中国の対米輸出急増! コロナ禍も米中貿易摩擦も関係ない

米中対立、コロナ蔓延下でも賢く対処する中国の起業家

昨年の1月下旬、中国にある米国大使館と5つの領事館(成都市にもある)は、全ての米国人スタッフを退去させるという決定を下しました。スタッフの配偶者と子供たちも含まれました。中国にある他の多くの大使館や外国企業も同様の決定を下しました。私は妻レスリーとともに、地元の公立学校に通う双子の娘たちと一緒に残ることにしました。そのような決定をしたのは、どの国がパンデミックにより上手く対応する可能性が高いかを考慮したわけではありません。単に、私がパンデミックの深刻さを理解できていなかったことが理由です。その後、成都市は約1か月半も封鎖されましたので、私たち家族は何かと苦労しました。人口1,600万人を超える成都市で、公表されていた数字によると2月末時点での感染者数はわずか143人でした。その後の3か月間で、成都市では感染者は1人も出ませんでした。そうした数字を見ていましたから、私たち家族は感染するリスクなと無いと感じていましたし、退去する理由もありませんでした。
 3月末、中国政府は、ほとんどすべての外国人の入国を禁止しました。有効な就労ビザを持っていたとしても入国できませんでした。当局は、海外から帰国する中国人を隔離して全国レベルで陽性検査と濃厚接触者の追跡調査をしていれば、ほとんど人々の日常生活に制限をかけなくても感染は拡大しないと確信していました。5月上旬までに、私の娘が通う小学校では児童が再び通学するようになり、数週間後にはマスクの着用もしなくなりました。その月、封鎖以来初めて国内線の飛行機に乗りましたが、空席はありませんでした。
 私は中国に居てパンデミックの日々を過ごしたわけですが、当初私が推測していたのは、他の国も中国と同じような経緯を辿るのだろうなということでした。最初に感染が発生し、次に都市が封鎖され、最後は感染が終息するという経緯です。しかし今になってみると、国によって状況はさまざまであることが明らかになりました。成都市の封鎖期間の1か月半は記憶の中では短く感じられました。私は理髪店に行くのを我慢する必要もありませんでしたし、お気に入りのレストランは全店が再開し通常営業になりました。私がテレビ会議システムを使用した唯一の理由は、人との接触を避けることではなく、米国に居る家族や友人とコミュニケーションをとることでした。5月初旬、大学時代の古い友人の何人かとZoomで会議をし、米国の封鎖下の生活について教えて貰いました。その後、私はパソコンを閉じて、市内のナイトクラブに行き状況を取材しました。クラブは満員でした。ダンスフロアには何十人もいましたが、マスクを着けていたのは女性1人だけでした。
 第2四半期には、中国経済は再び拡大に転じていました。7月の輸出は前年同月比7.2%増となりました。私はちょっと長旅をして、貿易の中心地の1つである浙江省へ行きました。私がそこで出会った起業家たちの誰もが口にしていたのは、コロナ後の売上回復の速さに驚いたということでした。また、米中間の貿易戦争の影響で苦しんでいるという者は誰もいませんでした。小規模輸出業を営む数人は、関税を回避するために商品の価値を過小報告していると言っていました。しかし、他の人たちが言うには、大規模輸出業者はリスクが高すぎるのでそうしたことはしていないということでした。一般的に、中国の輸出業者は関税等は米国の消費者に転嫁していて、中国政府は輸出業者に対して長年に渡って税金を還付する政策を維持し続けています。
 中国の輸出業者たちが米中貿易摩擦の影響を避ける別の方策もありました。南シナ海に面する玉環市で、自動車用の精密部品を製造する企業で輸出部門を統括している女性に会うことが出来ました。彼女が言うには、米国の顧客企業は契約で彼女の会社に禁止事項を定めていました。それは、その会社の名前を彼女の会社のウェブサイトの取引先一覧に掲載しないということでした。彼女は言いました、「当社はその米国企業と取引していることを公にすることはできません。先方は、精密部品を中国から入手していることを人々に知られたくないのです。」と。
 こうした状況なので彼女がトレードショーや見本市のために海外へ出張することはありませんでしたが、直接会って接触しなくてもそれほど支障はありませんでした。中国最大の卸売市場がある義烏市でも、人々は素早く順応していました。通常、義烏市には約1万人の外国人が住んでおり、さらに多くの外国人が短期滞在で訪れて取引をします。近隣地域はさまざまな国籍や地域の料理を食べることが出来ました。しかし、今ではすっかり寂れてしまったようでした。午前10時ごろ、通りを歩いてみましたが、廃業したインド料理店が見えました。
 近くのロシアと中央アジアの貿易を専門とする仲介業者が集まるエリアでは、営業しているのは1社だけでした。その会社の社長のマオ・ユアンクイが言うには、パンデミックの影響で従業員の労働時間を変えたということでした。彼は言いました、「午前中は会社は閉めています。その時間帯は取引先のロシアの企業が始業前ですからね。それに、ここのところ商談はスマホかウィーチャットで済んでしまいますからね。顧客がこの事務所に来ることは無くなりましたね。」と。
 マオはウズベキスタン、カザフスタン、ロシアに荷物を出荷していました。コロナパンデミック前は、緊急の注文には航空便を使っていました。しかし、航空貨物便は大幅に縮小されてしまいました。パンデミックの前数年間、中国の一帯一路構想に関する投資によって、義烏市からマドリッドまで中央アジアを横切って8,000マイル以上におよぶ世界最長の貨物鉄道が建設されていました。マオは最近ではその貨物鉄度を使ってたくさんの荷物を動かしています。パンデミックが始まってから、その貨物鉄道の取扱荷物量が増えましたが、往復の便の間で貨物取扱量には大きな差が生じています。中国から沢山の貨物を積載したコンテナが出ていきますが、入ってくるのは3分の1ほどしかありません。その原因は、中国側の問題ではなく、他国で輸出企業の生産能力が落ち込んでいることにあります。パンデミックが始まる前でも、中国は世界の輸送用コンテナの96%を生産していましたが、今ではそれ以上になっているようです。マオは私に夜遅くなってから見に来た方が良いと教えてくれました。その方が実態が良く分かるだろうということでした。私が再び夜半に訪ねてみると、そのエリアにある企業はどこも仕事中でした。マオの会社からは光が漏れていました。中では、従業員が忙しそうにスマホやパソコンに向かっていました。彼らは、中央アジアの時間に合わせて働いていました。