Russia After Alexei Navalny
アレクセイ・ナワリヌイ後のロシア
Speculative history can be hollow, and a country in need of martyrs and saints is not to be envied, and yet it is hard to overstate the loss of Navalny.
推測で歴史を語ることは空虚で意味のないことである。また、殉教者や聖人を必要とする国をうらやましいとも思わない。しかし、それでもナワリヌイを失った痛手は大きいと言わざるを得ない。
By David Remnick February 25, 2024
1986 年、ミハイル・ゴルバチョフ( Mikhail Gorbachev )はソ連の政治改革を主導した。政治犯の多くが釈放された。ノーベル賞を受賞した物理学者アンドレイ・サハロフ( Andrei Sakharov )のように流刑から釈放された者も多かった。サハロフは、その後 3 年間モスクワにとどまり急進改革派の地域間代議員グループ指導者の 1 人となり、人民代議員大会の演壇に立って言論及び思想の自由の擁護に尽くした。1989 年 12 月 14 日、彼は心臓麻痺のため急死した。翌日に人民代議員大会での論戦が控えていた。「明日は戦いだ。」と彼は妻に言っていた。その後書斎で仮眠をとったが、目覚めることはなかった。彼の良心と勇気に基づく発言は、ソ連の希望の時代の訪れを予感させるものだった。
2020 年、ウラジーミル・プーチン( Vladimir Putin )は政権に対する民衆の批判を一掃することに着手した。秘密警察に宿敵アレクセイ・ナワリヌイ( Alexei Navalny )を尾行させた。ナワリヌイは欧州議会が創設したサハロフ賞(言論、自由の擁護に尽くした者や組織を顕彰)を受賞していた。ナワリヌイは 10 年近く、プーチン政権を「ペテン師と泥棒の集団( party of crooks and thieves )」と非難し続けた。プーチンは手を焼いていた。ナワリヌイは反腐敗財団を設立し、オープンソースを駆使するオンライン調査機関べリングキャット( Bellingcat )の力を借りて、プーチン政権幹部の大掛かりな腐敗を暴いた。ヨット、飛行機、別荘等、海外に隠した資産が数十億ドル規模であることを明らかにした。
FSB(ロシア連邦保安庁)のエージェント数名がナワリヌイをシベリアまで追跡した。彼らはナワリヌイのホテルの部屋に押し入り、ニコライ・ゴーゴリ( Nikolay Gogol:ロシアのリアリズム文学を創始した 1 人)の小説でもお目にかかれないような大胆な行動に出た。ナワリヌイの下着に致死性が高い神経ガスであるノビチョク( Novichok )を塗り付けた。ナワリヌイは毒を塗られた下着を身に着けてモスクワに向かう飛行機に乗った。座席は、13A だった。すぐに苦痛で呻いている自分に気づいた。呼吸も困難な状況になった。その便はオムスク( Omsk )市に緊急着陸した。ナワリヌイは死にかけの状態だった。最終的に彼は飛行機でドイツに向かうこととなった。妻のユリア・ナワリナヤ( Yulia Navalnaya )も付き添った。集中的な医療措置によって昏睡状態を脱した。着実に体力を回復させることができた。しかし、彼は西側の国の 1 つに永住することを拒否した。彼はいつも口癖のように、決して怖れるな、決して諦めるな、と言っていた。彼はそれを実践することにこだわった。決して口先だけの漢ではなかったのだ。2021 年 1 月にナワリヌイはモスクワに向かう便に搭乗した。彼は、自分の思想や態度や行動が原因でプーチン政権から疎まれている、あるいは怖れられていることを十分に認識していた。プーチンはモスクワの空港で彼を逮捕させた。
裁判で、ナワリヌイは過去に投獄された反体制派の活動家がたくさんいることに言及し、彼らと同様に自分も真実を明らかにしようとしているだけであると主張した。しかし、この裁判は元々やる前から評決が決まっていたし、形式上開かれただけのものであった。ナワリヌイはかつての反体制派の活動家と異なって政治家らしく振る舞うことを好んだし、彼らと異なる点も多かった。ナワリヌイは、法廷では高尚な比喩や暗喩を使って迫害者を非難することはなかった。もっとあからさまにプーチンを馬鹿にした。彼のことを「地下壕に隠れている臆病なこそ泥」あるいは「毒パンツ殺人鬼のウラジミール」など、コミカルに表現して馬鹿にした。
ナワリヌイの魅力の 1 つは、時を経るに連れて進化していったことである。彼は若い頃には粗野なナショナリズムに凝り固まっていた。それを捨て、勇気とユーモアの両方を身に付けた。彼は、夢を語るだけで活動しない知識人とは一線を画する。自由と繁栄に関心を持ち、多くの人に希望を抱かせた。彼は「幸福」という言葉をよく口にした。ソ連やソ連崩壊後のロシアの政治の世界ではほとんど使われない言葉である。彼の活動はまったく新しいものだった。彼の初期の抗議活動の 1 つは、ロシアのいくつかの大企業の少数株主となるというものだった。その立場を利用して大企業の腐敗を調査し暴露した。ロシアの大企業のいくつかがプーチン政権の関係者を違法に富ませていることを白日の下に晒した。
ナワリヌイは人々と同じレベルで話す方法を知っていた。彼はロシアの古典や獄中記をたくさん読んでいたが、「ハリー・ポッター( Harry Potter )」や「リック・アンド・モーティ( Rick and Morty:アメリカのテレビアニメ )」への愛情も語っていた。死の直前に友人セルゲイ・パルホメンコ( Sergey Parkhomenko )に宛てた手紙の中で、ナワリヌイはチェーホフ( Anton Chekhov )の戯曲「ワーニャ伯父さん( In the Ravine )」に描かれた絶望的な人物造形だけでなく、アレクセイ・バラバノフ( Aleksei Balabanov:ロシアの映画監督)の人気映画「カーゴ200( Cargo 200:本邦未公開)」に描かれたソ連末期の陰鬱な風景にも言及していた。
北極圏の辺境にあるポーラーウルフ(北極オオカミ)との異名を持つ刑務所でナワリヌイの死亡が確認されたのは、先週のことである。ものごとを正確に伝えるのが報道メディアの責務であるとするならば、殺害されたと表現するのが正しいのかもしれない。刑務所の発表によれば、死因は「突然死症候群( sudden-death syndrome )」であるという。不審な点が多い。死因をきちんと調べて明らかにしない姿勢は、欺瞞に満ちているし、残忍であると言わざるを得ない。
史実に関して、推測の話をすることを私は好まない。意味が無いことが多いからである。また、殉教者や聖人を必要とする国をうらやましいとも思わない。それでも、敢えて推測したいと思う。もしネルソン・マンデラ( Nelson Mandela )が政治犯として 18 年間収監されていたロベン島( Robben Island )で殺されていたら南アフリカの運命がどうなったか。あるいは、ヴァーツラフ・ハヴェル( Václav Havel )がプラハ( Prague )空港に近いルジネ刑務所( Ruzyne Prizon )の独房で毒殺されていたら、チェコスロバキアの運命がどうなったか。ナワリヌイは恐れを知らず、信念に基づいて行動した。彼の友人のエフゲニア・アルバッツ( Yevgenia Albats )は、政権に反抗的な態度をとり続けていると死ぬことになるから止めて欲しいと打ち明けた。ナワリヌイは、「死なない」と答えていた。彼の死は大きな痛手である。先日アルバッツが言ったように、少なくとも現時点では「希望は完全に失われた」と言える。
現時点では、プーチンの独裁体制は堅固なように見える。数週間後には選挙があるわけだが、毎度おなじみのインチキ選挙で彼が勝利することが確定的である。ちょうど 3 年目に突入したウクライナ戦争も、自分の思い描いたとおりに進んでいると認識しているだろう。また、アメリカ共和党とそれを牛耳る人物がウクライナ戦争への介入に興味がないことも認識しているだろう。プーチンには自分が安全だと考える理由がいくらでもある。彼は残忍な振る舞いをすることで、自分の地位をより強固なものにしてきた。数百人の政治犯を刑務所に拘留している。2 度も毒を盛られたウラジーミル・カラ=ムルザ( Vladimir Kara-Murza )やウォール・ストリート・ジャーナル( the Wall Street Journal )紙のエヴァン・ガーシュコビッチ( Evan Gershkovich )などである。
ナワリヌイの死に直面して、アメリカ国内でもさまざまな動きがある。立場の違いからなのか、人によってその行動は全く異なっている。あまりの差に唖然とさせられる。モスクワのスーパーで動画を撮影し、プーチンとのインタビューを終えてアメリカに戻ってきたばかりのタッカー・カールソン( Tucker Carlson )は、グレン・ベック( Glenn Beck:アメリカの保守的なラジオパーソナリティ、コメンテーター)にロシアの魅力を伝えることに全身全霊を傾けていた。トランプは自分専用のソーシャルメディアであるトゥルース・ソーシャル( Truth Social ) で、ナワリヌイの死に言及した。しかし、哀悼の意は伝えなかった。代わりに、ナワリヌイの死と自身の捜査状況を重ねて、自身が政治的目的の捜査を受けているとの主張を繰り広げている。一方、バイデン大統領の誠実で素早い対応は見事なもので賞賛に値する。ナワリヌイの死はプーチンに責任があると真っ向から非難した。また、サンフランシスコでナワリヌイの妻や娘と面会した後、ナワリヌイ殺害とウクライナ侵攻に関連してロシアに制裁を課すと再表明した。
2007 年にプーチンはミュンヘン安全保障会議( the Munich Security Conference )に出席した。各国首脳らを前に、30 分にわたってアメリカを批判し続け、怒りをぶちまけた。その怒りに基づいた政策を実行していくことを明確にした。それから 17 年経った今年の 2 月 16 日、同じ会議の場に夫を亡くしたばかりのユリア・ナワルナヤが急遽登壇した。彼女は夫と同様の勇敢さを体現していた。気丈に振る舞い、絶望する様を見せることを拒否した。彼女が主張したのは、プーチンが彼女の家族にしたことやロシアで行っている悪だくみの責任を問われる日がいつか来るということであった。「その日はいずれやってくる。」と彼女は言った。「遠い先のことではない」。♦
以上
- 1
- 2