本日翻訳して紹介するのは、the New Yorker のWeb版に8月24日に投稿の Joshua Yaffa によるコラムです。タイトルは、”Putin’s Deadly Revenge on Prigozhin“(プーチン大統領のプリゴジンに対する致命的な復讐)となっています。
本日邦訳したコラムは、 Joshua Yaffa による寄稿です。氏はロシア関連のコラムをしばしば寄稿しています。プリゴジンが死亡した件に関するコラムでした。おそらく、プリゴジンはプーチンによって殺されたのでしょう。明らかになったのは、プーチンは自分に反抗的な者は決して許さないということです。許さないということは、殺すということです。独裁者として、それは当然のことです。独裁者は国内の敵を極度に恐れます。国内の敵さえ押さえ付けることができて、外敵から自国を守れる軍を保有していれば、体制を永遠に維持できるからです。北の若大将はせっせと危険人物を処分しています。多くの国民が飢えようがお構いなしです。彼の性格が特に残忍というわけではないと思います。独裁者で守るべきものが大きければ、誰でも同じ行動をするのではないのでしょうか。
さて、プリゴジンは2つのミスを犯しました。1つは、クーデターを企てたことです。独裁国家で独裁者に歯向かうようなクーデターを企てたら死が待っています。もう1つのミスは、クーデターを途中で止めてしまったことです。軽すぎるだろっ!死ぬ気で蜂起したんじゃないのか!義は無かったのか!プリゴジンは死にたくなかったら、クーデターをやり遂げるしかなかったのです。同じ死ぬにしても、クーデターが失敗して死ぬのと、クーデターを止めた後でプーチンに殺されるのでは、前者は名誉が保てます。後者、言いくるめられてクーデターを止めた末に殺されたプリゴジンは、間抜けでしかありません。
私は、加藤の乱を思い出しました。加藤氏は途中で矛先をを収めたのですが、彼の政治生命は絶たれました。あの時も、途中で止めるんかいっ!とか、思いつきでやったんかいっ!と非難轟轟でした。会社でも軍でも国でも政党でも、クーデターをやるなら、最後までやり遂げるというのが教訓です。途中で止めるとどうなるか?義が無かったと見なされます。その後、一生冷や飯を食うこととなります。
では、以下に和訳全文を掲載します。詳細は和訳全文をご覧ください。
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