすさも無くなりました。」と。彼女は夫の方を向いて「あなたは確かに変わったわ。」と言いました。彼女が言っていのですが、彼女と夫の間でケタミンが効くか否かということについて意見の相違があったわけではありません。それなりの効果があるのですが、それを彼女は大きいと感じ、夫は小さいと感じたということなのです。ケタミンの投与を受けた当事者の夫は、もっと大きな効果を期待していたということなのです。
その日、メンラ・インスティテュートがあるアルスター郡は、とても好天気でした。空は青く、山々は青々とした鮮やかな緑に覆われていました。トレーニング・セッションに受けている者たちは、木製の梁のある大きな部屋に集まりました。正面にきらめく銅鑼があり、その脇にはチベットの壁掛けが3つ飾られていました。ウォルフソンは片側に小さな祭壇を設けていました。彼の息子の写真が入った額が置かれていました。トレーニングの4日目だったのですが、参加者の半数がケタミンの注射を打たれ、残りの半数がそれを見守りました。壁には大きな紙が何枚も貼られ、前日のトリップの状況を記すようになっていました。書かれている内容を見てみると、「神の息吹を感じた」とか「祖先からのお告げがあった」など、さまざまな言葉が書き込まれていました。部屋の片隅では、1人の女性がトリップするためにヨガをしていました。様々なアーサナ(ヨーガの座法・体位)を試していました。休憩所の食堂で野菜のみの朝食をとっていた人たちも入ってきました。そして、床に敷かれたマットや枕の上に腰を下ろしました。
ケタミン・セラピーのトレーニング・セッションを開始する合図があり、それからルーミー(ペルシャ語文学史上最大の神秘主義詩人)の詩が朗読されました。1人のアシスタントが、参加者全員の名前が書かれた紙コップを持って来ました。そこにはケタミンが入った注射器が入っていました。それから1時間、私は参加していた者たちがトレーニング・セッションを受けるのを見守りました。ケタミンを注射された者がトリップしているのを、何人かが注意深く監視していました。時折メモを取ったり、動く様子を動画撮影したりしていました。スピーカーからドラムとディジュリドゥ(オーストラリア大陸の先住民アボリジニの金管楽器)だけの楽曲が流れました。その次に、レインスティック(空洞の木にサボテンのとげを打ち込んで、種や小さな雑穀物を封入したガラガラと音のするチリの体鳴楽器)だけの楽曲が続きました。ヨガをしていた女性は両手を広げ、恍惚とした表情で体を振るわせていました。部屋の奥の方で、1人の男がすすり泣きを始めたのを見て、アシスタントの1人がウォルフソンに指示を仰ぎました。ウォルフソンは、「あの男性が楽曲を聴けるように手助けしてあげなさい。」と言いました。
1時間後、トリップしていた者たちは醒めました。ウォルフソンがマイクを握って、「リラックスして下さい。意識を落ち着けて下さい。泰然として、自分自身に意識を向けて下さい。そして、思いやる気持ちを忘れないで下さい。」と言いました。数名のアシスタントがスライスしたオレンジが乗ったトレイを持って回りました。トリップしていた者たちはトリップした際のことを話し始めました。1人目の人は、「見る旅というより、感じる旅だった。」と言いました。2人目の人は、前回トリップした時(低用量のケタミンを経口摂取した)の方が自分には有益だったと言いました。今回は、前回より高用量のケタミンを筋肉注射で投与されたのですが、意識がぶっ飛びすぎて良い具合にトリップできなかったと言っていました。3人目の人は、「心の奥底に子供の頃からずっと消えない辛い気持ちがあったのですが、大量の涙で全て洗い流すことができました。」と言いました。ヴァン・デル・コークは、中容量(60ミリグラム)のケタミンを投与されました。流れていた楽曲にうっとりしたと言いました。彼は「1つ1つの音が映像を生み出しました。1つ1つの音が形を持っているようでした。」と言いました。また、他の人は、「この週末のセラピーのおかげで、トランス・ミュージックというものを本当に理解できるようになりました。」と言いました。その後、セラピーを受けた者たちは朝食を食べた後、愛着理論(心理学、進化学、生態学における概念で、人と人との親密さを表現しようとする愛着行動についての理論)に関するトレーニング・セッションに参加しました。