ロボットがあなたの仕事を奪い取る?奴は週7日24H働いても乳酸を溜めず、有給や忌引で休むこともない。

3.職を奪い取る脅威となるのは、ロボットよりも移民。

 フューチャリストは過去の事象を分析することにによって、起こりうる未来を予測します。過去の事象を事実に基づいて分析して理路整然と説明できなければなりません。ロボットが将来どうなるかということを予測するのはそんなに難しいことではありません。実際、過去にフューチャリストの多くが、ロボットは増え続けるだろうと予測していましたが、現実にロボットが増え続けているのを見ると、予測が正しかったことが分かります。しかし、ロボットが勝手に増えたわけではありません。増え続けているのは、投資する人、作る人、売る人、買う人、使う人がいたからです。ロボットが歴史を作ることはありません。それが出来るのは人間だけです。歴史を作るのはスマートカーでは無いのです。

 コーネル大学の歴史学者ルイス・ハイマンは、経営コンサルタントが幅を利かせるようになったのは、この100年のことだと言います。経営コンサルタントたちが雇用主を指導することによって仕事のやり方が再設計されて変わってきました。仕事のやり方は、ロボットや自動化の進展に適応して変わって行きました。仕事の仕方が、ロボットやり方にだんだん似ていきました。ハイマンの説明によれば、そうした現象は1920年代から始まっています。それは、ちょうど経営コンサルタントという職業が生まれた頃です。その後、1950年代に大きな自動化の波が起こりました。自動化という言葉が産み出されたのは1948年です。「可能な限り、人の代わりに機械を使用するべきです。」と米国事務管理協会の記者が1952年に提言しました。機械に仕事を奪われないようにするために、労働者は機械と同じくらい柔軟にならなければなりませんでした。出来るだけ業務を優先し、組合を組織せず、夜も働かなければなりません。健康保険や雇用保険や年金等も要求しにくくなっています。クリスマスも働けると言わなければなりません。労働者は、雇われやすくなろうとすればするほど、機械に似ていくので解雇されやすくなりました。

 「コンピューターの台頭と臨時雇用者の増加は密接に関係しています。」とハイマンは書いています。1958年に、エルマー・ウインターが人材派遣会社マンパワーを設立し、全国の多くの企業が経営コンサルタントの指導を受けて人件費の削減に努めるようになりました。ハイマンは次のように言います、「1950年代の戦後景気の真っ只中に始まったのですが、米国では仕事のやり方がすっかり作り直されました。企業の上層部には経営コンサルタントが入り込み、中層部では臨時雇用者の割合が増え、下層部では労働組合に加入している従業員が弾かれるようになりました。企業の中のどの階層においても、柔軟な働き方が求められるようになりましたが、それは雇用が不安定であることを意味していました。

 ハイマンは、戦後の企業の重要な特徴は、安定した労働力、内部留保、最小化されたリスクだと言います。それらが資産よりも重要視されるようになりました。1970年代初頭に、ハーバード・ビジネススクールのマイケル・ポーターは外部委託を導入した企業経営を提唱しました。1980年代までは、多くの企業が無駄をそぎ落とす必要にせまられていました。(ちょうど当時、私はマンパワー社からの派遣雇用者としてポーター社で働いていました。)そして、1990年代までは、ダウンサイジングする必要がありました。もしも、企業の目的が物を作って人を雇うことではなく、投資家の利益を最大化することであるならば、労働は臨時雇用者か、海外の低賃金労働者か、ロボットにさせるべきで、その中で最もコストの安いものにやらせるべきです。

 けれども、当時のロボットは名ばかりで今ほど実用的なものではありませんでした。1980年代、アップル社は本社をロボット・ファクトリーと呼んでいました(実際にはロボットなどないにもかかわらず)。「エレクトロニクス業界を理解するのは簡単です。そこでロボットと誰かが言ったら、白人以外の女性のことを指しています。」と、ハイマンは言います。エレクトロニクス企業の5分の1は自動化をまったく導入していません。導入して企業でも、自動化をほんの僅か導入しているだけです。シーゲイト社のディスクドライブは、シンガポールで女性が組み立てています。ヒューレット・パッカード社は非常に多くの派遣労働者を雇っているため、独自の人材派遣会社を設立しました。ハイマンが指摘していますが、エレクトロニクス業界で最も重要な技術は、女性の指先の器用さです。

 1980年代に、社会学者パトリシア・フェルナンデスケリーは南カリフォルニアのエレクトロニクス産業と衣料品製造業の研究を行いました。労働力の70%以上が白人以外の女性でした。その内の70%以上がヒスパニック系でした。サンディエゴで、フェルナンデスケリーは1人の女性に聞き取り調査を行いました。名前はフェルミナ・カレロです(国外退去を逃れるため仮名です)。カレロはメキシコ出身です。1980年、21歳の時にメキシコのティファナで働き始めました。金属のフィラメントをはんだ付けする仕事で時給65セントでした。彼女は1983年に米国に不法入国し、ケイプロ社(AppleⅡと一時期しのぎを削っていたKayproⅡというPCを製造していたメーカー)で働きました。ケイプロ社の創設者アンドリュー・ケイは、1960、70年代に、経営コンサルタントを雇って労働力を見直すための助言を受けていました。1980年代に、ケイプロ社は新聞に求人広告を出しましたが、英語を話せる人が電話をかけると、求人は既に埋まったと言って断られました。スペイン語を話す人が電話すると、是非応募するようにと言われました。ケレロがケイプロ社で働き始めるまでに、そこには700人の労働者がいましたが、ほぼすべての人がメキシコからの不法移民でした。同社の統括マネージャーは、メキシコ移民は一生懸命働き、何の問題も起こさないので、非常に頼りにしていると言っていました。カレロのケイプロ社での時給は5ドル弱でした。移民帰化局の捜査員が工場の抜き打ち検査に来た時、とっさの判断で彼女は備品庫に隠れました。彼女はロボットなんかではありませんでした。